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トップ > テロとの戦い > テロとの戦い - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年11月21日 10時)

ダイナ・ワシントンと美しき日々

高校生の頃からよくJAZZを聞いた。その後、東京に住み、渋谷のジャズ喫茶でアルバイトをした。今はすっかり変わってしまった「道元坂小路」に店はあった。地階に本格的にジャズを聞かせる会話禁止の店。2階が夜は酒を飲ませてJAZZを聞かせる店だった。
 
今なら、大人としていい酒に合う曲をかけるだろう。だが、、子供でとんがっていた私は前衛JAZZ、エリックドルフィンや後期のコルトレーンをかけてはオーナーにみつかって怒られていた。
その頃の私のお気に入りの歌手のひとりがダイナ・ワシントンだった。彼女のソウルフルなバラードは酒の味も引き立てた。
 
大好きな王家衛の映画のバックにもよく流れる。もの悲しくもソウルフルなダイナの歌声が作品に不思議なアンニュイな空気を作り出す。
そして、私のいちばん好きだった曲はアルバム『DINA!』 の「Lover Come Back to Me」だ。アップテンポから圧倒的な歌唱力で入っていく迫力は凄まじい。
39歳で急逝した歌姫。結婚を前、薬と酒の飲みすぎだったとの事だが真相は闇だ。
渋谷時代に観た伝説の1958年のニューポートJAZZフェスティバルの記録映画「真夏の夜のJAZZ」から歌姫は変わらず、そして美しき日々の記憶になった。
 
【What A Diff'rence A Day Makes】名曲
http://jp.youtube.com/watch?v=YUa5xgsij8o&feature=related
 
【Dinah Washington- I Don't Hurt 】ダイナの全盛期の貴重な映像
http://jp.youtube.com/watch?v=-FsqEG_3p5g&feature=related

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更新日:2008年10月10日 9時17分

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アンルイス、活動再開

歌姫論「アンルイスと六本木心中」はmixiの日記にも載せた。そうしたら、彼女の息子さんであるミュージシャンで俳優の美勇士さんが訪問してくれた。お礼のメッセージに返信もいただいた。母のDNAを受け継ぎピュアなロッカーだぜ。
 
アンルイスは'04年から活動を再開しており、2枚のセルフカバーアルバムを出し、22年ぶりのバラード・カバー集< CHEEK >の第4弾をリリース。クリスマスソング集で『Pink Christmas~Pukkalicious CHEEK IV~』というタイトル。美勇士さんも参加している。
 
今年のクリスマスはこれを聞いて過ごさせねばなるまい。ライブがないのは残念だが、このファンキーでピュアな母子を今後も応援していこう。
 
アンルイスと美勇士、インタビュー
 
【Pink Christmas~23年ぶりのCheek To Cheekかな?】 by music shelf
 
http://musicshelf.jp/?mode=static&html=special30/index
 
 
アン姐さんのかっこいいジュエリーや小物が買えるHP
 
【PUKKABAKKA】サイトのデザインもお洒落!
 
http://www.pukkabakka.jp/
 
 
【美勇士オフィシャル情報サイト】
 
http://myuji.jp/
 
【美勇士まぢでかぁ!?】美勇士ブログ
 
http://myuji.laff.jp/
 
 
 
 
 
 

作者:

更新日:2008年9月18日 11時18分

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アンルイスと六本木心中

自らを”バカな本物”と呼び、80年代を駆け抜けた歌姫、アン・リンダ・ルイス。バブルへと向かうステージでその存在感は圧倒的だった。この時代、松田優作とアンルイスは尖がっていた。ダントツでかっこよかった。松田優作の息子たちがいかにイケメンで渋い演技をしても、まだオヤジのかっこよさには遠くおよばない。同じバイリンガルで、才能豊かな宇多田ヒカルですらアンルイスと比べれば小娘にみえてしまう。
 
友人が彼女の元夫である桑名正博の妹と高校時代に同級生で、桑名の実家の帝塚山の豪邸を訪ねた際に交際中のアンルイスに会った話を聞いた。すごい美人なのにとても気さくでいい人だったと感心していた。そして「メッチャ、カッコエエ!」と力説した。
 
プラザ合意による急激な円高によりコピーではない外国製品、外国の文化が身近になった80年代。今までは単に憧れだったブランド品や海外旅行は日常のひとつになった。より海外の本物を求める人々の目は肥えた。
 
そんな中、70年代に「グッド・バイ・マイ・ラブ」のヒットでアイドルだったハーフのかわいい女の子は、密かに声を磨き続けてロッククイーンとして再度登場する。ギタリストの北島健二など共演者も楽曲も本物だ。
 
ステージで、「六本木心中」のイントロから”1・2・3・4!!”と枯れた声でシャウトして、踊りながら入っていく姿はむちゃくちゃかっこよかった。現在の若手歌手のように洗練されたものではないが、まさにバブルを予感させる爛熟したステージだ。その爛熟の中に悲しみや孤独を感じさせるのも、バブルという時代の危うさとはかなさを暗示していたのかも知れない。
 
六本木系。椎名林檎が”新宿系”ならばアンルイスは間違いなく”六本木系”だ。兵庫県宝塚市で生まれ、横浜で育って、高校時代にはすでに横浜では噂の美少女だったという。18歳からは六本木で一人暮らし。六本木で多くの恋をして傷ついてきたであろうリンダ。友人、竹内まりあがアンルイスに捧げた「リンダ」のメロディーを思い出す。アンルイスを育てたのは六本木だと思う。
 
20代に六本木で長くバイトしていた僕に、いちばん六本木を感じさせるのはアンルイスだ。六本木の地名も出てこない「六本木心中」を聞くと、不思議にあの街の交差点のネオンや仕事が終わって始発で帰る時の乃木坂のけだるさを思い出す。
 
バイトしていた龍土町の店は星条旗新聞社の近くで、外国人や芸能人の客も多かった。かっこいい人たちがたくさん来た。そんな人たちとアンルイスが重なるのかも知れない。いや、バブルの頃、会社の同僚と結婚したキングレコードからデビューしていたSATOKOがいつも六本木のクラブでこの曲を歌ってくれたからか。
 
山口百恵を「時代と寝た女」と評した人物がいたが、ロック歌謡の女王、アンルイスは80年代と寝た女だろう。戦後を象徴する裕次郎やひばりは、その死が早かったゆえに時代に鮮明に焼きついた。パニック症候群で90年代なかばからロサンジェルス暮らしを続け、表舞台から姿を消したアンルイス。急逝した松田優作と同じく、やさしくて過激な歌姫は伝説になった。
 
 
 
 
【天使よ故郷を見よ・あゝ無情・六本木心中】にこにこ動画
 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1628838
 
【伝説の夜ヒット、吉川との絡み】 イントロの「1・2・3・4」のシャウトが最高。リハーサルはどこまで・・。生放送の録画をみる限りはディレクターは始末書かも。
 
http://jp.youtube.com/watch?v=ndREkgnp-5M&feature=related
 
【にこにこがダメならこのライブで六本木心中】
 
http://jp.youtube.com/watch?v=iuCipmyk_Fw&feature=related
 
【アンルイス・メドレー】大魔王お奨めリミックス
 
http://jp.youtube.com/watch?v=fF0mkJGqm68&feature=related
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

作者:

更新日:2008年9月16日 3時8分

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上海で珈琲はいかが?

上海の人民広場でのこと。

中国人の若いカップルに英語で声をかけられる。これで3回目・・・。

国際都市、上海では若いカップルが外国人と話すのがブームなのか?

3度目の正直か・・・。

少し話しをする。お決まりの

「日本人にはみえない、中国人かと思った」で始まった。

(ならなんで英語で話しかけた?)

