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いまなぜ白川静なのか
最近、白川静さんの本を読んで紹介しているのですが、どうも人気がないようです。
僕の紹介の仕方がつまらなそうに思わせてしまうのか、自分とは関係のない分野の話と決め込んでしまっている人が多いからなのか、あるいは、すでに皆さん読まれているからかわかりませんが、理由はどうあれ、まだ白川静さんに触れたことがない人はぜひどれでもいいので一冊読んでみることをおすすめします。

どれがいいか迷う人は『漢字―生い立ちとその背景』から読まれることをおすすめします。
この本に関しては、いま半分ほど読んだ『白川静 漢字の世界観』で、松岡正剛さんがこんな風に書いています。
文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や欲望や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっているのです。その連携的な解読の中核に漢字マザーの発見がいくつもあったのです。そこが白川学のすごいところであり、私が1970年の『漢字』に衝撃をうけたところでした。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
そう。白川学は「すごい」んです。僕など、まだ3冊しか読んでないので、すでに書いた書評以上のことはいまの時点ではいえませんが、漢字の研究を通じて古代の中国および日本の祭祀、習俗、歌謡などの世界を浮かび上がらせてくれるのを読んでいると、その知の世界にどんどんのめりこんでいきます。
白川静という巨知を語ること
先の本の冒頭近くで松岡さんは「うまく話せるかどうか、とてもおぼつかない」とめずらしく慎重になっています。というのも松岡さんは「白川静という巨知を語ること」は、以下のことに値すると捉えてるからです。- 「文字が放つ世界観」を覗きこむこと
- 古代社会このかた「人間の観念や行為」をあからさまにすること
- 中国と日本をつなぐ「東洋思想の根底」をそうとうに深くめぐること
- 白川さんの研究人生そのものに貫通していた「気概と方法」に手や声や体をもって直截にふれること
まさにこれこそが「いまなぜ白川静なのか」と題したエントリーを書こうと思った理由に通じることですし、さらには「いまなぜ白川静なのか」そのものの答えだともいえると思っています。
難解にして、深甚
「白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって難解です。いや、深甚です」と松岡さんはいいます。けれど、続けて「その難解でありながらも深甚であるところがたまらなく魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言語思想や日本の文字文化について語る白川静がほぼ一世紀にわたってありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私は思う」とも書いてらっしゃいます。これはまさにそのとおりだと感じます。白川さんの本には難解でありながらもじっくり読むことで魅力を感じる深さがあるのを感じます。その世界にどんどんのめり込ませてくれる魅力があります。
にもかかわらず、この数十年の日本に決定していたのは、そのように「白川的であろう」とすることでした。
何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿るということは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジアの根本にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであって、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象などものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち向かってみるということなのです。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
「何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題」。本当にこれはどうにかしてほしいし、どうにかしないといけないと思います。わかりやすさがダメだというのではなく、わかるやすくなければ興味を示せない姿勢が問題だと思うのです。難解なものに腰を据えてじっくり関わっていこうという姿勢がとれないということが。
二相ではなく不二
僕の印象でいうと、アジアの世界観にふれるのが難解かつ深甚にならざるをえないのが、それが西洋のような還元主義や唯物的で分析的な思考をもたず、かつ、その結果生じてしまう要素がバラバラになって異分野間の連絡が通じないような事態に陥ることも回避できるような、統一的な視点をもっているからだと思っています。柳宗悦さんが『工藝の道』で書かれた言葉を引けば「二相ではなく不二」としてみる感覚が東洋に共通する感覚としてあり、そのややこしい不二という立場をとるからこそ難解にもなるし、深甚でもいられるのではないか、と。ジョン・ノイバウアーが『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』
「東洋学≒日本学」の先にあるものではないかと想像しているのです。そして、それはバラバラの情報を統合することができずに右往左往しているいまだからこそ必要な知ではないかと思うのです。
東洋的な結合の術に向けて
その意味では、最近紹介したばかりで同じく「結合術」をサブタイトルに含んだデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を読んだときの関心ともつながりますし、これも前に紹介済みのバーバラ・M・スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』、『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で取り上げているような問題(『ヴィジュアル・アナロジー』では「ライプニッツの存在論は美学と合して、個を、個を超えるものとハイパーリンクするところの、還元せず繋げるひとつの巨大プログラムを形づくっている」といった言及もある)にもつながっていきます。
そういう観点から、白川静さんの本は、特に情報デザイン、インタラクションデザインに関わる仕事をしている人にはぜひ読んでほしいと思っています。これがいまのインタラクティブ製品の問題を解決するための突破口に将来的につながっていく/つなげていかなくてはいけないはずのものであるから。西洋の物真似をがんばっても下手くそにしかできないくらいなら、東洋的な方法を生みだしてそこで勝負していかないとだめだろうと思うんです。そのためにもぜひ。
もちろん、それ以外の人でも言葉や文字、人間の思考や行為、そして社会におけるあり方などについて興味を持っている方にはおすすめです。とにかく読めば衝撃をうけるはずですので。
僕自身はいまは松岡さんの本と並行して、白川さんの『詩経―中国の古代歌謡』
ただ、やっぱり難解なのはちょっとと思う方は、はじめての白川学入門書として書かれた松岡さんの『白川静 漢字の世界観』から読むか、梅原猛さんとの対談形式なので読みやすい『呪の思想―神と人との間』から読まれてみてはいかがでしょうか。
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 漢字―生い立ちとその背景/白川静
- 呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛
- ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード:
- グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ/バーバラ・M・スタフォード
- ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月21日 2時54分
足りないのは思慮深さ
これはごもっとも。
一般に、インタラクティブな製品が私たちを苛立たせるのは、機能が足りないからではなく、思慮深く振る舞わないからだ。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
アラン・クーパーはそう書いたうえで、「思慮深い製品の特徴」として以下の項目をあげています。
- ユーザーに対して関心を示す
- ユーザーに対して敬意
経緯を払う - 先が見える
- 常識を働かせる
- 人のニーズを予測する
- 用意周到だ
- 自分の個人的な問題で他人に負担をかけない
- ユーザーに必要な情報を提供する
- 洞察力がある
- 自信を持っている
- あまり質問をしない
- 穏便にエラーを収める
- ルールを曲げるべきときを知っている
- 責任を取る
いつも同じパソコンを使ってるのに、どうして違うサイトで買い物したり、何かを申し込むたびに、毎回名前や住所を入力しなきゃいけないの(いい加減覚えてよ)。
いつまで経っても僕の好みややりたいことをわかってくれないのはどうして?
保存しますか?って、そりゃ編集したんだから保存するよね、常識的には。
なんで一回アプリを終了したらアンドゥ(戻す)できなくなるの?
