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「みうらじゅんといとうせいこうのバカ映画に愛を込めて」
'08.11.23 「みうらじゅんといとうせいこうのバカ映画に愛を込めて」@浅草公会堂
これはbaruからの数ヶ月遅れの誕生日プレゼント。本当は一緒に行く予定だったけれど、行けなくなってしまい残念(涙) 当日はMッスと一緒に鑑賞。
11/21~24まで浅草で開催された「第1回したまちコメディ映画祭in台東」はコメディ映画の上映はもちろん、デーモン小暮閣下による歌唱など様々なイベントが浅草各地で催されたらしいけれど、今回はこのトークショーのみ鑑賞。18:30~だけれど、その前にお笑いイベント「したコメお笑いアワード2008」を見ることも出来た。17:00~とのことだったけれど、お茶してから行ったらネタ披露は終わってしまっていて、いきなり優勝(?)と特別賞が発表されたけれど、おもしろかったのかさっぱり分からない(笑)
というわけで「みうらじゅんといとうせいこうのバカ映画に愛を込めて」から見ることに。この2人といえば「ザ・スライドショー」MJが撮ってきたおかしなモノのスライドにSIがツッコミを入れるというもの。今回もこれの縮小版という感じ。まずは軽いトークから。バカ映画とはという事について語る。MJによるとバカ映画とおバカ映画は違うのだそう。おバカ映画とはあえてバカであることを狙って撮られた映画で、バカであることに気取りがあるのだそう。おバカの"お"はオシャレの"お"なのだそう。バカ映画とはバカなものを作っている意識はなく、本人達は真剣に作った結果バカなものになっている映画を言うのだそう。最近の映画で言えば清水の任侠一家を描いた有名俳優監督作品とか、大女優と個性派俳優共演の古代の謎を探る夫婦愛映画などがあてはまるのだそう。どちらも未見なのでホントのところは分からないけれど、何となく納得(笑) MJはそういうバカ映画の香りがぷぃ~んとする映画をあえて朝一番の回で見ているのだそう。MJのそういうある意味攻めの姿勢には感動。こんな紹介のされ方は映画に携わった方々には不本意かもしれないけれど、実はMJには愛があるのだということをわかって欲しい! と何故か力説(笑)
そしてスライドショーへ。MJは中学生の頃からのパンフレット・コレクター、パンフレッターなのだそう。何千(?)というコレクションの中から、これはというパンフレットをスライドで紹介。バカ映画もしくは、バカパンフのデザインには太陽や青空が使われていることが多いということで「バカは太陽」「バカは青空」などとカテゴリー分けをしているけれど、これは少々こじつけっぽかったりもする。多分、カテゴリー自体にはそんなに意味はなくて、分かりやすくおもしろく分類しただけで、見せたいのはバカであるということ。どんなにバカであるかってことでもないんじゃないかと思う。「これバカでしょう」ってことが重要で、そしてその視点に愛がある(笑) 全然ピンとこない人もいると思うけど、それは感性が違うというだけ。でも、普段何気なく目にしているものも、何か変だなって目線を持ったら楽しくなる。MJはそういう目線を持っている。サブカルチャーの本当の意味はあまり理解できていないけれど、そういう目線を持ってるっていう事なのかな・・・。MJの目線をおもしろいと思っているから、日常の中に「クスッ(笑)」を見つけられるようになったのか、そもそもメインカルチャーよりサブカル的な人間だからMJが好きなのか分からないけれど、自分としてはバカをおもしろいと思える人生の方が楽しい気がする。まぁ、バカの定義も人それぞれだし、それこそ感性の違いもあるけれど。なんて熱く語ってしまった(笑)
イベント自体はもともと終了時間があったのか不明だけど、何故かSIが「もう2時間以上もやってる!」と焦って終わりにしてしまったけれど、実は1時間半くらいしかやってなかった(涙) でも、MJ初監督作品『お笑い虎の穴』が見れたのはうれしかった。10年くらい前に吉本の若手お笑い芸人(当時)多数出演のバカ映画。ラストシーンの撮影でふざけて真面目にやらない芸人にキレた助監督の安齋さんが、勘違いしてナイナイ矢部を叱りつけてしまい、矢部が怒って帰ってしまったという撮影秘話を、伊集院のラジオ番組で語っているのを聞いた時から気になっていた。「アホの坂田師匠が双子の少年達の命により、真のお笑い芸人を生み出すべく地下組織を作り、若者をさらっては過酷な訓練を強制する"お笑い虎の穴"から1人の芸人が脱出を試みるが・・・」というストーリーもあってないようなもの。一応主演のナイナイ岡村を始め若手芸人(当時)のお笑いシーンは一切なし。その代わり泉麻人やいとうせいこうがMJ作の漫才を披露するというのが見どころ。いわゆるMJとそのお友達に興味のない人には全くおもしろくないであろう作品で、これはゆるい。まぁ、映画ファンとしては尊敬するMJ作品としても・・・という感じだけれど、バカであるという事に関しては一点の曇りもなし! まぁ、多分こんな機会でもなければお目にかかれない作品だと思うので本当に見れてよかった!
というわけで大満足! やっぱりMJはバカで素晴らしい。baru素敵なプレゼントありがと~
したまちコメディ映画祭in台東Official site
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年12月3日 1時36分
「ボストン美術館 浮世絵名品展」
'08.11.22 「ボストン美術館 浮世絵名品展」@江戸東京博物館
これは見たかった。毎月恒例の砂風呂Pasir Putihの日。いつも一緒に行ってるbaruとFちゃんがダメになってしまいお一人様での入浴となった。江戸東京博物館は土曜日のみ19:30まで開館。帰りに寄ってみることにした。
多くの日本美術のコレクションを誇るボストン美術館。その数なんと5万点! その最大の功労者はスポルディング兄弟。彼らはその潤沢な資金をもとに、あのフランク・ロイド・ライトの指導のもと浮世絵を中心に収集。その数は約6,500点にのぼる。彼らの「決して展示公開しないように」との遺言により保管されている作品は、素晴らしい保存状態で当時の色を守っているのだそう。これはNHKの番組で紹介されていた。今回は同じく日本美術に魅せられたウィリアム・スタージス・ビゲローのコレクションを中心にした展覧会。こちらも保存状態がいい。錦絵(浮世絵木版画)の初期から幕末の北斎、広重の時代までを4つの章に分けて展示。その時代に描かれた肉筆画なども併せて公開されている。
【第1章 浮世絵初期の大家たち】