「英語がうまい、日本人は英語は皆ヘタなのにあなた違う」

(英語うまくはないが、お前よりはな・・・)

「実は彼女は日本語を習ってるんだ」

と女の子を見ながらいう。

「日本語使ってみて」と私。

「こんにちは、元気ですか」と彼女。

「はい、元気です」(日本語)私。

「あなたは学生ですか?上海の人ですか」。日本語)

「・・・」答えられない彼女。

「いや、まだ勉強始めたばかりです」フォローを入れる彼。

しばらくすると、「どこに泊まってますか?上海に何日いますか?」とこれもお決まりの品定め。
「バンコクからここまで陸路できたんだ。2ヶ月以上かかってるよ」と私言うと少し引いた感じだ。

しばらくするとついに本題。ビルを指差して

「あのビルからは上海の眺めがすごくいいです」と彼。

「あそこにいいカフェがあって、そこからあなたは上海の景色を全部みることができますよ」と想像どおりの展開。

「へー、眺めよさそうだね。でも、あしたグランドハイアットに行くんだ」と私。

?の彼に筆談で”金茂”と書く。

「あー、あそこは値段高いです、コーヒー200元、300元です」

と彼。

「いや、上るだけなら80元だよ」私。

「・・・」

「行ったことあるの?」と私。

「いや、ないです」と彼。

「上海に住んでるの」

「いや、蘇州から来ました、旅行で・・・」

「へえ、旅行ね、ならこの先の”江氏兄弟”のヌードルは美味いよ、昆明にたくさんあったけど上海にもあるんだねと」と私。

「それから、イタリアンならサイゼリアがこの先にあって安い。日本の会社で有名だよ」

「あなたは上海のことよく知ってますね」と彼。

「いや、まだ3日目、あ、ごめんね、約束があるからそろそろ行くね」と私。

「あ、さようなら」と彼。

「グッドラック、よい旅を!」と最後までフレンドリーな私。


すでに上海では有名になったカフェのぼったくり詐欺。最近はこちらの警戒心を弱めるためか 普通の若い男女のカップルです。私が声をかけられたのは3回と南京東路から先の人民広場 スターバックスのそばでした。

上海では銀行閉店中は胡散臭い両替屋が。南京路では偽ブランド屋が声をかけてきます。
 
タイ・ラオス・ベトナム・中国2007~2008 004 

作者:

更新日:2008年9月15日 13時34分

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片岡鶴太郎展

千葉三越で催された片岡鶴太郎展へ行ってきた。片岡鶴太郎の絵は春に草津の片岡鶴太郎美術館を訪問していらいの母のお気に入りである。
 
初日の土曜日は14時から片岡鶴太郎のトークショーもあるという。その整理券を確保する為には百貨店オープンと共にダッシュが必要らしい。
お前が先に走って整理券を確保しろという命にしたがって、開店でドアが開くと同時にダッシュ。事情を知っているらしき集団は裏手に向かってダッシュする。
 
「うん、きっとこっちに近いエレベータがあるに違いない」。
 
 ピンときたのでその後を追う。ビンゴ!続々と後から人が乗ってくる。
 
「早く、閉まってくれ!」
 
皆の願いにやっと扉が閉まる。 ガチャ!その願いを裏切るように最後に手が侵入して扉が開いてしまう。
 
どっかのバカタレが無理やり入ってきやがった。まったくKYだぜ。全員の焦りと落胆、しらけた空気が漂う。
 
「あら、ブーと鳴らないわね。ブーちゃんが乗っちゃったのにセーフね~。」
 
苦笑ともいえる笑いが起きる。
 
「図太い奴め、なんてKYなんだ。くだらないジョークまで飛ばしやがって!どんなババアだ」
 
いや、なんか聞いたような声・・
 
前の肩越しに背中を見ると見覚えのある黒のTシャツに皇帝ペンギンのような体形。
 
母だ。 最低である。
 
ドアが開いた。ドアの一番前にいた母はなんと杖を手に持ってダッシュしてるではないか。
 
「あんた走れるんかい!!」

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更新日:2008年9月10日 16時59分

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遠雷・2008年夏、タイの政変

道端に車を停めた。叩きつける豪雨でワイパーが追いつかず前が見えない。

遠雷の音を聞く。
スコールの記憶が呼び寄せたのか遠い国で起っている政変に想いを馳せた。
 
【2006年2~3月】導火線PDAの扇動
 
私がタイのアパートを引き払い日本に帰る時に、PAD(The People's Alliance for Democracy =民主主義市民連合)の反タクシン集会が始まった。シーロムでアジア家具や雑貨を扱う知人の店を訪ねるとルンピニー公園に人が集まっているという。中心となるのは'92年の民主化運動の立役者チャムロン元バンコク知事やタイ経済紙、プーチャトカンのオーナーのソンティー氏。

公式報道だとタクシン氏のシングループがシンガポール政府の投資会社テマセクに売却された件での脱税疑惑や親族による資産隠しを主にあげている。しかし、彼女によればタクシンが王族にしか許されない行事(おそらくワットプラケオでの国家安寧祈願式)を行った事がネットを中心にタイ人の猛反発を招き、それがデモにつながったという話だった。

反タクシンの空気は急速に広がり、'06・2月26日のサナームルアン(王宮前広場)での大規模集会へと発展して行く。集会の前日にサナームルアンに近い、ワットポーのマッサージ学校に行くと先生が「明日はデモだから絶対来るな」と釘を刺さされる。集会の晩はまったくいつもと変わらないアパートの近くの食堂でTVのニュースでデモの様子を見ていた。

そしてデモは3月29日のサイアムでの5万人集会へと発展し市民生活に影響を与えるまでになるが、その報道の時はすでに”退避”した日本で見た。
 
【2006年4~6月】タクシンの粘り腰

国民の信を問うと下院を解散し4月2日に総選挙が行われるも野党が選挙ボイコット。白票が相次ぎ400選挙区中、39選挙区で再選挙。タクシンのタイラックタイ(タイ愛国党)の圧勝だったが事実上はタイラックタイの1党だけの選挙という異常選挙。国王も不快感を示し、国会開会の詔勅への署名を拒否する意向を示す。国王の意向を踏まえて裁判所は”選挙”の無効やり直しを裁定。
 
タクシンは4月4日に退陣を表明するも実際は暫定首相として権力の座に居座り続けていた。5月から6月にかけて、軍幹部による政治的発言が目立つようになる。ソンティー陸軍司令官によるタクシン派の現場指揮官の人事異動が行われ、タクシンはその影に国王の側近中の側近、プレム枢密院議長がいると非難。タクシン派デモ隊がプレム議長の自宅に押しかけて警察に排除される騒ぎを起こしている。
 
【2006年9月19日】軍事クーデター・プレムの勝利
 
そしてあの9月19日の国軍クーデーターが起る。地上派放送局はすべて軍の管理下に入り、TVでは静止画面に国王賛歌が流れる状態。ソンティ陸軍司令官を代表とする民主改革評議会(CDR)が実権を掌握したとTVで発表される。実際にアヌポン第一管区司令官傘下の陸軍部隊が首相府、政府関係庁舎、放送局、タクシン邸、タクシン系列で同グループのTV局、iTVも入るチナワットタワー、などをほぼ制圧していた。この時、タクシン氏は国連総会出席の為にニューヨークにおり非常事態宣言を発令するもすでに時遅し。

深夜には陸・海・空の国軍司令官は国王に謁見する。国王の認可を得てクーデターが成功する。翌朝、CDRはタクシン元首相の非常事態宣言の無効と戒厳令の発効を発表する。
 
【2006年10月~11月】タクシン派弱体化への動き
 
10月に国軍司令官であったスラユット枢密院顧問(プレム議長の子飼)が暫定首相に就任。タクシン氏のタイラックタイは離党者が相次ぐ。11月には軍でも中枢にいたタクシン派幹部は不定期人事で次つぎと配置転換(左遷)されていった。

【2006年12月~2007年5月】テロとタイラックタイ党の解体

そして12月31日にラチャダムリのゲイソンプラザ前の公衆電話など8ヶ所での爆弾テロ。暫定政府側はタクシン派の陰謀を臭わせる。タクシンに近いとされる警察は反発し南部テロの可能性が高い事を指摘。警察と軍との暗闘もあるが、スラユット暫定首相は'07年2月5日、捜査の失敗を理由にタクシン派とみれれるコーウィット警察長官からセーリーピスット長官代行に警察トップをかえる。(テロの1週間後にバンコクを訪問したがラチャダムリのショッピングセンターなどの荷物検査も緊張感があった。空港や駅には銃を持った武装警官の姿もチラホラ)