しつこく確認メッセージ出すけど、それ、僕の問題じゃなく君の問題だよね。
まったく気がきかないったらありゃしない。
もしこんな店員がいたらどうよ?って考えると、いかにインタラクティブシステムが要求するコミュニケーションが思慮に欠けるかということです。
昔、矢野さんが、人間中心設計の必要性を説明するのに友達へのプレゼントを考える例を挙げていました。
でも、特別の日に何をプレゼントするかを考えることも大事かもしれませんが、普段から相手のことを考えて自分の振る舞いを見直すことのほうがそれ以上に大事なんですよね。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月19日 22時34分
呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛
最近、一冊読んで面白かった人の本を続けて読む機会が多くなっています。
松岡正剛さんは別格だとしても、すこし前の高山宏さんもそうだし、割と最近では田中優子さんもそうでした。そして、いまは白川静さんのサイクルに入っていて、『初期万葉論』と『漢字―生い立ちとその背景』に続いて、梅原猛さんとの対談である『呪の思想―神と人との間』を読みました。
対談当時、白川静91歳、梅原猛76歳というからそれだけですごい。しかも、お二人ともこんな素敵なお顔をしてます。

91歳+76歳に蓄積された知識の深みは感嘆するばかりです。さらに対談ですから読みやすく、ほかの白川さんの著作に比べたらはるかに読みやすく、はじめて読む方にもおすすめ(もう1冊入門書としては最近出たばかりの松岡正剛さんによる新書『白川静 漢字の世界観』
訓読みを発明したのは百済人
さて、この本の内容ですが、梅原猛さんの問いに白川静さんが答えるという形で、漢字の話、孔子の話、詩経の話というように話題が進んでいきます。話題の舞台は多くは白川さんの専門の古代の中国で、そこに梅原さんが専門の古代の日本の話がまぎれこんだりします。いずれも本のタイトル通り、ともに呪的なもので政治が社会が人間が動いていた時代です。先日紹介したばかりの『漢字―生い立ちとその背景』でも文字が生まれるためには絶対王朝が必要だと書かれていましたが、ここでも、白川さんは、
白川 日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来なければ、文字は生まれて来ない。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と言っています。
そして、漢字が日本に入ってきてから、いまのような訓読みが生まれたのは、日本人が工夫してそうしたのではなく、
白川 本当の訓読みを発明したのは、僕は百済人だと思う。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と、当時日本に住んで「史(ふひと)」として文章に関することをやっていた百済人が、日本以外ではどこの国にもない訓読みを日本語に漢字を適合させる方法として折衷的に生み出したと白川さんは考えているんですね。
こういうおもしろい話が本の随所に出てくる。読みはじめたらどんどん読めちゃいます。
祝詞を入れた器から
で、やっぱり興味をひくのが漢字の話です。呪の思想におおわれた殷の時代にできた字ですから、それが象形するものもほとんどが呪的なものなんですね。例えば、祝詞を入れた器をあらわす口に似たサイという文字。これが元々はホコをあらわす「才」ともう1つの
ホコをあらわす「戈」がいっしょになった、載や裁から車や衣をとった部分から生まれているというんです。これはすべてのもののはじめを意味する文字なんだそうです。
下の写真の右ページの真ん中あたりにこの文字から、祝詞を入れた器をあらわす文字が生まれているのが示されています。

そして、この祝詞を入れた器をあらわす文字に蓋や針を加えて「吉」「吾」「古」「害」「舎」の字が生まれています。「吉」は器のうえにマサカリを置いて守る意味。「古」は同じく器の上にたて(十)を置いて永く守る意味だそうです。おもしろいところでは耳の大きな人のかたわらに器をおけば「聖」、神がかった巫女が髪を振り乱して器を抱えて舞う姿が「若」なのだそうです。そもそ
もこの「器」という文字が祝詞を入れた器を清める犬牲をしたことから生まれた字であることは「漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介済みです。
神へ問う意味の「言」と神が答える意味の「音」の2つの文字の対称性もおもしろい。ともに器にハリ(辛)を指した象形で、一方の「言」は器が空で、「音」は器のなかに神の意が入っている(神が音連れてるわけです)。器にハリは「害」もおなじで、ただ、こっちは取っ手付きのハリで器を破壊していることの象形なんだそうです。
さらに先の「才」のほうからは「存(才の下に産子)」「在(才の下に土饅頭)」が、「戈」からは「戯(戈が虎を打つ形)」がそれぞれ生じています。
詩は歌われ、神話は語られた
これらすべてが神と人との交信の儀礼などを示す呪的な行為を象形化しているんですね。王もまた神と交信することを示すことで絶対王となる。だからこそ、「日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったから」になるんですね。中国には絶対王になる環境的必然があったのに対して、日本の氏神にはその必要性がなかったということなのでしょう。梅原 ところが詩が歌うことを離れ、音読することを離れ、だんだん目で見るだけのものになってきた。現代詩の衰退は、そういうところにあると思っています。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
呪的な世界において何より詩は歌われ、神話は語られたのです。それがことばを離れ、文字のみを見るようになると呪的な社会は合理的な社会へと移っていく。『初期万葉論』でも『漢字―生い立ちとその背景』でも語られていたことです。きっと文学というのは本来こういう場所に立って考えるべきものなんでしょう。
最近はこのあたりの話が非常に興味深く感じられます。
と、この本があまりにおもしろかったので、今度は梅原猛さんの『隠された十字架―法隆寺論』
こうやって、どんどん読みたい本がつながっていくんです。
あっ、そういえばこのブログ、ちょうど3年前の11月18日にはじめたんだった。祝3周年。早いもので4年目に突入です。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月19日 1時26分
工藝の道/柳宗悦
「自分で考えろ」「答えがあると思うな」
学校でも企業でも当然のように用いられるこれらの言葉は果たして本当に正しいか? 最近、そのことに大きな疑問を感じています。
「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたように、歴史的には時代が下れば下るほど、ものつくりの技術は質的に劣化し、かつて可能であった品質をあとの時代には再現できなくなります。いまに生きる人たちはこのことに無頓着ですが、すこしでも関心をもって歴史上の制作物を振り返る目をもった人であればその差は歴然としています。
過去の技術の伝承・維持、あるいは個人意識の孤立を回避するには
なぜ過去にあった質を維持する技術の伝承ができないのか?それは白川静さんが『初期万葉論』や『漢字―生い立ちとその背景』で、田中優子さんが『カムイ伝講義』で描いてくれているような社会のしくみの変化、それにともなう人間の内面の変化、徐々に距離感ができ遠ざかる人間と自然との関係、そして、経済文化の変化にともなう働き方の変化や働くことの思想の変化が、生産の単位や消費の単位を今日までに徐々に個人化してしまったことにあるのでしょう。
今日美術と呼ばれるものは皆Homo-centric「人間中心」の所産である。だが工藝はそうではない。そうでないがために卑下せられた。しかしそうでないが故に讃美される日は来ないであろうか。工藝はこれに対しNature-centric「自然中心」の所産である。ちょうど宗教がTheo-centric「神中心」の世界に現れるのと同じである。柳宗悦『工藝の道』
20年ごとに行われる(伊勢)神宮の式年遷宮は、神宮そのものの維持であると同時に、それを建造する技術の維持でもあるといいます。職人は人生のなかで大体3度の式年遷宮に立ち会うことができ、一度目ははじめてその場に関わる見習いとして、2度目は経験をもった職人として作業の中核を担い、最後の3度目ははじめて作業に立ち会う職人のために技術だけでなく式年遷宮のしきたりも伝承する役割として、その場に立ち会うことになるといいます。とうぜん、それが20年ごとに行われるよう維持するためには技術そのものだけでなく、式年遷宮という儀礼そのものの価値を損なわず維持できるよう社会的、経済文化的な維持も必要になってきます。神と人との関係とともに、そこで使われる建材となる自然との関係も維持しなくてはいけません。
そこには個人がどうの、新しい技術や個性がどうのという価値観はまったく存在しません。新しいものを生み出すことばかりに熱心で、ものを長く使うことだけでなく、技術や社会の価値観そのものを維持していこうという姿勢を著しく欠いた現代の経済文化的、社会的価値観とはまったく異なるものがあります。
個性中心の見方からして、工藝の美が等閑にされたのも無理はない。否、高き工藝は、美術的であらねばならぬとさえ考えられた。柳宗悦『工藝の道』
これが現代主流となっている風潮です。そこではものつくりの技術が時とともに劣化していくだけではなく、社会のしくみそのものが次第に劣化し、人間は神からも自然からも隣人や家族からも距離をもった孤独な存在となっていきます。そして、さらには自分の身体や自分の感性からも孤立化した孤独な意識だけになって生きる力を失っていく。
学校でも、企業でも「自分で考えろ」と言われ、個性や個人力を磨くことばかりを説かれるだけで、依ってかかる社会や経済文化の価値観や思想を示されることはない。果たしてこれが本当に正しい道なのだろうか?