初期の作品は墨と紅のみで描かれている。遊女や役者絵が多い。墨と紅だけでは表現できるものも限られていたのかもしれない。面白かったのは西村重長の「げんじ五十四まいのうち 第十八番 げんじ松風」これは貼り付け箱絵と呼ばれるものだそうで、あまり大きな作品ではない。明石の君と明石の尼君が屋敷の内で佇む姿を描いたもので、絵の周りに吹絵という型抜きで描かれた花模様がかわいらしい。
【第2章 春信様式の時代】
初めて多色刷りを用い、錦絵の一大ブームを巻き起こし、春信様式を確立した鈴木春信。登場してから亡くなるまでの約5年間に大きな功績を残した。春信は大好き。女性が何とも愛らしい。線の細い柳腰で、庶民の女性を描いても品がある。「女三の宮と猫」が素晴らしい。表情の愛らしさは相変わらず。型押しで模様を浮き出させた半襟が美しく品がいい。細かな花模様も美しい着物の紫がいい。紫は高貴を表すと聞いた事がある気がする。源氏物語に登場する女性達はたいてい好きだけど、唯一惹かれない女三の宮。年若かったとはいえ、皇女という高貴な身分でありながら、うかつにも端近に立ち、猫が御簾を捲り上げた瞬間、姿をあらわにしてしまう。その姿を見た柏木は激しい恋に落ち、2人は過ちを犯し不義の子薫が誕生する。柏木は罪の意識から病死してしまい、女三の宮も若くして出家することになる。光源氏晩年の悲劇を演出する重要人物。その考えの足りなさ、自分のなさにイラっとするけど、春信の女三の宮はそんなところも魅力に感じるほどの愛らしさ。
「水仙花」は炬燵にあたる男女の絵。ぼんやりする男の注意をひくため男の足をくすぐる女がかわいい。春信の絵は男女の区別がつきにくい。髪形にわずかな違いがあるくらいで、他の絵師と違い男性も美しく女性的に描かれている。多色刷りにより部屋の装飾や小物なども細かく表現できるようになったのだそう。「伊達虚無僧姿の男女」はわりと大きな作品。春信にしては珍しくアップ。特に男の方がいい。虚無僧姿というのは仇討ちを狙う者の姿だそうで、その美しく優しい顔立ちからは哀しさが伝わってくる。それを引き立てる黒の衣装がいい。春信はこの黒を効果的に使うことを発見したのだそう。
ここでのもう一つの見ものは磯田湖龍斎の「雛形若菜の初模様」シリーズ。百数十点にのぼる作品で、初模様とはお正月に遊女が着る着物のことだそう。それぞれ華やかで美しいけれど、顔デカ(笑)
【第3章 錦絵の黄金時代】
そして黄金時代へ。鳥居清長の美人画は美しい。清長といえば八頭身美人。「当世遊里美人合」がいい。2枚組の作品で、それぞれ3人ずつ描かれている。女性たちの表情が豊か。右側中央の女性の紫の着物が素晴らしい。当時の絵師達がずいぶん女性に紫を着せていた事が分かる。一筆斎文調という絵師のことは知らなかったけれど、「二代目市川門之助の曽我五郎と二代目市川八百蔵の曽我十郎」の、それぞれ鳥と蝶の柄の着物が素晴らしかった。
ここでの見ものは喜多川歌麿と東洲斎写楽。どちらもそんなに点数は多くないけれどさすがの迫力。歌麿の「青楼仁和嘉女芸者之部 扇売 団扇売 麦つき」がいい。仁和嘉とは毎年8月に行われていたお祭りだったかな? ちょっと失念・・・。庶民の楽しみを描いている。歌麿といえば美人画大首絵だけど、これも有名な「当時三美人」と同じ構図。それぞれ売り子の姿になっているのがかわいい。やっぱり歌麿の美人は美人! そしてかわいい。「鷹狩り行列」では全身像を描いているけれど、これは寛政12年(1800年)に大首絵が禁止されてしまったからなのだそう。「当時三美人」に描かれた町娘達が大人気となってしまい、娘たちの名前を入れることを禁じられたりと、度々そういった弾圧にあっている。個人としては辛いけれど、それだけ影響のある絵なのだと思えばすごいことだ。
そして東洲斎写楽。有名な「二代目 嵐龍蔵の金貸石部金吉」 この人物が悪役だったことは初めて知った。さすがの迫力。背景の黒が役者の顔を引き立てるけれど、この黒一色の背景を刷り上げるにはそうとうな腕の刷師でないとできないそうで、さらに高級品である雲母(キラ)を使用している事からも、版元が写楽にかける期待が伺われるのだそう。しかし「二代目 瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木」もそうだけれど、エラの張りぐあいや小さな目をあえて強調して描く、その感じはおもしろい。
【下絵・肉筆・版本】
第4章の前に下絵、肉筆、版本をご紹介。これは特別にコーナーを設けてあるわけではなく、各章にそれぞれ展示されている。歌川広重の下絵がいいけれど、心惹かれたのは4点。まずは勝川春章の「三十六歌仙」後姿の女性は小野小町かな? そのなまめかしい後姿は美しく、重ねた十二単の着物が素晴らしい。勝川春章は北斎が勝川春朗と名乗っていた頃の師匠で、似顔絵師と呼ばれていたそうだけど、この絵に顔は描かれていない(笑) 喜多川歌麿の「画本虫撰」が素晴らしい! へちまと虫を描いているけれど、それぞれの描写が素晴らしく、へちまの花の黄色が利いている。並んで展示してあった「潮干のつと」の貝と海藻も素晴らしい。これは歌麿には珍しい風景画が収められているそう。歌麿といえば美人画だと思っていたけれど、さすがの画力に感動。そして葛飾北斎の「冨嶽百景」 これは北斎自ら監修した版本。あとがきに自信のほどが書かれているそうだけれど、各絵ごとに彫師を指定し、欄外にその名前を記載するほどのこだわりようは見事で、展示されていたページに描かれていた鶏はさすが! これはすばらしい。墨一色で印刷された鶏の羽根の一枚一枚まで表現され、今にも動き出しそうな迫力。この本を出版した時、北斎は75才。疲れたなんて言ってられないな(笑)
【第4章 幕末のビックネームたち】
ここでは何と言っても葛飾北斎と歌川広重でしょう。ということで2人の事は後ほど。展示の順番としては最後になるけれど歌川国芳の「鬼若丸の鯉退治」の鯉の迫力がスゴイ。どんだけデカイんだよと思うけれど(笑) そして幻の天才絵師と言われる歌川国政。芝居好きで役者の大首絵に才能を発揮。同じ役者を描いても写楽とは全く違った表情を切りとっている。生き生きとした描写もさることながら「市川蝦蔵の暫」の構図は今で言うポスターという感じ。斬新で全く古くない。グラフィック・デザインのよう。暫は江戸のヒーローで、困っている人がいると「暫!」と駆けつけて問題を解決していくのだそうで、歯を食いしばった横顔の迫力は素晴らしく、右側から斜めに描かれた四角の紋の袖は画面の3分の1を占めている。これは斬新で面白い。でも、彼が絵師として輝いたのはデビューして1年半ほど。時代の流れで売れるものをとの版元の要求に応えるうち、当初の輝きは失われてしまったのだそう。いつの時代もそうだけれど、売れるものとやりたい事が相容れないのは切ない。