3月、タクシングループ参加のTV会社iTVも国に約束していた番組内容比率(娯楽番組の割合制限など)を守らなかったとかいう理由をつけ違約金などの請求で実質解体に追い込み、国が接収。国営のT-ITVとする。これによりタイ唯一の地上派民間放送は消滅。(翌年にはTPBSに再編)

タクシンの政党、タイラックタイ党にも選挙違反などの嫌疑をかけ解党へ向けての動きが加速する。

また個人的にはラチャダーピーセックの国有地払い下げ問題、資産隠し、不正送金、シンコーポレション売却の際の脱税、衛星の売却問題などタクシン及び夫人、長男、長女などに対する訴追準備が行われる。

タイ国内でのタクシンの権力基盤を崩壊させる動きに反発し、タクシン側も来るべき民生移管の為の総選挙に向けてメディア戦力をとる。タイラックタイ党の為のケーブル局PTVの運営やタクシンのインターネットTV配信。反独裁民主主義同盟などがサナームルアンなどで反軍事政権団体のデモを動員。タクシン自らは日本を含めた各国外遊を重ねて政権復帰の根回しを行う。

5月にタイラックタイは解党処分を受ける。タイラックタイ党議員は弱小政党のパラン・プラチャートチョン党(人民の力党)に合流(実質乗っ取り)。7月、大物政治家のサマック元バンコク都知事が党首候補としてパラン党に入党。タクシンは英国プレミアリーグのマンチェスターシティーを買収。自身の広告塔とし、資産保全の足固めを行う。8月19日に新憲法に対する国民投票が行われて賛成57.81%反対42.19%(投票率57.61%)であった。

【2007年10月】 鍵を握る男アヌポン登場

10月1日、クーデターでバンコク首都圏方面の第1管区司令官であった陸軍副司令官アヌポン・パオチンダー大将が実質国軍トップの陸軍司令官に就任。アヌポン司令官はタクシンと陸軍士官予備学校10期の同期で友人だが、クーデターでは重要な役割を果たす。嘘か真かタクシンから怒りの国際電話が入ったという噂。バランス感覚のあるエリートとしてプレム枢密院議長やスラユット暫定首相に押されたという。

逆にクーデター当時ピサヌローク方面の第3管区司令官で反タクシンの急先鋒だった陸軍副司令官サフラン大将は、転出していたAOT(タイ空港公社)TOT(タイ通信公社)のスキャンダルもありソンティー陸軍司令官兼評議会委員長の推薦むなしく国防省副次官に転任。これによりタイ政局を握るキーマンはアヌポン大将になった。退役したソンティ氏は副首相へ横滑り。

10月31日、タイ国鉄が突然のスト。年末の総選挙に向け、各政党の駆け引きも激しくなる。

【2007年12月23日】下院選挙実施・タクシンの勝利

12月23日、総選挙実施。投票率約70%、下院の改選議席数は480。

結果はパラン・プラチャートチョン党232、民主党 165、チャート・タイ党 37、プア・ペンディン党 25、ルアム・チャイ・タイ・チャート・パタナー党 9、マッチマー・ティパッタイ党 7、プラチャーラート党 5。タクシン派のパラン党は単独過半数まであと僅かだったが及ばず。しかし大勝利。チャート・タイ党とプア・ペンディン党が連立に参加し政権を奪取。クーデター後はタクシン批判をしていた2政党があっという間に勝ち馬に乗るところはタイ的。いや日本でも自民と連立した節操のない政党があった。(後に選挙違反でパラン党は20以上議席を減らす)

パラン党は大量の選挙違反者を出す金権選挙だったが連立による政権奪取。(この選挙時はバンコク・カンチャナブリに滞在していたが、ポスターの制限などもあり2005年の選挙よりは地味だった)これでタクシン帰国、復権へのシナリオができあがる。

【2008年2月~7月】野合と権某術策、タクシン帰国・復権へのシナリオ

'08年2月26日に正式にパラン・プラチャートチョン党のサマック党首を首班とする6党連立内閣が発足し1年4ヶ月ぶりの民生復帰する。

2月28日、連立政権発足を受けてタクシン緊急帰国(わかりやすい・・)。この頃より'92年の民主化で有名になったチャムロンやタイの経済新聞のオーナーで'06年のクーデターの引き金になったソンティ氏の民主主義市民連は危機感を強めてタクシン派と徹底抗戦の方針を打ち出す。(両人ともタクシン政権発足時はタクシンの一番の支援者だったのに今は反タクシンの急先鋒・・)

4月にはプレム批判のタクシン派デモ団体(旧反独裁民主主義同盟など)と衝突する。(タクシン支持団体は暴力的、金で雇われたチンピラも多い)

政治の場でも連立政権は軍政時代の国民投票で承認された憲法の改正を画策。野党側は司法の場で連立与党側の違法性を訴えて解党を求める。

【2008年8月~】プレムの逆襲、

憲法改正反対、徹底抗戦を確認したPADのデモはその後も続きタイ政局は不安定な状態が続く。そして司法に強い影響力を持つプレムの意向に沿うように、憲法裁判所は先の総選挙でのパラン党の選挙違反疑惑から解党を視野に入れた審議に入る。

また、バンコク刑事裁判所ではタクシンの妻、ポチャマンに有罪判決が出る。北京オリンピックを口実に出国をしたタクシンの妻、ポチャマンがタクシンと北京で落ち合う。出国時のトランクの多さや子供らとの空港での涙の別れから逃亡するのではという憶測もながれた。

現政権側はそれを否定したがオリンピック後のTGの帰国便、搭乗名簿には名前はなかった。夫妻は英国へと向かう。タクシン自身も最高裁で首相時代の国家への背任行為が裁かれている。夫人の判決からタクシンの有罪も予想されていた。

実質的に英国亡命したことでPADのデモは勢いづいた。それを容認したサマック政権をタクシンの傀儡(選挙の時はサマックも”タクシンの代理人と公言)と位置付け退陣要求を過激化させる。サマック退陣を求めるPADの首相府での集会には1万人以上の群集が座り込みを続ける。

首相府での集会は地方に飛び火してプーケットなどの地方空港の実力封鎖。国営放送局への乱入。国鉄の実質的なスト等へと大きく広がった。この事態を受けてサマック首相、アヌポン陸軍司令官がホアヒンの離宮で国王と謁見。あくまで平和的、民主的な解決を目指し、非常事態宣言の発令には消極的な姿勢をサマックは示す

しかし、それとは裏腹にタクシン・サマック別働隊ともいえる旧反独裁民主主義同盟の残党を中心とする集団UDD(The pro-government United Front of Democracy Against Dictatorship =政府を支持する反独裁民主戦線)がPADが集まる首相府を急襲。この間警察が阻止する動きは緩慢。死者まで出す事態を受けてサマックは緊急事態宣言を発令。アヌポンは軍を出動させて事態を収拾させた。タクシン派は5人以上の集会禁止の命令から一旦首都圏からは引くが、PADは徹底抗戦の構えで緊張状態に陥っている。

 

長くなってしまったが今回の政局を考える上でのクーデターからのタイ政局の流れを書いた。これをみても分かるように日本で報道されているような金権政治家と民主化というような単純な話ではない。プミンポン国王後のタイという国のあり方の根幹に関わる権力闘争だ。主役はサマック首相とPADや民主党ではない。限りなく大統領に近い首相になりたかったタクシンと王室を中心とする旧支配者層を代表するプレム枢密院議長だ。これは”アフタープミンポン”に向けての熾烈な権力闘争だ。