なぜ工藝なのか?
柳宗悦さんの『工藝の道』に関しては、これまでも「正しき工藝の11の法則」や「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」をはじめ、「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない」、「勤労・勤勉が可能な社会」、「失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?」などのエントリーですでに何度も取り上げてきましたが、このあたりで一度しっかりまとめておきたいと思います。日本民藝運動を興した柳宗悦さんはご存じの方はいると思いますが、著名な工業デザイナーである柳宗理さんの父親にあたる方です。この『工藝の道』は柳宗悦さんが日本民藝運動をはじめるにあたって最初に工藝のもつ価値を記した一冊にあたるものです。
知られているように、柳宗悦さんは全国をまわって自分の直観にひびくよき工藝品の収集を行い、その成果を日本民藝館に結実させています。その一方でなぜ自分たちが工藝に価値を見出し、日本民藝運動を行っているのかに対するアカウンタビリティの義務もしっかりと多くの著作を通じて果たしています。
私は私自身をここに主張するのではなく、よき作品が示す工藝の意義を、そのまま忠実に伝えたいと思うのである。
この問題が投げる抛物線は広くかつ深い。美に結合し、生活に参与し、経済に関連し、思想に当面する。工藝が精神と物質との結合せる一文化現象として、将来異常な学的注意を集めてくることは疑いない。柳宗悦『工藝の道』
ここに書き記されているように、柳さんは工藝に単なる美を見ているのではなく、生活への参与、経済との関わり、思想への直面をみています。それは上に書いたような白川静さんや田中優子さんの問題系にも関わりますし、『ふすま―文化のランドスケープ』の表具師・向井一太郎さん、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』の法隆寺棟梁・西岡常一さんのような職人の技術と生活・信仰に関する価値観や、『お能・老木の花』に所収された「梅若実聞書」で白洲正子さんが聞き語りをしてくれている能楽師・二代目梅若実さんの言葉(「言いがたいところの智慧」)にも感じられるものです。
ものつくりの射程
ものをつくるための思考や技術は、単に生活のための必要品をつくるということだけでなく、社会や文化のなかで自分はどういう立場にあるのかを学び、制作をする際や素材を入手する際に自然の材から自然のもつ力を学び、自分の力だけではどうにもできないこと、自然や過去の人びとの努力やまわりの人との協力によって成し得ることの力を学ぶという「広くかつ深い」抛物線のなかにあるものととらえなくては単なるものつくりの話として軽くあしらって終わりになるかもしれません。しかし、そう考えるのは、ものつくりが人びとの生活に関わるものであること、経済文化や社会と関わること、ものをつくることと自然との関わり、そして、ものをつくったりものを使うことがどれだけ人間の認知や思考に影響を与えるかというつながりを見捨てて、自分本位な狭いものつくりの視点でそれを捉えてしまっているからにすぎません。
されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。
ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。(中略)用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。
初代の茶器に見られる雅韻は、いかにそれが多量に迅速に作られた民衆的作品であったかを語る。茶器はその中から選んだわずかなものに過ぎぬと云う人もあろうが、しかし多量につくられる品でなくば、選ぶということもできないであろう。茶器の美は「多」の美である。
人々は美しい作を余暇の賜物と思ってはならぬ。休む暇もなく働かずしてどうして多くを作り、技を練ることができるであろう。汗のない工藝は美のない工藝である。
沈んでゆく工藝の歴史を省みると、このことが著しく目に映る。そこには情愛の水が涸れきっている。器は愛なき世界に放たれているのだ。傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない。どうしてかかる場合に器に愛を持つことができよう。
私たちは工藝においてむしろ天然の大を記念するに過ぎない。美は人為の作業ではなく、自然からの恩寵である。自然の慈雨に濡れずして工藝の種は芽生えないであろう。材料の貧しさは美の貧しさである。自然を遠ざかるものは、美からも遠ざかる。
無心とは自然に任ずる意である。無学であった工人たちは、幸にも意識の慾に煩わされることなく、自然の働きを素直に受けた。無心の美が偉大であるのは自然の自由に活きるからである。この自由に在る時、作は自ら創造の美に入る。近代の作に創意を欠くのは、自然への帰依が薄いからと云えないであろうか。
されば工藝の美は伝統の美である。作者自らの力によるものではない。(中略)よき作を守護するものは、長い長い歴史の背景である。今日まで積み重ねられた伝統の力である。そこにはあの驚くべき幾億年の自然の経過が潜み、そうして幾百代の人間の労作の堆積があるのである。すべて柳宗悦『工藝の道』
こうしたことが「正しき工藝の11の法則」でも示した以下の11の法則としてまとめられています。
- 工藝の本質は「用」である
- 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
- 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
- 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
- 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
- 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
- 手工藝にも増してよき工藝はない
- 正しい工藝は天然の上に休む
- 高き工藝の美は無心の美である
- 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
- 工藝においては単純さが美の主要な要素である
ここでは、Homo-centric「人間中心」に工藝の美、ものつくりの意義が問われているのではなく、Nature-centric「自然中心」であり、経済文化や社会における労働の価値、そして、人間の生き方までを射程にいれて、ものをつくるとはどういうことかが問われているといえます。
器の正しさは制度の正しさを要求する。器の美に破綻が来たのは、社会に破綻が来たからである。柳宗悦『工藝の道』
「自分で考えろ」「答えがあると思うな」というような言葉がまかりとおるような個人主義の社会はどこか破綻しています。個人は社会において常に孤立しており、個人のなかでも身体による労働や体験から得られる感覚から切り離された自己意識が孤独に苛まれています。
他力道
ここではとてもではありませんが、この偉大な書のよさのすべてを伝えきることはできません。願わくば、ものつくりに関わるより多くの方が実際にこの本を手にとって読んでいただければと感じます。とてもすべてを伝えきることはできませんが、最後に自然やまわりの人間・社会といかに関わりをもって、ものつくりを行っていくかということに関する柳さんの考えを紹介しておきましょう。
柳さんは「何の要あってかくは自然に素直にまた容易に生るべき美を、強いて曲げ作り工夫しようとするのであろうか」と個人の創意に疑問を投げかけています。なぜ「自然の志の悖る」ような作意や名をあげんがための個性の作をつくろうとするのか、といい、「自然は工藝をして民衆の手に成就せしめるために、最も平易な道を準備している」と書いています。
柳さんのこの考えの背景にある思想は仏教における「他力道」です。
私はあの『歎異抄』に書かれた親鸞聖人の言葉を感慨深く想い起す。「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」と。(中略)私は宗教におけるこの秘儀を、工藝においても深く体験する。私が費した多くの言葉もついにこの一句に尽きる。柳宗悦『工藝の道』
「もしこの世に工藝の聖典があるなら、この言葉によってこそ書き起こされているであろう」とまで柳さんは言っています。
この「他力道」はいわゆるネットワーク理論や複雑系の科学、あるいは、環境とのアフォーダンスを考える生態的心理学や、そのもとにもなっている生態学、さらには経済文化を相互作用的に捉えた思想との関係で、僕らは捉えていかなくてはいけないでしょう。
個人主義という還元主義はいまや科学が還元主義におちいった挙句、おもちゃをバラバラにしてしまった子どもが再びそれを組み立てなおすことができずに泣いているような状態で、途方にくれています。ものつくりのような人間が行う活動に関しても同じです。ものつくりという活動をほかから切り離して単独で考えてしまい、それにともなう技術や思考もすべて「自分で考えろ」的な個人主義に還元し、まったく無意味な個性や新奇性などの作家性に溺れてしまっているがゆえにものつくりはどんどん経済文化や人間の地に足のついた生き方とはかけ離れてしまっています。そこに間違いがあるのは、いまや明らかなはずなのに、そこから抜け出すことができずにいるのが現状です。
僕はその原因のひとつに、これまで人類は新しい何かを生み出すことばかりに価値を置き、そのための方法論を考えるのには労を厭わなかったが、その反対に(伊勢)神宮の式年遷宮のような長期における維持・保存の方法論の創出には力を入れてこなかったということがあるのではないかと思うのです。その結果、「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたような時代とともに技術や生み出されるものの質が劣化していったり、器の正しさを維持するための制度の維持ができないという事態を繰り返してきたのでしょう。
ましてや、いまはもはや何を価値とするかの基準を社会的に示すことができず、まったく無意味に資本主義的要請を成り立たせるためだけにものつくりが行われている。そんな状況において「自分で考えろ」などと言われて、まともな思考ができるはずがないのです。
「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」
僕らはもう一度「他力道」に帰るべく、過去のよき遺産に立ち返る必要があるのではないでしょうか?