北斎はやはり違う。上手く言えないけれど絵からオーラを感じる。遠くから見ても絵に惹きつけられる。やはり「冨嶽三十六景 山下白雨」が素晴らしい。有名な「凱風快晴」と同じ構図の赤富士だけど、ここでは白雨=にわか雨を表現していて右下には雷が描かれている。富士の美しい姿と雷が印象的。空の藍のぼかしもいい。「桔梗にとんぼ」も好き。繊細かつ大胆に配置された桔梗の描写が素晴らしく、花の紫は品がいい。その桔梗に向かって近づくとんぼの赤が画を引き締めている。羽根が少しちぎれているのが完璧すぎる絵の抜きになっているように思う。「雪松に鶴」がいい。うねった松の木を画面の中央に描き、その上に2羽の鶴を配置。鶴の羽根の描写も素晴らしいけれど、手前の鶴の羽根の青と、奥の鶴のくちばしの青がいいアクセントとなっている。わずかに空いた左の余白に墨のぼかしがほどこされているのがいい。
歌川広重の「五拾三次」シリーズ「油井 薩埵峰」「丸子 名物茶店」「庄野 白雨」が素晴らしい。「五拾三次」シリーズは今まで何度か見ているけれど、色の鮮やかさにビックリ! こんなに鮮やかだったとは・・・。特にベロ藍の鮮やかさがすばらしい。歌麿がこれを好んで多用していた事が分かる。「丸子 名物茶屋」には弥次喜多が描かれている。これは初刷りなのだそうで、「庄野 白雨」も傘に書かれた”竹のうち”という版元の名前から初刷りだと分かるのだそう。実は歌麿は風景画家として相当の自信を持っていたそうで、北斎に対しても尊敬と同時にライバル心を持っていたのだそう。でも、国政と同様に版元からの色の変更や、人物の書き加えなどの注文に傷つき、風景は描かないと宣言したのだそう。でも、ペリー来航により警備を強化するため砲台を設置するなど、江戸の風景が失われていくことを嘆いた広重は、後に「名所江戸百景」シリーズを描くことになる。そのシリーズの一枚「深川木場」は雪景色の木場を描く。絵の中央に縦に描かれた川の藍が利いている。その藍が凍った水の冷たさを感じさせる。
そして本日の一枚! 「両国花火」が素晴らしい。画面半分よりやや下に隅田川を描き、そこに掛けられた両国の大橋の上にはたくさんの人がシルエットで描かれている。川にはたくさんの屋形船。画面中央に川から打ち上げられた花火の軌道を描き、右上に花火が配置されている。星型とも花形とも見える花火の表現がかわいい。空の墨のぼかしと、川の藍のぼかしの対比が素晴らしいけれど、空のぼかしが入っているのは初刷りの証しとのことで、後の版では省略されているのだそう。空のぼかし部分には木目まで見えてこれは素晴らしい! 橋の欄干や柱、その上の人物達、船頭の躍動感、屋形船の賑わい、何一つ手を抜いていない見事な仕上がり。同時にこのぼかしの表現は彫師、刷師の腕の素晴らしさにも感服。当時江戸ではコレラが蔓延し多くの人が命を落としたことから、何か庶民に楽しみをと始められた両国の花火大会。広重はこの絵を仕上げて1ヵ月後に亡くなったのだそうで、まさに江戸庶民に捧げた渾身の一枚。この絵に惹きつけられるのは当然なのかもしれない。素晴らしい!
とにかくこれだけ多数の作品が色もほとんど褪せずに残っているのは素晴らしい。これは本当に見てよかった! 素晴らしい。
★江戸東京博物館:2008年10月7日~11月30日
「ボストン美術館 浮世絵名品展」Official site
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月30日 23時46分
「フェルメール展」
'08.11.21 「フェルメール展」@東京都美術館
これも見たくてやっと見てきた! 実は先週土曜日見に行ったけど、40分~1時間待ちというのでチケだけ買って帰ってきた。都美術館も金曜日のみ8時まで開いているので、ありがたい。上野の美術館口を出たら続々と向かう人の列。もしや…と思ったら案の定、皆都美術館へ向かう。改めてフェルメールの人気の高さにビックリ。ロッカーも全て埋まっていて空きはない。
1Fはフェルメールと同時期のオランダ、主にデルフトの画家の作品を展示。ここからすでに混んでる。オランダ絵画は色や光が美しいのでじっくり見たいところだけど、この分ではフェルメールは大変なことになっているだろうと思い、流して先に進むことにする。それでもフェルメールの同僚であったというペーテル・デ・ホーホの作品は素晴らしく、これは足を止めて鑑賞した庶民の部屋の一室を舞台に描かれた絵は、光の取り入れ方や、まるでドアのこちら側から覗いているかのような構図、手紙などのモチーフまでフェルメールに似ている。これらは当日流行し、さかんに描かれたモチーフなのだそう。
まずは「幼児に授乳する女性と子供と犬」は窓辺のイスで授乳する女性と、その傍らで子犬と遊ぶ少女。ほのぼのとした日常の風景。この時期のオランダでは家庭や家族の大切さを描く事が流行していたのだそうで、実は絵の中にそれを象徴するものがたくさん描かれている。母親は聖母マリアを体現しており、暖炉の柱に施された彫刻の天使は家族の愛を表現しているのだそう。ちょっと忘れてしまったけれど、母親の頭上にかけられた鳥かごや、子犬も家族の大切さを象徴していたはず。女性の青い服とスカートの赤、そして赤ちゃんを包む黄色い布のコントラストがいい。
「訪問」の構図が一番フェルメール作品に近い。左側に窓があり、つきあたりの壁にはタペストリーが掛けられている。ドア越しに覗いているいかのような描き方。女性が着ている赤い上着が美しく青いスカートとのコントラストがいい。デ・ホーホはこの色の組み合わせが好きだったのかな。その赤い上着が窓に反射しているのがおもしろい。
「窓辺で手紙を読む女」はタイトルどおり正面にある窓の傍らで手紙を読んでいる女性を描いたもの。フェルメールの絵画にもよく出てくる手紙というモチーフ。当時、郵便制度の発展により手紙ブームが起きたのだそう。フェルメールの手紙にはどこか秘め事の香りがするけれど、この作品はもう少し平和な感じがする。正面の窓から見える風景は”広い世界”を表しているそうで、商用で出かけた夫からの手紙を読んで外の世界に思いを馳せているのかも。などと想像が膨らむ。
2Fに上がっていよいよフェルメール。階段を上がりきったところが最後尾という状態。混んでいる・・・。じっくり見たいので並んでいく。1点目が「マルタとマリアの家のキリスト」これは現存する唯一の宗教画で、フェルメール初期の作品。160×142とフェルメール作品の中では最大。本物か偽物かとの議論がなされたそうだけど”IVMeer”のサインが決め手となり、本物と認定されたのだそう。フェルメールといえばファン・メーヘレンによる贋作事件が有名。それ以来真偽の見極めが大変難しく、時間がかかるのだそう。ルカ伝から題材を得たそうだけど、ルカ伝が全く分からない・・・。どうやら聖母マリアの姉妹マルタの家へキリストが訪れているところらしい。通常はキリストを中央に描く事が多いそうだけれど、マルタを中央に配置している。これは2人をもてなすマルタの姿が”家事=美徳”ということを表しているのだそう。見ごたえのある大きさだけど、正直そんなにグッとこない。