現皇太子のワチラコン王子が国民の尊敬がないことはタイでは暗黙だが周知の事実。日本でいえば田中角栄のように立志伝中のタクシンはまたばら撒き形の政治で貧しい北部、東北部では圧倒的な人気。自身も名門とはいえ所詮はチェンマイ、サンカンペーンの田舎の一族だ。旧支配層VS新興財閥。都市中間層VS地方農民。南部VS北部・東北部。水面下では物凄い権力闘争が繰り広げられているだろう。

国王とプレム議長は高齢だ。反タクシン派の一番の弱点はそこだろう。タイを旅行した旅行者は口を揃えてタイ人は王室への尊敬の念が強いという。違う。現国王への尊敬が強いだけだ。1000ヶ所以上の貧窮した農村などへの支援プロジェクトを常に見せられてきた国民だ。だからほんとに親しくなると皇太子の悪口も話すようになる。ただ不敬罪の厳しいタイではご法度なだけ。

タイは3割民主主義だと思う。大正デモクラシーに毛がはえた程度だ。BTS(高架鉄道)に乗り近代的なビル郡を眺めて、高級ホテルに泊ったりするとさも民主的な近代国家と勘違いする。実際は地方ではチャオポーと呼ばれるヤクザと悪徳警察幹部が支配している。そんな地方ボスや息子が議員や行政の要職にもつく。タクシンの改革はある部分はタイを民主国家に押し上げる側面もあったと思う。

ただ、それだけではなく金権体質のバラマキ型政治、改革を旗印に自分の政敵を徹底的に弾圧した強権政治も事実だと思う。タクシン批判のジャーナリストの変死もよく聞いた。麻薬売買の罪で自分に敵対する不都合な人物を処刑しまくって人権弾圧で弾劾中だ。タクシンの支持地域に露骨な利益誘導を行ったし、一族による特権的な事業優遇や国有地の格安の払い下げ、身内、友人を政府、軍、警察の重要ポストにつけるなど、あからさまに政治、いや国家を私的なものにしてきた。

タクシンは自身も認めているように急ぎすぎた。自信過剰過ぎてやりすぎた。タクシンは徳川家康を知らないのであろうか。せめてプミンポン国王の代替わりまで待てなかったのか・・。”鳴かなずんば鳴くまで待とうサリカ(タイの国鳥)”とは行かなかったようだ。タクシンの国の私物化があれほど露骨でなければタクシン共和制だってない話ではなかったはずだ。タクシンはシンガポール建国の父、リー・クアンユーにはなれなかった。

 今後はキーマンのアヌポン陸軍司令官の出方に注目だ。再度のクーデターはあるのか。タクシンとは友人でサマック首相との関係も良好。しかしクーデターからはプレムの意向を受けて動いている。プミンポン国王はサマック、アヌポン両氏と謁見した。そこでの発言は公表されていないがクーデターを避けるように話された事は想像がつく。サマックにも流血を避けるように支持があったのではないか。

しかし、タクシン派のデモ隊UDDが PDAのデモに乱入して犠牲が出た。今後はその責任問題などを追及して運動が広がる可能性もある。サマックはTVの料理番組に出演して人気が高い元バンコク知事だが実はタカ派。96年のピブン帰国反対のタマサート大学のデモではチンピラに襲撃させた疑惑が消えない(多くの死者が出ている)。貴族の出自でプライドが高く、タクシンの傀儡と言われることには反発もあるようだが・・。

豪雨は大地を実り豊かなものにする。だが雨の色はいつも赤い。雷雨が通り過ぎたタイに虹がかかることを祈る。



作者:

更新日:2008年9月3日 14時0分

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え~、僕ですか~!!

辺境の旅が好きだ。そこには自然を畏怖し心やさしい人々がいる。確かに辺境への旅は交通機関が整備されていなかったり、政治的に微妙な状況であったりと旅が困難な場合もある。タイでもカンボジアと国境が曖昧なカオプラビハーン(プリヤヴィヒア)やビルマ(ミャンマー)国境などがそうだ。
 
しかし、これら辺境の旅で時として問題になってくるのは、”この顔”だ。
 
ある日、タイ人の友人とチェンマイからチェンライに向かうバスに乗っていた。このルートにはビルマ国境に近い所を通る。その為、何ヶ所か不法入国者をチェックする検問がある。その日もバスは検問で停車し、2人組の警察官が乗り込んできた。タイ人はバットプラチャートチョンと呼ばれるIDカードの携帯義務がある。外出の際にこれを忘れると罰金だ。当時の金額で500B程度だったか。警官は前からアットランダムにIDをチェックしていく。2組の白人観光客はノーチェックだ。あくまでビルマからの不法入国のチェックだ。
 
その時、隣の友人がIDを探しまくっている姿に気づく。
 
「まずい、ないよー。どうしよう、罰金だ」
 
「バカだな~、よく探したの」
 
「うん、いつもはこのパスに入れてたんだけど・・、たぶん忘れた」
 
警官はいちばん後ろに座っている僕たちに迫る。友人は顔が段々と緊張している。もちろん私は余裕しゃくしゃくだ。
 
警官が僕らの横に来た。友人は下を向いている。
 
警官が手を伸ばした。   
 
「??」
 
その手は友人を通り越して僕の前で止まった。 
 
「え~、僕ですか~!!」
 
どう見ても私にIDを要求しているとしか見えない。
 
「早く出しなさい」
 
う~、と思いながらもパスポートを出す私・・
 
私の赤いパスポートを見た警官は明らかに、いや露骨に驚きの表情だ。それこそ私のパスポートは穴が開きそうにチェックされる。それでも納得が行かないのかパスポートを持ったまま出て行った。しばらくすると上司かと思われる年配の男性を連れて戻ってきた。
 
「アー ユー ジャパニーズ?」 ( 聞くなよ、だからパスポート持っているんだろう・・)と心で文句をいいつつ笑顔で
 
「イエース」
 
「ウェアー ユー ゴー」 (チェンライ行きのバスに乗ってんだからチェンライに決まってんだろう!)と思いつつ笑顔で
 
「アイ ゴー トウ チェンライ」(タイ語でしゃべらないぞー)
 
上司は私の顔をじっとみて、なにか部下に話した後
 
「OK、サンキュー」
 
といってパスポートを返して背を向けた。部下は私を再度、チラと見た。なんかまだ納得がいかない感じだ。むかつくのはタイ人の友人だ。さっきまで、「どうしよう」ってびびりまくってたくせに!!今はヒャーヒャー笑って、
 
「ビルマ人だって、お前はやっぱりビルマ人に見えるんだよ~」タイ人はビルマ人に対して差別的だ。
 
まったくそれからはなにかというとビルマ人、ビルマ人だ。ちきしょう、「この人ID忘れてますよ~!」と叫べばよかったぜ。
 
「おまわりさん、なんで僕ですか~!!」

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更新日:2008年8月29日 15時13分

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没有礼儀・中国人のふたつの世界

「礼儀は資本主義」
 
面白いタイトルの本が売れている。中国に留学、就職した著者が同僚の中国人に言われた言葉だそうだ。
 
 
共産主義国である中国では、礼儀というのは階級社会の産物であり資本主義そのものだという理屈である。身分、格差のない中国では必要ない。その同僚は逆に日本に行った際に皆がお辞儀をする姿をみて
 
「ずいぶん差別のある国だな」と感じたそうだ。
 
本当だろうか。このブログの中でも、【旅の恥は書き捨てだぜ!】の「ぺきんでしっきん」に書いたが、宴会のメイン料理の鶴の頭を誰に向けるかで延々と時間をかける人たちだ。(一番偉い人・主賓に向ける)
 
これは中国人の世界に内と外があると筆者は説明する。筆者自身もその同僚の知人宅に呼ばれた時に帰り際、同僚の知人に別れの言葉をまじ合わせずにそそくさと玄関を出たら
 
「なんでお礼の挨拶をしないんだ!」と同僚にたしなめられる。
 
「え、だって挨拶はいらないんでしょう?」。
 
「・・・」。
 
ということだ。本音と建前といっていいのか。内と外を使い分けているのか。
 
北京で仕事をしていて思ったことだが、中国人は懐に入るととても親切だ。同じ人間が外で痰を吐き、列の割り込みを平気でするとはにわかに信じられないくらい素朴だったりする。これは彼らが内と外の世界をうまく泳ぎながら生きているのだと思う。中国人は2つの世界で生きているのだ。
 