関連エントリー
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- 失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月16日 19時3分
漢字―生い立ちとその背景/白川静
本当に人間について知りたければフィルードワークだけでは足りません。だって、フィールドワークできない場所でも人間は生きていたのだから。そう、もはや僕らが足を踏み入れられない過ぎ去った過去にも。
過ぎ去った過去における人間を知る(特に人間中心のデザインの観点から)という意味では、例えば、『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』で紹介されている深澤直人さんの「アクティブ・メモリー」という用語がおもしろいです。
アクティブ・メモリーとは、特定の個人における経験的な記憶を指すのではなくて、誰もが共通に知っているものの形を通じて身体に意識されないような形で残っている記憶を指します。例として出されるのは、毎日触っている電車のつり革の形は意識としてはよく覚えてはいなくても、ある日その形が微妙に変化したらきっと握った感触から、あれ?と感じるだろうというようなことが含まれます。
アフォーダンス理論とも関連するこのアクティブ・メモリーという外部環境と身体的記憶との関係性は、外部環境から人間の身体側へと記憶が書き込まれるという方向だけでなく、人間の身体行為が外部環境に及ぼす行為の痕跡としても現れたりもします。先の本では、バス停の前のガードレールが何人もの人が座った影響で曲がっている写真などが紹介されています。
この人間が外部環境に残す痕跡にも大きく分けて2つのものがあります。
1つはガードレールの湾曲のように人間が無意識のうちに残してしまう痕跡。もう1つは言うまでもなく、人が意図して残すデザインされた人工物という痕跡です。後者の人工物の形状もまた人間の行為の痕跡をその輪郭に残しているものだといえるでしょう。特に長年にわたって多くの人に繰り返し用いられてきた人工物の形状であれば、そこに人間の行為の痕跡を刻んでいるとみることができるはずです。
そこにフィールドワークによる観察がもはや不可能な過去においても、その時代に生きた人間を知る手だてが隠れていると思います。そして、それを実際に行っているのが、この『漢字―生い立ちとその背景』をはじめとする白川静さんの漢字研究だといえるでしょう。漢字という人工物の形状を知ることで、その成り立ちやそれがどのように使われたのかという面で当時の人間が見えてきます。
殷における占卜と王の神聖性と文字
漢字の元になった甲骨文は、中国で殷の時代に生まれています。その誕生は、確実なところでは紀元前14世紀にまで遡ることができます。殷の時代、「王朝の秩序の原理は、その神話であり、祭祀の体系」でした。卜いを通じて王は神と交信することで政治を司っていました。その占いに使われたのが獣骨であり、亀の腹甲でした。その亀の甲にすり鉢状の穴をほり、その部分を強く灼くことで、縦横に線が走るのを見て占ったのです。
獣骨による占卜は、文字のない時代からすでに行われていました。古い時代の卜骨には文字は記されていないといいます。占卜は文字がなくても可能なものでした。
ところがある時期から占卜に用いた獣骨、亀の甲に文字が見られるようになります。王による占卜のことばが記されるようになったのです。記された文字は占卜の内容とともに、その結果としての王による占断のことばも記されていました。ただ占卜するだけなら必要がなかった文字による記録は、王による占卜に誤りがなかったことを残すために用いられるようになったのです。つまりは王の神聖性の顕示のために文字は必要になったのです。
古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
この祭祀が中心となった殷の政治のありかたから様々な文字が生まれています。例えば、殷では祭祀に犬を犠牲として用いることが多かったそうですが、この犬の字がさまざまな祭祀に関連する言葉を示す文字に見受けられるといいます。
例えば、上帝を祭ることを「類」というそうですが、類の本字は「大」の部分が「犬」であり、犬牲をもって祀ることを意味する文字です。また、「然」はその肉をもやす意味で、それに火を加えた形はいうまでもなく「燃」です。犬牲をもって器物を清めることも多かったそうで、器(もとは類と同じく「大」の部分が「犬」)や哭などの字に犬を添えているのもその意味だといいます。
文字と祭祀社会
いまさらいうまでもなく漢字は象形文字として生まれました。王という字も、王権を示す儀器としての鉞(まさかり)の象形であるとされています。
「殷王は、年間を通じて間断なく祖霊との交渉をもち、祖霊の保護を受けることができる」と示すために、殷では一年を埋め尽くすような祭祀体系が組まれていたといいます。
祖霊の観念、祖霊崇拝の祭祀化は、定着的な農耕社会の成立によって生まれるとされている。このような祖祭の体系は、農耕社会を基礎とする殷王朝の繁栄を反映するものであろう。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
稲作には欠かせない雨を願って舞い歌う儀礼もあり、その「舞」を示した文字は最初は「無」であり、人が脇に飾りをつけて舞う姿の象形だそうです。

甲骨文として刻まれた文字を読み解いていくことで、このような殷の社会が見えてきます。まさに人工物の解読によって人間またはその社会における生活が見えてくるのです。
文と文身(イレズミ)
そもそも「文」という文字自体からも当時の人びとの儀礼が見えるのです。文はもとは文身(イレズミ)を意味する字であり、人の胸部に心臓の形の文身を加えた象形です。
文身の美しさを文章という。文は人の立つ形の胸部に、心字形やV字形やXなどを加えるのである。章は文身を加える辛(はり)の先の部分に、墨だまりのある形である。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
文は胸の中央にする男性の文身をあらわしたもので、女性の場合は両乳房に記したといい、その象形から爽という字も生まれているそうです。
生まれることを示す「産」はもともとは立の部分が文であり、もともとは赤子がうまれたときにひたいに加えた文身の象形でした。また文身は一定の年齢に達するごとに加えられ、「彦」もまた顔に文身を加えた象形であり、「顔」という字そのものが文身をくわえた額を指しているそうです。
呪力から人間の内面化へ
似たような文身を示す例としては「徳」の字もあげられています。徳はもともと目の呪力を意味した字で、もともとは「心」はついておらず、目の上につけたしるしを表す象形と目の呪力をもってほかと接することを示した彳を加えた文字です。異族に接する際にそうした文飾を目のうえに施すことで、目の呪力を高めたのでした。ただ、そうした儀礼も時代が下るにつれ、変化していきます。
しかしこれらの字は、やがてその呪的な力が、その文飾にあるのでなく、内的な特性、精神的な力に本づくものとされるようになった。古代の呪的な行為を示す字は、このようにして人間の内面的な特性を意味する語となる。徳の字に心が加えられるのには、帝から天への転換、人間の内面性への自覚を必要としたのである。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
殷から周へ王朝が変ったあとに起こる変化ですが、これはまさに「初期万葉論/白川静」で描かれた日本における前期万葉と後期万葉の社会の変遷と重なります。前期万葉の呪的な世界から後期万葉の律令的な合理性の世界への変化が、殷から周への変化にも見られると白川さんは指摘しています。
それはこのような感情の分化が、時代とともに進んで、文字がその必要に応じて、新たに作られてきたからである。卜文には心に従う字がほとんどみえず、金文に至ってもなお20数字を数えるにすぎない。人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
人間には心があるのが当たり前と感じる僕らには、「心性の問題はまだ起こりえなかった」ということ自体が衝撃的です。そして、そうした現代の人間とはまるで異なる人間像を、古い文字の解読から読みとれてしまうことがすごいと思います。
外部の物理環境-人間の行動-人間の心理・思想