続いて「ディアナとニンフたち」こちらは唯一の神話画。レンブラントの影響を受けていると言われているそうだけど、あまりよく分からない(笑) 「マルタ~」に比べると光を取り入れ中央のディアナが浮き立つように描かれている。ディアナの左にこちらに背を向けた女性が座っている。彼女はディアナ側の肩をはだけて背中を露出させている。その背中の白さがディアナを引き立てているように思う。このニンフはフェルメール唯一の半裸女性なのだそう。ディアナもニンフ達もすぐに神話の人物と分かるような衣装ではない。ディアナの頭上の三日月の冠もさりげなく描かれている。彼女がそっと出した足を洗うニンフ。その足元の水盤は純潔を表しているそうで、これは妻に捧げたものではないかと言われているのだそう。これは好きだった。
「小路」は現存する2点の風景画のうちの1枚。もう1点は「デルフト眺望」 画面中央から右に煙突が数本立つ3階建ての家を描く。赤茶のレンガ造りを思わせる建物の1階部分のみ漆くいが塗られている。そこに緑や赤の雨戸(?)とのバランスがいい。人物達は背景に溶け込んでいて、窓の開閉、光と影のコントラストが素晴らしい。画面左に描かれた三角型の屋根は16世紀デルフトの特徴的な形だそうで、この場所自体は特定されていない。その折り重なった屋根の連なりが奥行きを感じさせている。これはいい。
廊下を通って行くと円形のスペースに出る。ここに残り4点。全作品に各パーツを拡大し、鑑賞ポイントを表示したパネルがあわせて展示してある。前3点は背中合わせだったので見比べ出来なかったけど、ここからは手前に展示してあったので予習をしながら待てて良かった。しかし混んでる・・・。ちゃんと見たい人はきちんと並んで待っているのだから、割り込みはやめて欲しいし、ロッカーがいっぱいだったから仕方ないにしても、大きな荷物を人にガンガンぶつけるのはやめて欲しい。最低限のマナーだと思うんだけどな・・・。
「ワイングラスを持つ娘」は珍しく風刺的な気がする。多分、他の作品にもいろいろ込められているんだと思うけれど、これは結構あからさまな印象。グラスを持った娘が意味ありげな笑みを浮かべてコチラを見ている。彼女を誘惑しようとしている男性。彼も彼女も表情はどこか淫靡。特に女性はレンブラントの「放蕩息子の酒宴(レンブラントとサスキア)」を思わせるけど気のせいかな? 彼らはお酒の誘惑を表していて、左側の窓のステンドグラスに描かれた手綱を持った女神は自制を表しているのだそう。このステンドグラスは一見目立たないけれど、内側に少し開いた窓に描かれた女神はまるで3Dのように浮き出て見えた。これは見事。
「リュートを調弦する女」はいつもの左側に窓があり、つきあたりにタペストリーのある構図。画面手前に置かれたイスの影が光とのコントラストとなっているのだそう。テーブルにこちら向きに座っているけれど視線はコチラを向いていない。フェルメール作品によく登場する襟や裾に白い毛皮のついた黄色い上着を着ている。財産目録か何かにこの上着を思わせる記述があるようで、妻のものではないかと言われているそうだけど、これは中上流の女性しか着れなかったのだそう。という事はこの女性もその階級の人という事になる。おそらく自ら家事などはせず、午後のひと時リュートでも弾こうかと調弦を始めて、ふと窓の外に目をやっている場面。外の様子を覗き見る女性を覗き見る感じが面白い。フェルーメールはとっても写実的だと思っていたけれど、リュートは意外にきちんと描かれていない。弦もないし穴もない。これは意外だった。
「手紙を書く婦人と召使」は作品の完成度としては今回の中では1番高いかもしれない。なんてエラソウだけど(笑) 人物を目立たせるため視点を低く描き空間のパーツが細かく計算されているのだそう。他の作品に比べると室内は重厚な感じで、調度類や床のタイルも品がいい印象。女主人が被ったレースの帽子(?)が美しく、ふくらんだ袖の白さに清潔感がある。窓からの光を利用して手紙を書く女主人の姿は一見穏やかだけど、床には赤い刻印や丸めた手紙が散らばっており、届いた手紙に対して返事をしたためているのか、書き損じなのか想像がふくらむとの事だけど、女主人の後ろで軽く手を組み意味ありげな笑みを浮かべつつ、窓の外に目をやる召使の佇まいからは、普通の手紙ではない印象。それは秘めた恋というよりは、金銭がらみのような気がする。フェルメールは妻の実家で暮らし、その家業で貸金業の集金もしていたらしく、晩年はそちらに追われて絵を描く時間がほとんど持てなかったのだそう。そんな背景を考えると、召使の笑みも皮肉は感じに見えてくるのは考えすぎかな?
そしてラスト「ヴァージナルの前に座る若い女」これはかわいい。ヴァージナルというピアノのような楽器の前に座りこちらに顔を向けている若い女性。リボンをつけた三つ編みのような髪型がかわいらしい。白っぽいサテン地のようなスカートの質感がいい。肩から掛けた黄色いショールは加筆されたのでないかと言われているそうで、そう言われてみると確かに違和感。裾の方はなんでこんなモンブランのようになってるんだろう。肩の辺りの色やタッチとも違うので、加筆なのかもしれない。その辺りも含めて1993年から真偽が調査され、ルーブル美術館蔵の「レースを編む女」と同じキャンバスである事が判明し、本物と認められたのだそう。2003年にオークションで落札され、現在見つかっている中では唯一個人所有の作品。フェルメールが生きていた頃、1枚数千円で買われていたそうだけれど、25.2×20のこの作品は32億円で落札された。ゴッホを初め多くの画家がそうだけれど、とっても切ない・・・(涙)
3Fにも他のオランダ画家の作品が数点展示されていたけれど、すっかり疲れてしまってあまり見れなかったのが残念。最後パネルでフェルメールの全作品が展示してあった。これは面白かった。去年見た「牛乳を注ぐ女」が意外に小さいのにビックリ。
またまた長々書いてしまった。これはホントに素晴らしかった! 都美術館でもらってきた朝日新聞の別刷り特集によると、フェルメール作品を最多所有するニューヨーク、メトロポリタン美術館でも5点、母国オランダですらアムステルダム美術館とマウリッツハイス王立美術館合わせて7点しか所有していない。そんな中、7点一気に見れるのはホントにスゴイこと。これは本当に見てよかった!