これは予想だがさらにいえばタイと同じく、自己犠牲もいとわない「親・兄弟・大親友」の世界・遠慮と気を使い合う「友人・知人」の世界・自分さえ良ければいい「赤の他人・公共」の3つの世界だ。
 
オリンピックの開催にあわせてマナーが著しく向上した。これは20年前の子供の小便が床を流れる列車の阿鼻叫喚を知るものとしては驚きだった。15年前の建設現場に大便がころがっていたのから考えてもすごい進歩だ。
 
大理から昆明までの列車で、中国人が列を作っているのをしばしあっけにとられて見てしまったほどだ。確かに政府が支配する外の世界は変わった。いろいろな面でハード先行でソフトが追いつかない中国。13億の民はこれからどこへ向かうのだろう。
 
 
『礼儀は資本主義』 市井 真成 著 文芸社
 
 
【中国人の思想行動を読み解く】 市井 真成
http://dir-china.net/journal/Paper_from_SAKURAI/Chinesebehaviour_2.pdf
 
 
 
 

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更新日:2008年8月28日 15時2分

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一瞬の死

 

【人生はほんの一瞬のことに過ぎない。死もまたほんの一瞬である。】 シラー

ジャララバードの乾いた大地にまたひとつの命が消えた。

アフガニスタンのNGO、ペシャワール会の職員、伊藤和也さんが殺された。

日本のメディアでは「テロ組織・タリバンの非道」「非政府組織のリスク管理の限界」を声高に叫び政府は「自衛隊の復興支援の派遣問題」「テロとの戦い」を掲げて懸案である給油問題や自衛隊の海外派兵に向けた世論誘導に走るだろう。
 
ペシャワール会も現地代表の中村医師を除き、日本人の撤退を決めたようだ。実質的な現地事業からの撤退。戦略的な軍備を持たない日本にとってODAは重要な外交カードだ。非政府組織の人的貢献も人道的な意義を除けば国家戦略のいったんを担っている。
 
昔、チェンマイの友人宅が海外青年協力隊の溜まり場だった。そこで協力隊の若者達と話をした。彼らのジレンマは本当に助けが必要な奥地には自分達が行けない事だった。主にモン・リス・カレンなどの山岳少数民族の農業指導をしているのだが、山奥にある最も貧しいアカ族の村などには活動が制限されて行けない。主に欧米のNGOが入っているとのことだった。危険のある所には送らないというJAICAの方針だそうだ。当たり前の話であるが・・
 
彼らの行く村はチェンマイから簡単にアクセスできるところにあり、訪ねる村長の家にはピカピカのピックアップトラックが停まっている。奨学金も村長の縁故の子供が優先される世界。自分達の理想とはかけ離れた現実を語ってくれた。
 
そして日本に帰国してNGOとなってチェンマイに戻ってくる。しかしそのNGOにも彼らの理想を裏切る世界がある。
 
伊藤さんは5年近い年月をアフガニスタンの現場で活動してきた。現地の言葉も使い、現地事情にも精通していたように感じる。
しかし、そんな人間にも死は唐突に訪れる。どんなに平和に穏やかに見える景色でも死はいつも隣り合わせだ。キャパも沢田教一も死ぬ直前まで自分にすぐに死が訪れるとは思わなかっただろう。
 
死神はいつも突然ドアをノックする。
 
 
 
 
 
 

 

 

 

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更新日:2008年8月28日 8時33分

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あさりご飯

「「好き嫌いはない!」食べ物の話だ。人の好き嫌いは激しい。だが大人になって少し押さえられるようになった(これみて嘘つけ~という奴も多いだろうな)。
旅に出ても「山ねずみの肉入りそば」「いも虫のから揚げ」「コオロギとバッタのから揚げ」「象の鼻の冷製」「猿の脳みそのスープ」と不本意ながら食べても
そんなに気にならない。
 
「食わず嫌い」には出演できなかった私にもやっと嫌いなものができそうだ。
 
それは「あさりの炊き込みご飯」
 
実はあさりは味噌汁も炊き込みご飯も大好きだった。6月の入梅まっさかり、実家で母から炊き込みご飯をもらってきた。あさりである。
冷蔵庫に入れておいた翌日に母から電話。
 
「あのあさり飯、匂いが変。すぐに捨てて。食べちゃだめだかんね」。
 
「ふあーい」とテキトウに返事をする。
 
”三つ子の魂百まで”とは昔の人はよくいったものである。幼稚園児の頃から親のいうことを聞かないことには定評がある。
 
翌日の夜にビールを飲んだあとに小腹が減った。
 
「!」 そうだ。あさり飯があったな♪
 
タイ、ベトナムはもちろんインドでも下痢しない大魔王だ。
 
「あさり飯が少し匂うくらい楽勝だぜ、うん確かにちょびっとすっぱい匂い」
 
食べていてもなんか少し気持ち悪い。ここで初めて旅でつちかってきたヤバイなという感が働き食べるのを中止!残りを捨てる。
 
食べてもなんか悪心というのか・・ここちがすっきりしない。
 
2時間くらいすると腹痛が。
 
トイレに行くとやはり下痢。
しかしそれだけでなく吐き気が・・
 
水のような便と吐き気は深夜まで続く。
お湯を飲んで脱水症状をふせがなくちゃ・・
でも飲むとすぐにトイレで出すようだ。しかしとにかく菌を出さなきゃだめだ。
 
実はこのことは母には内緒にしている。「フフフ、あんたはあの時ね~」という勝ち誇った顔でなにかというと引き合いに出すに違いないからだ。
 
「隙はみせられないぜ・・」。
 
翌々日。
 
「あんた、青柳の佃煮好きだったわよね~」。
 
「あ、うん」。
 
「せっちゃん(母の友人)にもらったから持ってきな、私は青柳は硬いからダメだから」。
 
「サンキュー・・」。
 
見るのもいやな佃煮は残念ながら冷蔵庫で化石化しそうだ。そうだ捨てなければ(もったいないが).。
 
TVのニュースでOー157の食中毒をやっていたな。
危険はインドより身近にあるのだ。
 

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更新日:2008年8月26日 15時43分

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また温泉ご招待に当選♪

地球の歩き方の旅スケジュールを作成してたまにアップしてるのだけどそれがキャンペーンで当選。

春のキャンペーンで当選して草津温泉に行ったのだけど今度は猿ヶ京温泉。水上の近くらしい。

9月中だと西船橋から無料送迎バスも出てるのでラッキー!
『地球の歩き方』さんありがとう。感謝です。

よくmixi のコミュニティーでも「旅行のプランを立ててるんだけど、ガイドを読んでもわからなくて~」とかいう人がいる。この「旅スケ」と
いうのはコピー機能がついていて自分の行くところで、自分と似たようなプランの旅スケジュールをコピーできる。

それをもとにしていらないのを削除して、自分に必要なのを加えたりして編集すれば楽にプラン立てできる優れもの。これかなりお勧めだ。

http://tabisuke.arukikata.co.jp/information/gracam/winner.html

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更新日:2008年8月26日 11時21分

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【ダイバーズパラダイス・タオ島】地球の呼吸を感じる海

Kho Tao 2005 FEB 004Kho Tao 2005 FEB 008Kho Tao 2005 FEB 013Kho Tao 2005 FEB 015Kho Tao 2005 FEB 028Kho Tao 2005 FEB 058Kho Tao 2005 FEB 072Kho Tao 2005 FEB 109
 
2005年のタイ、タオ島のダイビング旅行の旅スケジュールをアップした。
 
3人の若い女の子とダイビングライセンスを取りに行った旅だ。
幸運にもタオ島フェスティバルに偶然にもあたり、そのイベントの目玉である一度に潜るダイビング人数ギネス記録に挑戦してなしとげた。
そして忘れられない巨大なジンベイ鮫との遭遇。多くのダイバーに囲まれる中を悠然と泳ぐその姿になにか地球の化身。地球の息吹を感じた。
 