こういうところにこそ、最初に書いたような過去に作られた人工物から当時の人間の記憶を読み解くことの可能性を感じます。それは田中純さんが『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』で詳しく紹介しているアビ・ヴァールブルクによって開始された絵画からそれが描かれた文化・社会を読み解くイコノロジー研究や、杉浦康平さんが『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』などの著作で示されているような仕事とも重なるものだと感じます。前に「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」というエントリーを書きましたが、外部の物理環境-人間の行動-人間の心理・思想は1つのエコシステムのなかで相互作用をするものとして捉えないと、本当の意味でデザインを人工物と人間の関係性として捉える人間中心設計はできないと思っています。以前から書いていますが、いまの人間やいまの世につくられた形だけを見ていては、人間を知ることもできなければデザインを深く考えることもできないと思っています。その意味で最近読みはじめた白川静さんの著作は、また新しい世界を見せてくれていて非常に勉強になります。
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 外は、良寛。/松岡正剛
- 空海の夢/松岡正剛
- アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純
- 宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平
- 日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛
- 庭と日本人/上田篤
- デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人
- 質の劣化と文脈からの逸脱
- ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月16日 3時13分
もうペルソナなんて言わない
さて、1つ前の「ゴールダイレクテッドデザインとは」で紹介したゴールダイレクテッドデザインプロセスのなかでもとうぜんペルソナとシナリオが使われています。そりゃ、そうですよね。クーパーがペルソナの生みの親なんですから。
僕はこれまでペルソナ/シナリオ法という用語を使ってきましたが、今後はもうその用語は使わずに、ゴールダイレクテッドデザインという用語を積極的に使っていこうと思います。
というのは、ペルソナ/シナリオ法あるいはペルソナという言い方は誤解が多すぎるからです。
デザイン・シンキング(デザイン思考)といい、どうしてこうも流行りだからというだけで飛びついて、それが何なのか、何の役に立つのかをちゃんと自分で理解して使おうとする人がすくないんでしょうね。それでそういう人に限って間違った使い方をして、なんだこんな方法を役に立たないと言いだすことになるのだからあきれます。
ペルソナはゴールダイレクテッドデザインプロセスの一部
とにかくユーザー像のモデリングの方法であるペルソナが、ゴールダイレクテッドデザインプロセスの一部であり、インタラクションデザインの方法だと理解しない(しようとしない)人が多すぎます。ペルソナを用いた方法がどんなデザインでも有効だと考えるのはまだマシなほうで、なかにはひどいのになるとマーケティングのセグメンテーションに使おうとする人もいたりします。これはもうわけがわかりません。ゴールダイレクテッドデザインで行うユーザー調査は質的調査なわけですから、その調査からどうやって市場のセグメンテーションができるかわかりません。仮にセグメンテーションのなかの顧客像を明確にしたいのだとしても、それがある特定の製品に関する顧客像ならまだ調査内容も明確にできますが、企業単位でうちの顧客の人物像を明らかにしたいなどと言われても、それにゴールダイレクテッドデザインの手法が適切かといえばまったく不適切です。これはもう180度正反対だとさえいえます。
市場の量的な調査と市場セグメントの分割は、製品を売るためには非常に役立つが、人々が実際に製品をどのように使うかについては大して重要な情報を与えてはくれない。特に、振る舞いが複雑な製品ではそれが顕著になる。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
とクーパーは書いていますが、裏返せば、ペルソナやゴールダイレクテッドデザインは、複雑な製品のインタラクションをデザインするためには非常に役立つが、どんな人びとに実際に製品を売るのかを決めるのには大して重要な情報を与えてはくれない、ということができるでしょう。
インタラクションデザインの手法だからマーケティングに使えるわけがない
それなのに、ペルソナとマーケティングを結びつけたがる人がやたらと多いのは困りものです。どうもその原因は「ペルソナ」といってしまうと、それがデザインの手法、特にインタラクションデザインの手法であることが見えなくなてしまうということも1つの理由としてあるのかなと思います。だから、マーケティング上の顧客理解というへんなところでの利用が想起されてしまっているのでしょう。そういう意味で僕は今後、ペルソナ/シナリオ法というこれまで使ってきた用語をやめて、ゴールダイレクテッドデザインという用語を使うことにしたんです。
断言しますが、ペルソナなんか作ったってマーケティングには役に立ちません。
もちろん具体的な商品企画やこれまた具体的なマーケティング・コミュニケーションのプランニングといった用途であれば、広い意味でのインタラクションデザインに含むことができますからゴールダイレクテッドデザインの手法を利用することもできるでしょう。
でも、マーケティングの上流工程でのセグメンテーション~ターゲティング~ポジショニングなんてところで使えるかといったらまったく役に立たないといっていいと思います。
市場セグメントとペルソナは1対1対応しない
そんなわけのわからない利用法を考えるならきちんと従来的な方法でマーケティング調査をやってほしい。そこでSTPが定まったところで、ターゲットとなる顧客層に対してポジショニングを行う製品のペルソナを作ってゴールダイレクテッドデザインすればいいんです。というか、ゴールダイレクテッドデザインを行う前にはちゃんと市場をセグメント化してターゲットも決めてポジショニングの仮説くらいはもっててくれないと誰を対象にどんな調査をすればいいかも決まらないんですよね。ただし、ここも誤解してはいけません。市場セグメントを限定するのは、セグメントごとのペルソナを作るためではありません。
市場セグメントは、調査段階でターゲット市場のペルソナの範囲を限定するために使える。しかし、市場セグメントとペルソナの間に1対1の対応関係ができることはまずない。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
これ、本当にやってみればわかります。ユーザーのゴールやそれに対応する行動パターンで調査結果を分類していくと、そのユーザーグループは市場セグメントとはまったく無関係に分かれます。これは当たり前で切り口が違うからです(「セグメンテーションとは」参照)。誰に売るかという切り口での市場セグメントと、ユーザーのゴールと行動パターンで切り分けるペルソナでは、分類の視点が異なるのだから分類結果がいっしょになる必然性はどこにもないのですから。
だからこそ、市場セグメンテーションにペルソナを用いるってのはわけがわからないことなんですね。
ほんとこのくらいのことはちゃんと理解した上で適切な手法の選択を行ってほしいものです。
関連エントリー
- ゴールダイレクテッドデザインとは
- ユーザーの3つのゴール
- デザイン・シンキング
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- 『About Face 3 インタラクションデザインの極意』を買いました。
- エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために/ドナルド・A・ノーマン
- デザイン言語2.0 ―インタラクションの思考法/脇田玲、奥出直人編
- デザイニング・インターフェース ―パターンによる実践的インタラクションデザイン/Jenifer Tidwell
- ペルソナを描く目的は人とモノとのインタラクションをデザインすること
- 行動の痕跡を観察しインタラクションをリデザインする
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月15日 1時16分
ゴールダイレクテッドデザインとは
ゴールダイレクテッドデザインとは、アラン・クーパーが提唱するインタラクションデザインの方法です。適切にデザインされた振る舞いを通じてユーザーのゴールを達成できるようにすることが、ゴールダイレクテッドデザインの目標になります。
クーパーはゴールダイレクテッドデザインをよりよく理解するのに必要なことは、
- ユーザーのゴールを知ること
- それが振る舞いのデザインにどのようなヒントを与えるのか
の2点だとしています。
ユーザーのゴールについては、先にクーパーの言葉を引用した「ユーザーの3つのゴール」というエントリーを書きましたが、ほかにもクーパーはこんな風にも書いています。