フェルメール展:2008年8月2日~12月14日 東京都美術館
「フェルメール展」東京都美術館
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月26日 1時24分
「大琳派展 ~継承と変奏~」
'08.11.07 「大琳派展 ~継承と変奏~」@東京国立博物館・平成館
ずっと見たくてやっと見てきた。なぜ美術館は5時頃に終わってしまうんだろう。ほとんどの人がそんな時間帯では行けないと思う・・・。東京国立博物館は金曜日のみ8時まで開館。やっと見れた。
琳派とは尾形光琳が確立した絵画・工芸の一派。光琳に憧れた酒井包抱一とその弟子鈴木其一までの流れを言う。今回は光琳を中心として彼が敬愛した俵屋宗達、本阿弥光悦の作品もあわせて展示し、琳派のルーツから完成までを一気に見せるという感じ。何といっても俵屋宗達⇒尾形光琳⇒酒井抱一⇒鈴木其一と模写の連作(?)4作の「風神雷神図」が見れる事がスゴイ! こんなチャンスはめったにない! ということでこれを見に行ってきた。平成館については何度か書いたけれど、吹き抜けのエントランスを中央として左右に展示室がある。4点の「風神雷神」は割りと早い段階にある。でも、これがメインなので後ほどゆっくり語りたいと思う。
「風神雷神」以外で良かった作品はいっぱいあって、本当に書きたい作品がたくさんあるのだけど、全部はムリなのでそれぞれの章から何点かピックアップ。
まずは第1章:俵屋宗達・本阿弥光悦から。「唐獅子図・波に犀図杉戸」「白象図・唐獅子図杉戸」が素晴らしい。京都の養源院は徳川秀忠の正室於江が建立したのだそう。その杉戸に描かれた白い象。これはスゴイ。はっきり言うと象としては間違っているところが多い。宗達が実際に象を見たのかは不明だけど、多分この絵はその他の獅子、犀などと共に、本物を描こうと思ったのではなく、伝説の生き物を描こうとしたのかもしれない。これはグラフィックデザインとして素晴らしい。2作は阿形吽形に配置されている。これは「風神雷神」も阿吽の配置を取っていることを考えると興味深い。「伊勢物語図色紙・芥川」はさらって来た姫君が鬼に食われてしまったというシーン。この鬼はそのまま雷神。どちらが先に描かれたのだろう。「兎図」は雪景色の中に佇む兎の姿がかわいい。これは川合玉堂が持っていたことがあったらしい。川合玉堂は大好き。なんとなくうれしい。本阿弥光悦は書が素晴らしい。宗達が絵を描き、光悦が書を書くという今で言うコラボ作品がたくさん見られる。特に素晴らしいのは「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」これは銀を使った鶴が右から左へかけて羽ばたいていく宗達の絵と、その上に書かれた光悦の筆が素晴らしい。そして光悦といえば茶碗。「黒楽茶碗 銘 雨雲」が素晴らしい。切りっぱなしの口は斬新で、うわぐすりがはげたまま焼かれた器は自然のままの姿。こういうのは作ろうと思って作れるものではない。素晴らしい。
第2章:尾形光琳・尾形乾山。兄弟2人のコラボ「銹絵布袋図角皿」「銹絵鶴図角皿」が素晴らしい。布袋様や鶴などの絵や、添えられた書もいいけれど、正方形の皿の周囲に2cmほどの縁取りがしてあり、その外側に施された模様が素晴らしい。花紋のようなものが中央に描かれ、その両脇に格子模様が手描きで描かれている。これはちょっと洋風でありとってもモダン。10枚組として見つかったけれど、元は20枚組みだったのではないかと言われているそう。これはホントに素晴らしい。光琳の「秋草図屏風」も良かった。両脇に菊を配し、その中央にピンクのかわいらしい花が描かれていて美しい。菊は盛り上がっており浮き出ているのがおもしろい。光琳の「寿老人・山水図団扇」の寿老人が福々としてかわいい。ちょっとマンガっぽい。これは雪舟の写しなのだそう。光琳の「水葵蒔絵螺鈿硯箱」のデザインがいい。螺鈿が素晴らしい。
第3章:光琳意匠・光琳顕彰 ここでは酒井抱一が描いた「観音図」が興味深い。観音様の美しさもさることながら、光琳を尊敬していた抱一が自ら催した光琳百年忌の為に描いたという背景がおもしろい。抱一はさらに「光琳百図」「光琳百図後編」という図録を編纂している。後編には「風神雷神」も含まれてる。それぞれ2冊ずつからなるこの2編は個人画集とも言える作品といえるのだそう。砲一の光琳に対する思いが伝わってくる。
第4章:酒井抱一・鈴木其一 ここでの見ものは酒井抱一の「夏秋草図屏風」だと思われる。これは光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれた作品で、左には風に吹かれしおれた草花を描き、右は激しい雨に打たれた草花を描いている。風神雷神それぞれと対比されている。これはおもしろい。抱一の「調布玉川図」は川で洗濯をする女性のたくし上げた裾からのぞく足が美しくも色っぽい。
しかし、今まで巨匠達を褒めてきたけれど、今回一番素晴らしかったのは鈴木其一。其の一と書いて”きいつ”と読む。名前は知っていたけれど、あまり良く知らなかった。多分、以前別の琳派展などで作品を見たこともあったと思うけれど、覚えていない。今回この展覧会で其一の素晴らしさを知った。まず良かったのは「東下図」 伊勢物語の東下を描いた絵そのものよりも、その周りを飾る表装が素晴らしい。絵の周囲に夏秋冬の花を描き、上下に春の花を描いている。この花が写実的でありながら淡い色使いで素晴らしい。続く「歳首の図」も同様に表装に描かれた梅が素晴らしい。でも、絵自体もおもしろい。左上に正月飾りを配し、画面の中央に鳥が描かれている。鳥が写実的でありながらかわいらしい。「暁桜・夜桜」がいい! 朝と夜の桜を描いているけれど、朝日の中にシルエットで浮かぶ桜もいいけれど、墨のような夜の黒に描かれた桜。その周りに朱をほどこすことにより桜の可憐さが引き立つ。「秋草・月に波図屏風」も素晴らしい。絹に描かれた枕屏風で、左に描かれた青の朝顔や秋草のボリューム感と、右に描かれたピンクの花がかわいらしい。波と月はどこだろうと思っていると、正面に来て初めてぼんやりと月と波が浮かび上がるという趣向。なんて粋なんだろう。
そして「蔬菜群虫図」これは素晴らしい! これには心を奪われてしばし動けなかった。中央にきゅうりなどの緑の野菜や葉、蔓などが描かれている。きゅうりはあまり主張しすぎていない。やや下のほうに小さなナスが数個描かれている。これは茎についたまま。ナスの色が鮮やかで形がかわいらしい。その下には大小さな赤い花が配されていて、この花の赤と紫のコントラストが全体を引き締めている。絵の一番下には右から左方向へ大きめの葉が描かれているけれど、枯れていたり虫食い穴があいていたりする。その全てが写実的でありながら繊細。特に花の描写がスゴイ。淡い色彩も素晴らしい。見た瞬間に伊藤若冲っぽいと思ったけれど、やっぱりそのように言われているらしい。これは4つの「風神雷神」を含めても一番好きだった。某番組風に言えば”今日の一枚”(笑) 今回、鈴木其一の作品の素晴らしさを知ったことは大収穫。
いよいよ「風神雷神図屏風」について。1点1点が大きいので、かなり広い空間にコの字型に4点一気に展示してある。この展示はうれしい。中央に立つと4点に囲まれるというまさに至福の時間。俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を80年後に見た尾形光琳が模写し、さらに100年後酒井抱一が模写、最後に鈴木其一へと続く。その間約200年。すごいことだな。これだけの才能が200年。日本ってすごい。
まずは俵屋宗達から。なんといってもこれが元祖。これがなければ後の3枚もないのかと思うと感慨もひとしお。足を止める人もこれが1番多かった。4点の中では1番躍動感がある。銀を混ぜた墨で描かれた黒雲は他の3作と比べると少なめな印象。もしかすると色あせてしまったのかな? そんな感じでもなかった気がするけれど、描かれた年代が下がるほど色鮮やかになっていくことは確か。17世紀に描かれたということは約400年くらい経っているわけだけど、その大胆な構図や力強い輪郭、怖いけれどどこかユーモラスな表情など、全く古さを感じない。遊び人だった光琳が家業の呉服屋(かりがね屋)を傾けてしまい、生き方に迷っていた頃、この絵に感銘を受け模写した気持ちが良く分かる。屏風からはみ出してまで描かれた2神は今にも飛び出してきそうな迫力。顔の表情も1番いい。
次が尾形光琳。宗達が国宝でこちらは重要文化財。4点の中では1番完成度が高いと思う。宗達は雷神をやや高い位置に配していたけれど、光琳は風神と雷神を同じ高さに描き、互いに目を合わせるように描いている。そもそも阿形吽形として描かれているけれど、光琳作品はまさに2神が阿吽の呼吸で風を送り、雷を落とすタイミングを計っているかのよう。2神の足元の黒雲もたっぷりとある。宗達の荒っぽさもいいけれど、様式としてこれは美しい。様式的だけれど筋肉の力強い表現は1番かも。個人的にはこれが1番好きだった。そしてこの「風神雷神図屏風」が後の「紅梅図屏風」へ繋がっていく。
酒井抱一の「風神雷神図屏風」は光琳作から約1世紀後に描かれた。光琳を崇拝しその100年忌を自ら企画するほどの熱の入れよう。抱一の2神はユーモラス。ちょっとマンガっぽかったりする。4点の中では最も色鮮やか。その鮮やかさが一層マンガっぽさを感じさせる。なので表情もかわいらしく、筋肉なんどの描写はあまりしていない。黒雲も雲というよりはゴツゴツとした感じでおもしろい。
最後が鈴木其一。其一の「風神雷神」は唯一屏風ではなく襖に描かれている。かなり大きな作品で、2神を一気に見るには、かなり離れて見なければならない。これは幽玄。全体的な色のトーンはぐっと抑えてあり、筋肉の隆起もかなり描きこまれている割には、力強さの表現というよりこの世のものではない存在であることを強調している気がする。黒雲は他の作品とは違い、体や美しい曲線を描いてたなびく布を浮き立たせる輪郭線のようでもあり、足元から広がる黒雲は水墨画のようでもある。この黒雲と抑えたトーンがこの作品を幽玄なものにしている。これは良かった。宗達の作品からすると、これは別モノという気はするけれど。
「風神雷神」を4点一度に見れる機会はめったにないと思うし、琳派の流れが良く分かった。とにかく、素晴らしい作品に触れるのは幸せ! ホント日本ってスゴイ!