【ダイバーズパラダイス・タオ島】地球の呼吸を感じる海
 
http://tabisuke.arukikata.co.jp/schedule/16756/
 
 

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更新日:2008年8月24日 13時33分

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パット・バイガッパオ・ムー

タイでよく食べる屋台飯。目玉焼きをのせてその半熟の黄身が「ムーサップ」豚ひき肉に絡んで。
 
バジルをよく食すると蚊がよって来なくなるそうでまさに、「うまい・やすい・はやい・かゆくない」の4拍子。
 
日本ではキハチグループの「モンスーンカフェ」で名物だという話を昔TVでしてましたね。
でも値段がタイの屋台の20倍くらいだったような・・
 
暑い日に汗を流しながら食べたい一膳飯です。
 
写真はダムヌンサドアック水上マーケットの屋台の一品。観光地だとバカにしたらけっこういけてました。DSCF0048
 
 

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更新日:2008年8月23日 12時37分

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神様・仏様・上野様

オリンピックの女子ソフトを観た。いや、これかなりドキドキした。
 
8年前の金メダルに指の間から落ちていった瞬間を覚えてるだけにその想いが想像できた。
 
上野って凄いね。「気持ちの強い人が最後は勝つ」か・・
 
それに8年前に選手と共に苦渋を飲んだ宇津木元監督。NHKの解説で出てるのにそんなことは半分忘れて熱くなって。表彰式の時にひとりひとりに言葉をかける解説者。熱すぎだよ!優勝の瞬間に号泣して解説にならないのが音声だけで分かって、こっちまで泣いちまったぜ。選手ひとりひとりの苦労と想いの歴史を知ってるんだろうな。
 
おめでとう、鉄腕上野。おめでとう!ソフトボール日本代表!

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更新日:2008年8月21日 15時25分

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女神・カリーに見初められた留学生

1989年の早春、僕はカルカッタにいた。
一周した最後の訪問地としてバンコク行きのフライトを待っていた。
泊っていたのはパラゴンホテル。谷恒生氏の小説にもなった伝説の安宿だ。
 
当時のパラゴンは裏手にベニヤ貼りの間仕切りの粗末な個室棟があった。(昨年再訪時にはナシ)南インドのコバラムビーチで知り合い、カーニャクマリ、マドゥーライ、マドラスと旅を続けてきた国際キリスト教大学の5年生、T君がマドゥーライから体調を崩し、ドミではなくツインの個室に入っていた。
 
夕食を終えてT君と部屋で話をしていると突然に部屋のドアが叩かれた。
 
「Hello・・」と私。
 
「あの、大魔王さんですか・・」
 
「え、どなた?」
 
「Yです。昨日、晩メシを一緒に行った」
 
「あー、どうしたの?」
 
パラゴンではないが、そばのモダンロッジという安宿に泊っているY君だ。パラゴンの中庭のテーブルにいつも遊びに来ていた。皆、インドの長旅とカレーに胸焼けしていて「中華に行こう!中華は大人数がベター」ということで昨晩、近所の安中華料理店に繰り出した。ドアを開けるとそこにはやはり昨晩食事に行ったM君とA君もいた。
 
「あの、大魔王さんとTさんが個室に泊ってるっていってたので・・」
 
「え?」
 
「あのAの奴が・・」
 
よくみるとA君の様子がおかしい。目が泳いでいる。なんかブツブツ話している。
 
「Aの奴が急におかしくなっちゃって・・。ずっとこんな感じで突然笑ったり大声だしたり・・。」
 
「宿のおやじに頼んだんだけどダメだっていうんです。ドミには置けないって」
 
「個室とかは?他のホテルは?」
 
「いっぱいなんですよ。どこもこの状態みたらチェックインさせてくれないんですよ。警察を呼べって」
 
「それでオレのとこにってこと?」
 
「はい、すいません。オレらもドミなんで・・。夜に外に放り出す訳にもいかないし・・」
 
「T君も具合悪いし、この狭い部屋に3人か・・。ましては壁もペコペコのベニヤだし。でも放り出すこともできないな」
 「オレはいいけど、いちようT君に聞いてみるよ」と私。
 
T君も気のいい奴なんで調子悪くて(ゲリピー)寝てたのに心配して起きてきた。
 
「大魔王さん、これほっとけないですよ、インドの夜はヤバイし」
 
さすがに南米・アフリカを巡ってきた猛者は危険を知っている。とりあえずA君を部屋に入れて僕のベッドに座らせる。
 
「よく入り口で見つからなかったね。もしここも騒ぎになったら追い出されるだろうな」と私。
 
「はい、人数いたんでよくみなかったみたいです。ほんとすいません」
「オレらも彼の荷物持って、明日の朝来ますからよろしくお願いします」
 
M君もA君もしきりに恐縮している。
 
「で、なんで?もしかしてコレ?」 っと薬を飲むポーズをしてみる。スピードという覚醒剤に幻惑される人がいる。
 
「いや、実は朝、チャラスをきめたんですよ。それで彼、カーリーテンプルに生贄の儀式を観に行くって出てって・・」
 
「帰ってきたらこの状態だったの」と私。
 
「いや、オレらがサダル歩いてたら、もう道のまん中でこの状態で・・」
 
Y君がどうやら大麻を勧めたようだ。
 
「チャラス、昨日もやったんだけど大丈夫だったんですよ・・昨日が始めてだったみたいですけど」とY君。
 
「チャラスでこんなバッドにならないですよね・・」と心配そうなM君。
 
そうかY君とM君が少し怯えたような感じがしたのはそのせいか。
 
「わかった。とにかく今夜は遅いし、宿の人間がくるとヤバイから帰った方がいい。明日、直らなければ
領事館に行こう」
 
「え、領事館に行くんですか!」
 
「それしかないだろう。大丈夫だよ、あんた達がチャラスしてたのは言わない」
 
「すいません、悪いです、すいません」 
 
Y君とM君は頭をさげると帰っていった。
 
部屋に入ったA君は天井や壁を眺め回し、意味不明な事をブツブツと話続ける。
 
ヒャー、アハハ、アハハ!」 
 
やめてくれ、声がでかいよー・・・・・
 
それからもぶつぶつと笑いを繰り返していっこうに寝ようとしない。
 
「BE QUIET!!」 おっとついに事情を知らないフランス娘の怒り爆発。
 
でも日本語でもこんなこみいった話を伝える自信がないよー。
 
「Sorry.、He lost his temper」 いや、ブチ切れたのは同じだけどちょっと違うぞ。
 
とりあえず隣に行って事情を説明しないと。下手な英語で大麻の部分だけを伏せて説明しに行く。
 
「Mad」と私のジェスチャーでなんとかわかったのか、かわいいフランス娘2人はムッとしつつも渋しぶ納得。
 
何時間が過ぎただろうか。T君と話ながら彼の話を聞いていた。
 
「あの大魔王さん、なんかだんだん言ってる事がわかりません?」
 
「え、T君も。オレもなんか分かってきて頭の中に変な言葉がたくさん浮かんでくるだよ!」
 
「ですよね。これヤバイですよねー」
 
「うん、彼の世界にだんだんと引き込まれていく気がする」
 
「大魔王さん、聞かない方がいいですよ。ずっと違う話して、彼の話に気を取られないように」
 
「うん、、わかるけど聞いちゃうよ」
 
「ダメです」
 
背筋が凍りつくような恐怖だった。それまで精神疾患なんて別世界の話で自分とは縁のないものだと思っていたのに。違っていた。今、正気で考えている私はたまたまコインの表側が上を向いているだけで、何かのきっかけがあればいつでも裏をむいてしまうのだ。誰でもコインの裏を持っているんだ。
 