多くのデザイナは、デザインの目標はいつも覚えやすいインターフェイスを作ることだと思っている。覚えやすさは重要なガイドラインだが、実際には、ブレンダ・ロールがいっているように、デザインの目標はコンテキスト次第で変わる。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
クーパーが例に出しているのは自動電話交換システムの例で、この製品を使う人は一定の時間内に何本の電話を処理したかで給与が決まったりするため、デザインに求められるものの優先度は覚えやすさよりもスループットの速さになるだろうと言っています。そりゃ、そうですよね。そっちのほうが製品を使う人のゴールに合致してますから。
このような形で明確にしたゴールがいかにインタラクションデザインにヒントを与えるのかは、クーパーが提唱するゴールダイレクテッドデザインプロセスのなかに埋め込まれています。

ゴールダイレクテッドデザインプロセス
クーパーが提唱するゴールダイレクテッドデザインプロセスも、ほかのUCDプロセス(もちろん僕が『ペルソナ作って、それからどうするの?』具体的には、ゴールダイレクテッドデザインプロセスは以下のようになっています。
- 調査
- プロジェクト定義(目的、目標の決定)
- 物的調査(既存製品・仕事の見直し)
- 関係者インタビュー(製品の可能性と制約の理解)
- ユーザー調査(観察&インタビュー)
- モデリング
- ペルソナ
- その他のモデル(ワークフロー、環境、人工物)
- 要件確定
- コンテキストシナリオ
- 要件仕様
- フレームワークの設定
- 情報や機能のビジュアル要素(オブジェクト)の定義
- フレームワーク(オブジェクトの関係、概念のグループ化、フロー、ストーリーボードなど)
- キーパス・シナリオ(主要なパスの詳細なインタラクションの記述)、チェックシナリオ(主要なパス以外のインタラクションのチェック用のシナリオ)
- デザインの精緻化
- 詳細デザイン(見かけ、インターフェイス、振る舞いなどの精緻化)
- 開発サポート
- デザイン変更(新しい制約条件や締切への対応)
大枠では、僕が『ペルソナ作って、それからどうするの?』
このプロセスで参考になるなと思ったのは、シナリオを「コンテキストシナリオ」「キーパス・シナリオ」「チェックシナリオ」の3つに分けているところ。これは複雑なシステムをデザインする際には非常に有効です。特にチェックシナリオという発想はいままでの僕にはなかったので、これからは有効に使っていこうと思います。
それにしても、クーパーの『About Face 3 インタラクションデザインの極意』は気になるところをピックアップして読んでますが、これはインタラクションデザインを考える上では、一番参考になる本かなと思います。高いですけど、ちゃんと学びたい人はこれだけは買ったほうがいいでしょう。
UCDの全体像は僕の本を読んで理解してもらいつつ、僕の本では内容が薄くなっている「詳細デザイン」の部分はこれを参考にしていただくとよいと思います。
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作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月15日 0時24分
ユーザーの3つのゴール
自分用にメモ。
アラン・クーパーは『About Face 3 インタラクションデザインの極意』のなかで、ノーマンが『エモーショナル・デザイン』のなかで示した、脳機能の3つのレベルとそれに対応した3つのデザインスタイル、
- 本能的デザイン:外観
- 行動的デザイン:使うことの喜びと効用
- 内省的デザイン:自己イメージ、個人的満足感、想い出
にあわせて、ペルソナの定義の一部としてモデル化するユーザーのゴールを、以下の3タイプに分けて考えることを提案しています。
- エクスペリエンスゴール
- 本能的認知プロセスと関わっている。ユーザーがどのような感じを求めているか。
- エンドゴール
- 行動的認知プロセスと関わっている。ユーザーが何を知りたいか。
- ライフゴール
- 内省的認知プロセスと関わっている。ユーザーが誰になりたいか。
これは「なるほど」と思いました。
自分でもいつもペルソナのゴールを定義する際に、どうも設定するゴールのレベルが一定させられないなと感じていたからです。実際にはこの3タイプの区別ができていなかったために、複数のペルソナを作る際にタイプの混在が見られたり、デザインの目的とは不釣合いなゴール設定になってしまうこともありました。
今後はゴール設定の際は、この3タイプを意識しようと思います。
アラン・クーパーは、ゴールに3タイプあることを示したあと、次のように言っています。
ペルソナ、ゴール、シナリオを使えば、本能的、行動的、内省的認知プロセスに訴えかける力を持ち、それらを調和のとれた全体にまとめ上げるデザインを作ることができる。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
まさにそのとおりですね。
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作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月14日 14時59分
言いがたいところの智慧
技術や手法の伝達ではなく、言葉として語って伝えることができない「智慧」の伝授ということを最近よく考えます。
まったく一介の隠居のおじいさんが語る昔話にすぎないのであるが、そこに長年の経験から得た、人間の真の「智慧」とも言いたいものがうかがわれた。能楽という一つの道に対するその盲目的な信仰は、思想的にも生活上にも、近代文明のもたらした不安な世の中には、何かしら羨ましいものにさえ思われてくる。
「梅若実聞書」は、白洲正子さんが自身の能における師でもあった二代目梅若実(五十四代梅若六郎)さんへの芸談に関するインタビューの記録として記したものです。その「はしがき」にあるのが上の言葉です。
この言葉に続いて、白洲正子さんはこんなエピソードを紹介しています。
私としては、曰く言いがたし、というその言いがたいところの「名言」が聞きたいばかりに、きっと読まれた事はないだろうと思って、世阿弥の『花伝書』をたずさえて行った。
「先生、この本お読みになったことがありますか。これこそほんとの芸術論というものです」
今から思えば心ないしわざであったが、・・・・・その時実さんはこう答えられた。
「いえ、そういうけっこうな書物がある事は聞いておりましたが、未だ拝見したことはござんせん。芸が出来上がるまで、決して見てはならないと父にかたく止められておりましたので。・・・・・しかし、(ちょっと考えて)もういいかと思います。が、私なぞが拝見して解りますでしょうか」と。
私はいたく恥じいった。むろん本はそのまま持ち帰ったことはいうまでもない。
「言いがたいところ」を得ようと、言葉となった世阿弥の『花伝書』をぶつけた白洲さんでしたが、師から返答に自らを恥じいる結果となってしまいます。
知は両刃の剣
そんなエピソードからはじまる、この「梅若実聞書」のなかで、梅若実さんがこんなふうに語っている場面があります。こういう事は自然に会得するより他仕方のないものでございます。自分の心にははっきりとしたものがあるんですが、人にはどうしても伝えられないのが残念でございます。
これを単に言葉にならないものがあると解したのでは足りない気がします。言葉にならないと同時に言葉にしたのではかえって理解を損なうからです。
無心の美が偉大であるのは自然の自由に活きるからである。この自由に在る時、作は自ら創造の美に入る、近代の作に創意を欠くのは、自然への帰依が薄いからと云えないであろうか。すべての意図は概念的作為に落ちる。
「すべての意図は概念的作為に落ちる」。意図、概念というのはあるがままの自然を抽象化したものです。それはある種の規則によってデジタル化したものだといってよいでしょう。
言語化、抽象化、デジタル化は、あるものの細部を捨象することで別のあるものを浮かび上がらせる操作です。それゆえ、知るということは、別の何かを知らずに終わるという意味で両刃の剣です。
先の梅若実さんの「人にはどうしても伝えられない」もきっとそのような意味で解す必要があるでしょうし、『花伝書』に関するエピソードも同じようにとらえたほうがよいのではないかと思うのです。
技術や手法だけでなく
文字であろうと口頭でであろうと、言葉によってのみ教えるというのは、このような意味で、その時点で何かを喪失してしまっているものです。それは言葉でなく絵や動画を使ったところで、情報量が多くなっただけで根本的には変わりません。体験によって学ぶことが大事だと思い、いろんなワークショップに協力させてもらってもいますが、そこで教える・体験してもらうことが単なる技術や手法であるのなら事情はあまり変わらないでしょう。