★東京国立博物館・平成館:2008年10月7日~11月16日
「大琳派展 ~継承と変奏~」Official site

風神雷神BE@RBRICK
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月17日 1時0分
『1408号室』
'08.11.10 『1408号室』(試写会)@一ツ橋ホール
シネトレさんで試写会当選。普段ホラー系はあまり見ない。怖くて見れないってこともないけど、やっぱりあまり見たいジャンルではない。それなのに応募したのはジョン・キューザック主演だったから。
知らなかったのだけど、イベント付き試写会だった。ホラーということで稲川淳二氏登場! ちょっと爆笑してしまった(笑) あと桜井美春という41歳のグラビア・アイドルがメイド姿で登場。いくつに見えるかと質問されて、22歳と答えている方がいらしたけれど、席が後ろの方でほとんど見えなかったので、ホントのところはどうなのか分からない(笑) 稲川淳二はもちろんホテルにちなんだ怪談を披露。いつもの口調ではあるけど早口だし、会場の音響があまりよくない上に、前の席のオバさま2名がずっと喋っていて3分の1くらいは聞き取れなかった(涙) というわけで夜中思い出すこともなくぐっすり眠れたのだけど(笑) というわけで本題へ・・・
「オカルト小説家のマイク・エンズリンは超常現象で有名なホテルに宿泊し、ミシュラン・ガイド方式で恐怖度合いをドクロの数で表示した本を書いている。ある日彼の元へ”1408号室へ入るな”と書かれたハガキが届く。ニューヨークにあるドルフィン・ホテルの1408号室では95年間に56人が命を落としていた・・・」という話。スティーブン・キング原作の映画化。スティーブン・キング原作の映画は『スタンドバイ・ミー』『グリーンマイル』『ショーシャンクの空に』『キャリー』『ドリーム・キャッチャー』を見た。キングといえばホラー作家という認識だけど内3本はホラーではない。『グリーンマイル』は奇跡の力を持つ黒人の死刑囚(冤罪)が出てきたし、これはたしか6巻くらいある長編の1部だったと思うので、ホラーではないにしても、超常現象的な感じなのもしれないけれど、原作を読んだ事がないので分からない。『キャリー』はおもしろかったけれど『ドリーム・キャッチャー』はオチがガッカリだった覚えがある。この作品も途中まではガッカリの予感がしていた。正直、見終わった後もそう思っていた。でも、感想を書こうと思っていろいろ考えているうちにホラーという手段を取ってはいるけど、本当に言いたいことは違うんじゃないかと思ってきた。
サミュエル・L・ジャクソンがホテルの支配人。1408号室に泊めろと言い張るマイクに対し頑なに拒否する。サミュエル・L・ジャクソンの作品ってそんなに見た覚えもないけれど『アンブレイカブル』で痛い目にあったせいかどうも印象が悪い。この役もちょっとあの骨折しやすい体質のマンガオタクを彷彿とさせる。だからてっきりサミュエルの仕業だなと思っていた。その疑いが全部晴れたわけでもないし、間違いなく招待状は彼が送ったのだと思っているけれど、どうやらそういう話ではない。そういう意味ではこのキャスティングはいいと思う。
1408号室に入るとしばらくしてラジオが大音量で鳴り出しカーペンターズの”愛のプレリュード”がかかる。電源を抜いたにもかかわらずデジタル時計がカウントダウンを始める。そこから不思議な現象が次々起きる。ネタバレになってしまうので詳しくは書かないけれど、初めこそ”誰か”の存在を感じるけれど、次第にもっと超越した存在、むしろ存在ではなくて”現象”という感じになってくる。なので、実は見ている側が恐怖を感じるのは初めの頃だけで、1408号室で繰り広げられていることが理解できない。いやもちろん起こっている事自体は分かっているけれど、それをどう理解していいのか分からないという感じ。上手く言えないけど・・・。もしかするとホラーを普段あまり見ないのでホラーの見方を間違っているのかもしれない。どうしてもサスペンス的にオチを期待してしまうのだけど、もしかするとオチ自体は「えー(笑)」って感じのものでもよくて、そこまでに至る過程でどれだけ怖がらせるかってことが重要なのかもしれない。だから『ドリーム・キャッチャー』や、その正体にガッカリした『IT』も、そこまではドキドキしたからアリなのかもしれないけれど・・・。それにしてもあまり怖くない。多分こうなんだろうなと思う展開どおりに進んでいく。
主人公のマイク・エンズリンは心に傷を負っているようだ。そしてその事が重要なんだと思うけれど、その辺りの掘り下げが足りない気がしないでもない。でも、きちんと伝わったのはジョン・キューザックのおかげ。ただ、もしかしたら彼の演技のおかげでギャグ的なシーン・・・ 例えば窓から出て壁づたいに隣りの部屋へ逃げようとすると隣が無くなってるシーンとかが、ギャグ(狙いかは分からないけど)でもなく、怖くもなくみたいな感じになってしまったかもしれない。壁のシーンなどは主人公の深層心理を表しているのかとも思ったけれど、そういうわけでもなくてオカルトなのかホラー分からない作り。まぁ、そもそもあまり区別はついていないのだけど・・・(笑) 前にも書いたけれど、どうも見方が分からないばかりにサスペンス的オチを期待して見てしまうと、初めに感じていた方向とどんどん違っていく。どうにも混乱。混乱させることも狙いなのだろうからこれは見事。でも、個人的にはおもしろかったのはサミュエル・L・ジャクソンとの対決までだったかも。トイレットペーパーが三角に折られていたのはツボ(笑)
でも超常現象自体は怖くなくなって行くけれど、その現象自体はちょっとおもしろい。上手く言えないけど何故それなのかという感じ。一度どんでん返しがあるため、間違った方向への伏線があるけれど、それを除いていくと、ホントに自然現象。そしてそれらはちょっとレトロ。で、たぶんそれは狙いなんだと思う。その狙いに関しては自分なりに答えを出してみたけれど、当たっているかは不明。でも、もし合っていたらネタバレになってしまうので追記に書こうと思う。勝手な解釈をしているだけだけど、もしそれが的はずれなのだとしたら、おもしろくなくはないです。というのが感想。上手くいえないけど・・・。
何度も書いているけど、私は多分ホラーの見方が間違っているのだと思う。そして、多分スティーブン・キング作品の見方も。だから、これは両方のファンの方が見たらすごくおもしろいのかもしれない。無理やりこじつけみたいにしてオチ考えなくても、怖がらせる現象だけで楽しめる人はいると思う。
『1408号室』Official site【自分なりの見解】