「おはようございます」
 
濃密で長い夜が明けた。Y君とM君だ。A君のバックパックを持ってきていた。
 
「タクシーで行こう」
 
領事館について日本人を呼んでくれと話たが警備員はバックパッカーには冷たい。なんかあった時の為に持ってきていた代議士の名刺を渡し、これをみせてくれと頼む。
 
10分後、若い実直そうな日本人職員が来た。私は事情を話した。
 
「麻薬とかはしていませんよね」
 
私たちの風体をみたのか担当官は言った。Y君は緊張しているかも知れない。
 
「よく知りませんが、していないと思います」
 
私は嘘をついた。カーリー寺院に行って生贄の儀式をみたらしいことだけを話した。担当官は私のパスポートのコピーだけとらせてもらっていいかと聞いてコピーをとるとA君をインド人スタッフに連れて行かせた。
 
サダルに帰るとY君がなにかを話したそうだった。だが眠い。とにかく寝たかった。
 
翌日の夕方、Y君たちが来た。
 
「今日、領事館に行ったんです。そしたらAの奴、病院に移されてたんです。」
 
Y君が辛そうにいう。
 
「その病院ってのが凄いとこで・・。回りの患者が凄いんですよ。あそこは化け物屋敷です」
「あんなとこいたんじゃ正気の奴だっておかしくなっちゃう・・」
 
インドの精神病院凄さは頭では想像できるが実際にみてきたY君とM君は愕然としていた。
自分達も一歩待ちがえたらそこにいたんだという想いが彼らを戦慄させているのかも知れない。
 
バンコクに着いて1週間くらいして今は閉鎖されたジュライホテルでY君たちと再会した。
 
「Aの両親が日本から来て引き取って日本に帰ったようです。病院にいなかったので領事館まで行ったらそう言われました」
 
パリへの留学の途上にたまたま寄ったカルカッタ。おそらく長年の夢だっただろうパリまでたどり着けなかったA君。確かに真面目で線の細い印象はあった。大麻が原因のひとつかはわからない。
 
でも私には、彼はカルカッタの地で嫉妬深い女神にみそめられてしまったような気がする。
 
 
昨年、コルカタと名前が変わった歓喜の街を19年ぶりに再訪した。初めてカーリー寺院を訪れた。イラストチックな女神のと対面しながら、この女神に愛されてしまったA君のことを思い出していた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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更新日:2008年8月20日 9時33分

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旅行作家みどりのくつした氏への手紙

旅行作家、みどりのくつした氏との低レベルな論争をここで展開しようと思いましたが心境の変化により、やめました。ブログだけ読んでくださる方はことの経緯がわからないかと思いますので簡単に説明します。
 
地球の歩き方掲示板で質問した掲示板に慣れない女性が、みどりのくつした氏に反論したら執拗に誹謗し始めたので、わたしが横からクチを出しました。それに対して激高した氏の矛先が私に向かってきたものです。私がインドに行ったことがないとか、何カ国旅行したのだとかという直接関係ない事で答えるまで聞き続けるというので、他の利用者の迷惑になると思い、別なスレッドを立てました。しかし、そこには現れずに自身のHPの掲示板で「潰してやろうか」などという”誹謗・中傷”としか思えない書きこみをしているので反論しようと書きこみを試みるとホスト規制がかかっています。
 
氏の「旅行経験うんぬん」の中傷は毎度のことなので別に腹も立たないのですが、相手に反論できないような仕掛けをつくって姑息に誹謗・中傷する卑劣さに憤りを覚えました。そこで歩き方掲示板に立てたスレッドに氏の過去の矛盾発言のリンクを貼って答えたのですが削除になりました。そこでここで反論しようとこの記事を書き始めたのです。ところがそんなあら捜しみたいな作業がむなしくなって筆が進まなくなりました。その経緯は歩き方掲示板に私が立てたスレにあります。
 
ただ今回、ブログのPVがかなり高く、特に、前タイトル「みどりのくつした氏への公開質問状に答える」という記事のPVが高いので皆さんの興味もあると考えてこの問題でこの機会で私が知った、インターネットの誹謗・中傷という問題について書こうと思います。
 
よく、掲示板やブログ、SNSなどでは「いやならスルーすればいいだけ」とう意見があります。たしかにその意見も一理あります。電車で酔っ払いに絡まれたら”君子危うきに近づかず”です。でも、嫌がっている人に執拗に絡んでいる人を見てみぬふりをしていいのでしょうか?もし、痴漢にあった女性に「嫌なら別の車両に行けばいいだけ」というのでしょうか。
 
掲示板の議論なので、ついヒートアップして口が滑ることもあります。また、ホームページや公開された掲示板で発言するということは反論を受けるという覚悟は必要だと思います。いろいろな意見があるからこその掲示板だし、それだからバランスのよいものになるのだと思います。
 
しかし、そこには社会通念上の”そこまで”というものがあると思います。それ以上は”誹謗・中傷”で許されるものであってはならないはずです。私もわかっているつもりで理解していなかったのですが、このネットの誹謗・中傷によるもので自殺や殺人に発展するものも多いようです。2CHでもけっこう捕まってるんですね。秋葉原の事件でもネットの論争が事件の引き金になったようです。この問題はこれからどんどん大きくなっていくでしょう。今までは被害者が冷静にスルーをというスタンスだった管理側もだんだんとシビアな取り組みをせざるえなくなってきているようです。私たちが思っているよりも掲示板やSNSの管理者はよく実態を把握しています。ネットの無法者を許さないネット社会になり、殺人、自殺などの被害はもちろん皆が安心して参加できる掲示板やSNSになる日が来てほしいものです。
 
被害にもしあったら【警視庁HPより】
 
 誹謗中傷を受けたり、自分のメールアドレスや電話番号などの個人情報が載せられたような場合は、その掲示板のアドレスを確認し、当該掲示板の管理者、もしくはサーバ管理者に削除依頼をする。
 特定のメールアドレスや電話番号からしつこくメールが届くようであれば、着信拒否設定やメールアドレスの変更を検討する。
 プロバイダ又は掲示板管理者に対し、これら誹謗中傷や個人情報の掲示を削除するよう求める仮処分申請を裁判所に申し立てるという方法も考えられます。
 プロバイダ責任法に基づき、侵害情報の送信を防止する措置を要請したり、侵害情報の発信者を特定する情報を開示するよう求める方法もあります。
 誹謗中傷や個人情報等が掲示板に記載されてしまった場合は、自分で掲載内容を保存しておくほか、当該サイトの管理者に対してログの保存を忘れずにしておくよう依頼すること。
 名誉毀損や業務妨害等の犯罪に該当するような場合は、お住まいの地域を管轄している警察署で相談する。
等の措置を講じましょう
 
それと今回のことでわかったことがひとつ。
 
「地球の歩き方掲示板」はPVが激減しているから終わっているという氏の意見ですが、私のPVを見る限りはそうは思えません(癖になりそう)。たぶん”終わっている”のは・・
それから時代遅れなのは歩き方掲示板ではなく、インターネットで誹謗・中傷を繰り返すことだと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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更新日:2008年8月15日 17時35分

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バンコクB級グルメ 屋台編

 
【TOY・KIT Sea food】
 
最近は英語メニューも張り出したりして、外国人、観光客が増えてしまった。格安で透き通った新鮮な海老や蟹を
炭火で食べられる店。注文すればプーパットポンカリーなどの料理も作ってくれる。
 
屋台には昔、海老・蟹好きの母を連れて行った。初海外、初バンコクの母はドゥシタニホテルのそばからこの
屋台までトゥクトゥクに乗せたて、降りたら放心状態だった。トゥクトゥクの運ちゃんは007並の運転をしたのだ。
その後、ここで食事をしてたら足元に気配が・・
いざりの物乞いが母の足をこづきながら手を出していた。「ひえ~!」である。
でも、戦争、闇市世代の母は昔を思い出したと言っていた。
 
今はバンコクもどんどん変わってここでいざりに会うこともなくなった。
最近は混むので早めの席の確保が必要。予算は一人300B~程度。
 
 
 
 
 
 
 