一太郎 職人にとって、芸や技の精進は、ほんとうは狭い範囲での単なる技の問題ではないのです。今日ではたいへん古風に聞こえるかもしれませんが、関連する分野の勉強はもとより、行儀や作法から心構え、人間形成、人格にまでおよぶことなのです。また職人の分を心得るということも必要です。
とにかく、人の心がわからないようでは人を束ねてはいけません。棟梁というのは、大工だけではなしに、ありとあらゆる職人を束ねていかねばならないのだから、ありとあらゆる人の苦しみをよく知っていなくてはならない、ということでしょうな。おじいさんやおやじに大工としての技術や心を教わって、母親から人間関係や人の見方を教わったんです。
おそらく、こういうことを含めた学びが必要だという気がします。そして、こういうことを教えられる環境が。
職人を束ねた二人の言葉から感じるのは、ものをつくるために必要な「智慧」というのはきっと、人との輪をつくること、人との関係を築き、社会をつくること、そして、自分たちの子孫も含めた将来をつくることにもつながる「智慧」だったのだろうということです。きっとかつてはものをつくるというのは、単なる道具をつくることである以上に、社会をつくること、将来をつくること、そして自然とともにあることだったはずですから。
そこでの「智慧」とは自分がどう在り、どう行動し、どう生きるかについての覚悟と行動のエンジンとなるものだったのではないかと思うのです。その智慧が言いがたいところのものだとしても決して不思議ではないでしょう。
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作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月13日 2時9分
デザイン・シンキング
IDEOのCEOであるティム・ブラウンによる「デザイン・シンキング」という論文が、今月のハーバード・ビジネス・レビューに掲載されています。
彼はユーザーのニーズや嗜好を必ず検討した。エジソンのアプローチは、イノベーション活動の全領域にわたって、人間中心のデザインの真髄を吹き込むアプローチ、いわゆる「デザイン思考」の初期の例といえる。ティム・ブラウン「デザイン・シンキング」
という風に、トーマス・A・エジソンによる電球を意味あるものにするための電力システム全体の構想というアプローチを例に、イノベーション・プロセスにおけるデザイン思考の必要性について説明してくれています。

イノベーションは天才にまかせず、チームプレイで
具体的な内容はそれぞれ手にとって読んでいただきたいと思うのですが、ひとつだけ僕が「やっぱりね」と思った点を紹介しておきます。創造の才にまつわる神話は、いまなお根強い。すなわち、「偉大なアイデアとは、凡人には計り知れない神業的な想像力によって、天才が不意に完璧なかたちで考え出すもの」と多くの人が信じているのだ。ティム・ブラウン「デザイン・シンキング」
そうなんですよね。「勤労・勤勉が可能な社会」で「デザイン思考だとか、IDEOの方法だとかが取り沙汰されますが、その本質は別に、観察でも、プロトタイピングでもありません。その方法の本質は、仕事を社会のためのものととらえ、複数人が身体を使って行う仕事によって創造を成し遂げようとする、そのスタイルにあるのだと僕は思います」と書いたとおりで、IDEOのイノベーションの技術の本質には、人びとが「天才による神業」と誤解している創造性を組織的に可能にしている点にあるはずです。
それを人間中心設計に関わる手法にばかり注目しているから、そこだけ取り入れてもちっとも成果としてのイノベーションにつながらない。これは別にイノベーションを目指したものでなくとも、人間中心設計のコンサルティングをやってる立場からは経験的によくわかります。組織的に創造のスキルを高める努力をしていかなくてはいくら表向きだけ人間中心設計の手法を取り入れてもダメなんですね。それよりも重要なのは、チームプレイでいかに創造的発想を行い、それを形にしていくかということなんです。
冒頭のエジソンの例でもそうなんです。
ニュージャージー州メンロパークにエジソン研究所を設立し、才能あふれる修繕屋や即興家、実験家を呼び集めた。実際、彼はイノベーションにチーム・アプローチを初めて採用し、「孤高の天才発明家」という固定観念を打破したのである。ティム・ブラウン「デザイン・シンキング」
イノベーションは天才にまかせず、チームプレイでやるものなんですね。逆にいえば、チームプレイ、グループワークができない組織というものほど、イノベーションから遠いものはないと思うんです。
1%のひらめきと99%の汗
ここで思い出されるのが、やっぱり柳宗悦さんの眼力なんですよね(とにかく民藝が流行りだからとかというのではなく、柳さんの『工藝の道』はものづくり・デザインに関わる人はいますぐ読むべきだと思います)。少量より作らない時、作者はなおも第二の欠点に陥る。なぜなら多作のみが技術を完き熟達に導くからである。技術は経験である。製作においてこの経験より貴重なものがあろうか。技術を必要としない工藝はない。そうして技術は数多く作ることなくしてはあり得ない。まして技術をすら超えるあの自由さが、あの繰り返しと汗なくして得られるであろうか。柳宗悦『工藝の道』
柳さんは、工藝の美は、天才的な個人作家から生まれるのではなく、名もなき民衆の手から生まれるのだとして、その理由の1つとして上記のように言っています。
これは先の論文のなかでティム・ブラウンが有名なエジソンの言葉「天才は1%のひらめきと99%の汗」 (Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.) を引いているのにも重なります。99%の汗ってもはや一般の人が想像する天才とは違いますよね。
このことはエジソンが自分ひとりの努力を越えて、さらに研究所でのチームワークを望んだことにも重なるでしょう。もちろん、プロジェクトのなかで何度も何度も繰り返しプロトタイプをつくるIDEOそのもののワークスタイルとも重なります。
それにしても、アメリカ人は1847年2月11日に生まれ1931年10月18日に没したエジソンから学ぼうとするのに、どうして日本人はそんなに1889年3月21日に生まれ1961年5月3日に没しているエジソンと同時代を生きた柳宗悦さんから学ぼうとしないのでしょうね。
と書きたいところですけど、ちゃんと学んでる人は学んでるんですね。
「書かれていることがすべてデザインの指標になりました。特に"健康"なんて、すごい表現。感動しました」『Casa BRUTUS 2008/11』深澤直人インタビュー
深澤さんが日本民藝館のパンフレットの趣旨説明を読んでの感想で、その紙は何年も仕事場に貼ってあったそうです。
深澤さんといえば、やっぱりIDEOつながり。なんなんでしょうね、この芋づる感。

技巧と技術、イミテーションとイノベーション
先の引用部に続けて、柳さんはこうも書いています。少量の作は技巧の作であろうとも、技術の作であることはできぬ。否、技術が乏しい故に、技巧を以てそれを作為しようとするのである。柳宗悦『工藝の道』
柳さんは意識的な技巧と手仕事の技術をはっきりと分けています。「技巧の美は人為であるが、技術の美は自然である」とも言っています。
技巧にたよれば、それはイノベーションではなくイミテーションでしょう。人びとの暮らす生活の現場という自然を顧みずに、頭のなかのイメージとテクノロジーだけにたよれば、それがイノベーションではなくイミテーションになるのは避けられません。
イノベーションにつなげるのであれば、理屈ではなく、やはり人びとの暮らす現場を観察し、頭ではなく体験によって、その行動を理解することが大切です。そして、それを頭のなかや図面のうえだけでデザインに落とすのではなく、何度も繰り返しプロトタイプをつくってみてはシミュレーション的に利用しながらダメなところをつぶしていく。もちろん、ひとりの視点だけで行うのではなく、いろんな見方ができる様々な人が集まるチームで。
口にするのは簡単ですが、これが実行できる組織は多くはありません。ただ、それができることこそが真にイノベーションの技術といえるはず。それに向かって努力するのは無駄ではないと思います。それこそがデザイン・シンキングの基盤となるものなのですから。
ちなみに、本論文でティム・ブラウンは、デザイン思考のアプローチを
「『人々が生活のなかで何を欲し、何を必要とするか』『製造、放送、マーケティング、販売およびアフターサービスの方法について、人々が何を好み、何を嫌うのか』、これら2項目について、直接観察し、徹底的に理解し、それによってイノベーションに活力を与えること」ティム・ブラウン「デザイン・シンキング」
と定義しています。
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- 正しき工藝の11の法則
- 失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?