多分だけど、これは神を信じろというキリスト教的なことがベースになっているのかなと思う。キリスト教徒ではないし、全く詳しくないのでよく分からないけれど。マイクは娘を病気で失うけれど、その死から逃げている。回想(?)シーンで彼の妻が、マイクに娘の死の様子を語っていることから、彼はその瞬間にはいなかったのだと思う。そして彼は妻のもとからも去り、神や超常的な存在は一切信じなくなった。だけど、彼も以前は神を信じていた。回想シーンで娘に神はいると言っていることでも分かる。だから、あえて超常的なものを否定しているのだと思う。きっと彼は心の中で神にすがった、でも願いは虚しかった。だから神の存在を否定したんだと思う。あの部屋で起きたことは、どんどん自然現象的な方向に向かい、受難とか受戒のような感じになってくる。見ている側としてはどんどん怖くなくなって混乱してくる。怖くないホラーって・・・。でも受戒ととらえると違って見えてくる。この作品が本当に言いたいのはそこなんじゃないかと思う。
マイクがあの部屋からチェックアウトする(死ぬ)ことなく現実に帰ってこれたのは、あの部屋を認めて、火をつけて燃やしたから。あの部屋を認めたことは神を認めたことだし、それは今まで逃げていた娘の死を認めたこと。そして、その事から彼が逃げていたことを認めたことなんだと思う。きちんとその事に向き合って、折り合いをつけたので彼は生還できたし、多分娘も救われた。それがラストシーンのテープ意味なんだと思う。
というのが少し咀嚼した後の感想。キリスト教徒ではないし、キリスト教のことも良く分からないので、全然的外れなことを書いているかもしれないけれど・・・。
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月13日 1時27分
『ブーリン家の姉妹』
'08.11.02 『ブーリン家の姉妹』@TOHOシネマズ市川コルトン
これは見たかった。やっと鑑賞。
「16世紀イングランド。ヘンリー8世には世継ぎとなる王子がいない。野心家のトーマス・ブーリンは妻の弟で王の側近ノフォーク公と共に、利発な長女アンを王の愛人にしようと画策する。美しく賢いアンに興味は示すものの、王が選んだのは穏やかで優しいメアリーだったが・・・」という話。これはスゴイ。なんという女だろう。見終わった直後は、感動とかいうのではなくただスゴイものを見たという感じだった。
『ブーリン家の姉妹』なのでこれはアンとメアリーの物語。だから王であるヘンリー8世ですら脇役。とにかく2人がスゴイ。アン・ブーリンは歴史上でも有名。既に王妃のいたヘンリー8世が、彼女と結婚するため、離婚を認めていないローマ・カトリックと決別し、独自の英国国教会を設立したことは有名な話。そして、心変わりした王がアンに反逆罪を着せ処刑したことも。でもアンが果たした最大の功績は、後にゴールデン・エイジと呼ばれた英国最大の反映をもたらしたエリザベスⅠ世を生んだこと。なのに彼女が命を落とした一因は王子を生めなかったからというのはなんとも皮肉。一方のメアリーは彼女が王の愛人であったという事もあまり知られていなかったのだそう。もちろん私も知らなかった。この映画の原作者は王の子供を生みながら、後に別の男性と結婚し、田舎で静かに生きたメアリーの存在に強く惹かれたのだそう。見終わった率直な気持ちとしては、メアリーのしなやかな強さに惹かれた。
少女の頃から利発で気の強かったアンは、父からその資質を見込まれ政略結婚の道具となるように育てられたのだろう。彼女にとって愛情とは自分に注がれるべきものであって、自分が与えるものではなかったように思う。自分の果たすべき役割を早い段階で理解し、その役割を完璧にこなすことにのみ邁進していく。自信があるのでプライドが高く、妹メアリーが先に結婚しただけでなく、王に愛された事に我慢ならない。こう書いてみると大人になりきれていない嫌な女(笑) でも、父や叔父から王の愛人になるように言われ自信もあったのに、先に結婚されただけでもプライドを刺激されたメアリーが、王の愛人の座も得てしまうのだから、これはかなり傷ついたとは思う。この気持ちは分かる。でも、そこからのメアリーに対する態度や仕打ちはヒドイ。でも、これも子供っぽいといえばそうかもしれないし、わがままだよなぁ(笑)
メアリーは少女の頃から愛らしく優しかった。政略結婚を嫌い商人に嫁いだのも「自分だけを愛してくれる人がいい」という理由。控えめで良い子という印象だけど、彼女も頭がよく、そして強い。少しうがった見方をすれば、彼女の中に王の愛人となった時、姉に対して優越感が全くなかったわけではないんじゃないかと思ったりする。本人に意識はないと思うけれど。王の愛人となる前、商人ケアリーとの結婚式を控えたメアリーとアンの会話は、一見妹を気遣う姉と、姉を慕う妹という感じだけれど、アンの言葉の端々に妹に対する屈辱感と、そのバランスを取る為に彼女を見下しているような印象を受けた。そして多分そういう感じは日常的にもあって、メアリーは気づかないうちに姉に対して劣等感を持っていたんじゃないかと思う。意識していないからこそ素直に姉を認め、一歩引いて自分は平凡な幸せを見つけようしたのかも。そして、しなやかな強さというメアリーの美徳を引き出した。だから王の求愛に戸惑いながらもしなやかに運命を受け入れ、王を愛するようになる。でも、絶対に無意識だとしても"王に愛された"という自信というか、自尊心みたいなものがあったはず。それは普通の事だし、あんな状況ではそこに幸せを見出していくしかないけれど、その自信がまたアンを刺激してしまったのではないかと思ったりする。
とにかく見せ方が上手い。まず配役が絶妙。アンはナタリー・ポートマン、メアリーがスカーレット・ヨハンソン。逆じゃないかと思った時もあったけれど、これはホントに正解! アンは実は真面目なんだと思う。真面目って言い方だと正確じゃないけど、自分の思うとおりにならないと気がすまないというのは、悪い方向に行くととんでもなく厄介だけど、正しい方向に向いていれば完璧主義ってことになるわけで・・・。ちょっと違うか(笑) でも、完璧主義とか潔癖みたいな感じがナタリー・ポートマンに合っている。メアリーがスカーレット・ヨハンソンだったことで、メアリーがただ流されているだけの女性にならなかった。そして本心はどうなの?という視点を持てたのも彼女のキャラのおかげ。これはホメている。アンのメアリーに対する気持ちって、実は怒り爆発する前から下地があって、妹のことを少し見下す事によって自分を高めていたのだと思う。そういう何気ない会話が伏線になっていておもしろい。そしてよく分かる。お膳立てされた王との狩りで、アンが深追いしたため王が怪我をするエピソードがある。その手当てをしたのがメアリー(実は叔父の咄嗟の策略変更) 実際深追いした場面は出てこないけれど、その話だけでアンの性格を知る事が出来る。そしてアンならやりそうだと思ったりする。そしてその性格が災いになることも分かる。そういうのが上手い。