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更新日:2008年8月9日 7時25分

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カオパノムルンとカオプラヴィハーン

好きなクメール遺跡です。両方とも行くのが少し手間だったり、閉鎖されてタイミングが悪かったりして行ってなかったのですが今回行ってきました。

●カオパノムルン

コラートの新バスターミナル12番乗り場からスリン行きバス(NO274)10時発でバーンタコへ。所要約1時間30分でACバスで80B。バーンタコからはおそらく白いソンテウがあると思います。(帰路にみかけた。)しかし本数が少ないようなのでバイタクを往復でチャーター。最初に300Bくらいの言い値ですが交渉して往復待ち時間で150Bまで下がったので利用しました。遺跡見学を含めて所要2時間30分。バイクで進む山道は道路も綺麗で爽快でした。(遺跡の評価は分かれるでしょう。)帰りもバーンタコからあまりまたずにバスがきました。ただ私はコラートが好きなのでコラート経由にしました。遺跡にはブリラムから来る方が所用時間は30分ほど短くなります。ただブリラムに宿泊すると宿の選択が狭くなります。(どちらもバーンタコの手前のナムローン経由)

●カオプラヴィハーン

シーサケットに宿泊。シーサケットのバスターミナル1番乗り場からカンタララック(タイ発音だとカンタラック)10時40分発、12時15分着。カンタララックよりは青いソンテウで遺跡ふもとの村プンサロンまで。所要30分で25B。そこからバイタクを交渉して往復待ち時間で150Bまで下げて遺跡へ。途中かなり手前でタイ側の国立公園のゲートあり。タイ人40B、外国人200B。遺跡につくと途中のカンボジア側のチェックでタイ人50B、外国人5ドル。

遺跡は正月のせいかタイ人でごったがえす。残念だが人がいるとこの廃墟のような遺跡の価値は半減です。ただモーデーンとよばれるポイントからみたカンボジア大平原の景色は圧倒されました。

ネットではプンサロンからソンテウがあるとかの情報がありましたが嘘だと思います。また、6時頃行くと入場料がかからないとかありましたが、カンボジア側の鉄柵の向こうを勝手に超えたら密入国。ゲートに罰金の表示がしてあります。くれぐれも超えることはないように。

この遺跡に行くのに問題なのはカンタラックからのバイタクが少ないことです。この遺跡への道もすごく良いのでバイクは最高なのですがいかんせん私が行った時には2台だけ。タイ人の若者がすぐに捕まえました。私は最初からソンテウ狙いでしたが。プンサロンまで行ったら帰りのソンテウの本数が少なくかなり待ちます。私はバスストップ(サラ)の隣で揚げバナナを売っているおばちゃんと世間話でもりあがり、おばちゃんの息子?であるバイタクの運ちゃんにおばちゃんが「お前、警察にいって車を拾ってもらっておあげ」ということでピックアップの荷台で帰りました。慣れない方はウボンから車をチャータがいいと思います。

カンタララックまでは新北バスターミナルから直行バスがでています。ウボン行きでカンタララックを経由して行くバスもみかけました。カンタララックは結構大きな待ちなので旅社は結構あると思います。

作者:

更新日:2008年6月11日 12時54分

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タイ-ラオス国境情報(チョンメック)とパクセー

2008年1月2日(水)にウボンからパクセーに陸路で抜けました。

●ウボンの北にあるバスターミナルから8時発のバスでピブンへ。バスターミナルへは安宿の多いラックムアン近くからは白ソンテウの2番で。所要20分。バスは8時10分に出発するがもう一度市内へ戻ります。

もし、来るバスに書いてあるタイ文字(目的地)が読めるレベルの人ならウボンホテルの前あたりでバスを待てば一時間近い時間の節約とソンテウ代と手間が浮きます。タイ文字の読めない人でもワーリン市場にバスはよりますのでそちらまで青ソンテウで行った方が遥かに楽です。ほとんどのタイ人はワーリンから乗ります。バスは35B。ピブンへは9時40分着。チョンメックまではピブンからバスを降りたマーケットでソンテウに乗り換え10時発、チョンメックに11時25分に着。ソンテウを降りてから国境まで少し歩き、タイ側を出国。歩いてラオス側イミグレへ。途中に銀行でタイバーツからラオスキップに両替。1000B=278000K。(市内と変わらず。)

両替からしばらく歩くとイミグレ。右側が入国。なぜかスタンプ代として20Bを徴収される。(領収書なし)入国後、徒歩2,3分ほど行くと左にソンテウ乗り場あり。パクセまでのソンテウが15000Kで所要2時間でパクセの市場へ。そこから20Bでサムロー(サイドカー付の
バイク)に乗り市内へ。パクセーの宿はいつも満室ぎみです。特にサバイディー2は毎日フル。となりのタンルアンGHは個室7ドルエアコン、TV付となってますが一部屋だけ窓のない5ドルの部屋があります。あとは7ドルの部屋と変わりません。中庭がなかなかよかったです。

●パクセーの食事ですが、デルタカフェのペッパーステーキセットはフレンチ風のソースで食べさせる一品。温野菜、フライドポテト、バケットが付いて25000Kはお値打ちです。肉も柔らかく美味。フランスの遺産ですかね、あの味は。入ってはいけないのはピザボーイ。カオパットが15000kもしてとてもまずいです。宿のスタッフに言ったら「あそこはまずくて高いとのことでした。」ラオス人もたくさんいたのですが?サバイディーの前のソイと大通りの角のバケットサンド3000Kはパテ入りで安くてうまいです。

パクセーも含めて、トゥクとサムロの値段は暗黙の外人価格が存在します。私は何度かローカル価格でも乗りましたがたいては2倍から3倍をとられます。市内から2キロの市場でも5000Kは最低です。

作者:

更新日:2008年6月8日 17時37分

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カンチャナブリから三塔峠へ

●2007年12月20日時点ではカンチャナブリ、ナムトック方面への列車の始発駅であるトンブリ駅はまだ工事中。少し離れた臨時駅までソンテウ(ピックアップトラック)6.5B、所要5分。現在通常25Bの普通3等座席には外国人料金が設定されており100B。

●カンチャナブリのラフトハウス(川の上に浮かべた竹製の宿)はC&CカンチャナブリGHが150B。シングルユースだと120Bにディスカウント可能。バス、トイレ共同だが清潔。宿にはレストランも併設。

●レストランはジョリーフロッグがお勧め。安くてうまし。カオパットなども量があり25Bと屋台並みの値段。Tボーンステーキ100Bのセットはお買い得。(23日の選挙に絡む禁酒日には不透明グラスでビールを供していました。)

●カンチャナブリからエラワン滝やサンカブリー方面に向かう場合、GHの集積するエリアから離れたバスターミナルまで行かなくても、C&Cの前のソイを通り突き当たりの大通りを左に曲がってすぐのCALTEXのガソリンスタンド前からバスに乗車可能。バスがみえたら手を前に出して止めること。(エラワンは青い小さめのバス)

●サンカブリーの宿バーミーズインはパーミーインと言わないとバイタクには通じにくい。(タイ語ではパーミーインとなっていた。)おばちゃんはなかなかだしたがらないが100Bでシャワー共同の部屋あり。ただし今年中に取り壊す高い部屋に切り替えするとのこと。

●三塔峠(ビルマ国境)までは市場から緑のソンテウで30B所要30分。現在、国境は閉鎖して日帰り入国は不可能。しかしタイ側の国境ゲートの中に入れてくれて写真をとらせてくれた。国境ゲートの間には1942に日本軍が敷いたという碑とともに当時の鉄路が部分的に残されている。

●サンカブリー(タイ人はサンカーと呼ぶ)からはバンコク新北バスターミアル行きのエアコンバスが朝7時30分に出ている。その他にも9時、10時30分、14時30分とあります。228B(14時30分だけA1、293B )。バスはタイで一般立ち入り禁止の世界自然遺産、ナレンサワン国立公園に続く深い森を通って行く。

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更新日:2008年5月22日 14時23分

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更新日:2008年9月8日 1時24分

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更新日:2008年3月14日 14時31分

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