- 用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ
- IDEOにおけるデザイン・プロセスの5段階
- デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方/奥出直人
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月11日 23時8分
ユーザー中心Webサイト設計・ワークショップ追加報告
ホントにのんびりです。
報告がのんびりしすぎていますが、、、
10月18日(土)、25日(土)の二日間にわたってユーザー中心Webサイト設計・ワークショップのお手伝いをしてきました。
「ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ1日目」「ユーザー中心のWebサイト設計・ワークショップ2日目」で既報の件で、アシスタントをしてくれた矢野さんがようやく報告してくれました。
ユーザー調査の場に居合わせなかった人が、調査結果であるシナリオ(インタビューで得られた発言や観察結果の行動を物語風にまとめたもの)を読み込むことが、以降のプロセスでの成否に影響してくる旨が書かれています。僕とは違った視点で参考になるので読んでみて下さい。
また、矢野さんの報告にもありますが、先日運営側で3時間を越える反省会をやってきました。もちろん、反省会をするのは、2回目以降もあるということです。開催時期はまだ未決定ですが、来年2月くらいに実施する予定です。決まりましたら、またご報告しますので、お待ちください。
話は変わりますが、Amazonで『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月11日 20時22分
正しき工藝の11の法則
僕らはあることをすっかり見落としていた、忘れていたのかもしれません。

1つの花にも存在の法則が潜むように、あの1つの器物にも工藝の法則が宿る。柳宗悦『工藝の道』
そう書いて、柳宗悦さんは正しき工藝の美の法則として、次の11の項目をあげています。
正しき工藝の11の法則
「法則なき処にはいかなる世界もあり得ない」として柳さんが掲げているのは「用の美」からはじまる以下の11の法則です。- 工藝の本質は「用」である
- 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
- 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
- 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
- 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
- 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
- 手工藝にも増してよき工藝はない
- 正しい工藝は天然の上に休む
- 高き工藝の美は無心の美である
- 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
- 工藝においては単純さが美の主要な要素である
僕には、これらの11の法則が、いま注目を集めるIDEOのイノベーションの技法や、人間中心設計といったデザインの方法をはるかに先取りしたものだと感じられます。第1の法則からして「用の美」を説いているわけですから、それが人間中心であることは間違いありません。民藝という言葉は、民衆のために民衆が作った工藝であることを重視する柳さんを中心とした民藝運動の人たちがつくった造語です。これが人間中心設計でないわけがありません。
また、第3の法則で「多」と「美」に関係性を、第6の法則で「協力」による制作を説いているところは、プロトタイピングやブレインストーミングを重視するIDEOの方法と一致します。正しき工藝のために生み出されたこれらの法則は、人間のためのよきものづくりのための法則として読めるのではないかと思います。
用の美とエモーショナル・デザイン
「用の美」というのは、すでに「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」でも引用したように、ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。(中略)用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。柳宗悦『工藝の道』
という意味においてです。柳さんのいう「用の美」においては、機能的な美と情緒的な美は不二(相対的ではなく統一的であること)です。
これはあのドナルド・A・ノーマンが『エモーショナル・デザイン』の冒頭近くで書いていることに一致します。
このような研究や他の関連する発見から、製品デザインにおける美の役割が示唆される。すなわち、魅力的なもので人は気分よくなり、そのことによってさらにより創造的になる。どうしてデザインが魅力的だと使いやすくなるのだろうか。簡単。直面する問題の解決策が見つけやすくなるからだ。
ノーマンのいう「このような研究や他の関連する発見」には、M.チクセントミハイによるフロー体験の研究も含まれるでしょう。チクセントミハイは、人はフロー状態(没頭した状態)になって行う仕事の効率性についても見出していますが、これも柳さんのいう中世ギルドのような秩序だった組織における協力による労働においては仕事の悦びが感じられるようになり、おのずと作品の質も向上するという話に一致します。
結局、僕らはずいぶん遠回りしましたが、日本の手仕事のよさに戻ってきたのではないかと思います。そして、それらが失われてしまっていることに呆然としているのではないか、と。
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作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月10日 8時2分
誰も知らない 世界と日本のまちがい/松岡正剛
水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』がネット界隈で話題となっています(こちらやこちらで)。水村美苗さんの本は10年くらい前に『続 明暗』
や『私小説 from left to right 』
といった小説を読みましたが、その後、すっかりご無沙汰になっていましたが、これだけ必読と言われれば読まない方がおかしいと感じたので購入しました。
それこそ、昔、英語と日本語が入り混じる形で著された『私小説 from left to right 』を読んだ僕としては、ここで書かれていることが、おそらく「質の劣化と文脈からの逸脱」や「勤労・勤勉が可能な社会」で書いてきた僕自身の問題の系とも重なる問題だとも感じたので。
中国文化圏→天下→日本国
まだ読んでいないのでどう書かれているかはわかりませんが、読む側が単純に日本語という言語の問題だとだけ捉えてしまうなら、僕はそこにどう書かれていようと誤読なのだろうと思います。「質の劣化と文脈からの逸脱」でも書いたとおり、歴史的にみれば、社会が変化するたびに、人びとは自然から遠ざかり、意識の世界へと閉じ込もっていく様が見受けられます。自然を離れた意識による創作がさらに社会を変えていき、それがまた人びとを自然から遠ざける。
わけで、言葉(意識・認識)、環境(自然-人工物)、人びとの振る舞いの3者はつねに互いに影響しあいながら