そして2人がエロイ! スカーレット・ヨハンソンはもともとエロイけど、いつもの小悪魔的な感じではなく、可憐なエロさがある。ビックリしたのはナタリー・ポートマン。あのエロさはいわゆるエロとは違う気もするけれど。要するに落ちそうで落ちないから落としたいってところをつくわけで、ギリギリでかわすみたいな感じがものすごくエロイ。スカーレットはベッドシーンありだけど、脱がない女優ポートマンはなし。まぁ、正確には1シーンあるにはあるけれど、でも脱がない。いいけど(笑) とにかくこのかけひきのシーンはスゴイ。この映画の最大の見どころ。しかし・・・。たしかに追わせて手に入れたいと思わせることは、コチラを向かせる有効な手段だと思うし、アンはそれを完璧にやってのけたけれど、手に入れることをゴールにしてしまったらそれで終りでは? しかも、いかんせん情が足りないタイプなので、つなぎとめる事は難しい。激しい恋情は冷めてしまうけれど、その後どのくらい情を通わせるかってことが大切だと思うのだけど・・・。しかもあれだけ焦らして、さらにムチャな要求し過ぎ。あれではヘンリー8世じゃなくてもうんざりするかも(笑)
自分が王妃になりたいがためにムチャを言って現王妃を追い出しにかかるわけで、この辺りになるともうホント嫌な女ってことになる。でも、アンもメアリーも視点を変えれば犠牲者なわけで、そういう意味では流産しかけたメアリーが隔離されてしまうと、王の心が離れていく感じを目の当たりにすれば、アンが王妃という地位に固執する気持ちも分からなくはない・・・。だけど人を犠牲にして手に入れたその地位は意外に脆く磐石ではない。王の心が離れていくのをハッキリと感じつつも、自分から愛情を注げない彼女にはどうすることもできない。そもそも王のことなんか愛してない。追い詰められた彼女はついには禁断の手段をとろうとする。この辺りにくると現代の感覚からすると常軌を逸しているけれど、時代背景を考えればヘタしたら禁断を犯したかもしれない。そのくらい追い詰められている感じが伝わってきた。何をそんなに守ろうとしているのかとも思うけれど、行き着くところまで行ってしまえばもう戻ることはできないだろうし。
キャストは皆よかった。野心家の父トーマスを演じたマーク・ライアンズも良かったし、夫や弟の行動に反発しつつも、なんとか家と娘たちを守ろうとする母レディ・エリザベスのクリスティン・スコット・トーマスが素敵。20年間つれ添い流産、死産を繰り返し、あげく夫に裏切られる王妃キャサリンは『ミツバチのささやき』のアナ・トレント。この映画自体は未見だけれど、少女のかわいらしい写真は雑誌などで見た事がある。あの女の子が威厳と悲しみをたたえた王妃になったのかと思うとスゴイことだと思ったりする。弟ジョージ役のジム・スタージェスはわりと大きめな役ながら、目だった活躍のない役どころだったけれど、最後に大きな見せ場が。ジョージは意に染まぬ結婚をさせられ、禁断を犯す決断を迫られたあげく、この2つが原因で悲劇の最期を迎えることになる。その辺りの彼の弱さや甘えなんかもお坊ちゃまゆえと思うけれど、その感じはジム・スタージェスの佇まいと合っている。ヘンリー8世のエリック・バナが良かった。2m近い大男で巨漢だったヘンリー8世。肖像画を見るとかなりのコワモテ。アン・ブーリンの事を良く知らなかった時は、なんとやりたい放題なのかと思い、いいイメージはなかった。まぁ、結局アンのイメージが変わっただけで、やった事は同じなので好転もしない。映画は2人の愛憎をメインにしているから仕方がないけれど、アンに夢中になって国の宗教を変えてしまうなんて「目を覚ませ!」と言いたくるけど、そうは思わずに見ていたのはエリック・バナの演技が良かったのでしょう。そしてやっぱりアンのかけひきが見事で、すごくエロくて魅力的だったからでもある。
スカーレット・ヨハンソンは演技派だと思っていたけれど、これはホントに良かった。この役に彼女を推薦したのは実はナタリー・ポートマンだったのだそう。この配役はいい。素直で控えめ、優しく、しやなかに強い。女性の美徳とはこういうものですというような役。こんな役は同性から見ると、意外に反発したくなったりもするのだけれど、スカーレット・ヨハンソン自身が持つ魔性みたいなものがいい具合に作用して魅力的。この役もしかするとアン・ブーリンより難しいかもしれない。でも、ナタリー・ポートマンの完璧なアンに負けていなかった。
そしてやっぱりアン・ブーリンを演じたナタリー・ポートマンがスゴイ! これだけ気性の激しい役ってあまりないかも。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ、『エビータ』のエヴァ・ペロンなど強く野心家の女性達は数々見てきたけれど・・・。スカーレットやエヴァを見た時は、彼女達より年下だったけど、アン・ブーリンよりも年上になってしまったからなのか、ずいぶん子供っぽい印象。そして痛々しい。目標達成までは手練手管で賢さや強さを発揮するけれど、思い通りにならなった時にはまるで駄々っ子のようになってしまう。意外に脆く逆境に弱い。王の心が離れて行くのが分ると、あれだけ堂々としていたのが不思議なくらい狼狽して、王をなじってしまう不器用さを哀れに思ったりする。禁断の手段を取ろうとするほど追い詰められた姿や、断頭台で最後の望みをかけてのスピーチはもう本当に"こんな事が望みだったのか"と思って涙が出た。自分で撒いた種とはいえ、なんという人生なのかと思ったりもする。彼女のその後の運命を知っているせいもあるけれど、王妃となって王冠を頂いた時ですら、全くうらやましくなかった。こんな人生を生きたいとは思わないし、友達にもなりたくないと思う(笑) でも嫌な女になっていない。どこか共感したり、時には応援したりしている。何より、2度目の王とのかけひきは目が離せない! この演技はスゴイ。
ブーリン家の姉妹は王妃と王の愛人になったけれど、田舎で平凡だけれど幸せに生きたメアリーと、自身は断頭台に消えたけれど、娘エリザベスⅠ世がイングランドを統治し、繁栄をもたらしたことにより、その母として後世までその名を残すことになったアン。どちらが幸せなのだろう。どちらも強い女性。でも、私はメアリーの強さが欲しいかも。
映像がキレイ。チューダー王朝のどこか暗い重厚な城の内部や、調度品がいい。そして衣装が素敵。メアリーには黄色などの暖色系、アンには緑や青などの強い衣装を着せているのも象徴的。あまりの事に見終わった後ぐったりしてしまうけれど、これはやっぱり見てよかったと思う。とにかく若手女優の競演が素晴らしい。2人の演技合戦は必見!
『ブーリン家の姉妹』Official site
公式サイトの「性格診断チャート」やってみた。メアリーだった! ちょっとうれしい
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月8日 4時22分
「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」
'08.10.25 ジョン・エヴァレット・ミレイ展@Bunkamuraザ・ミュージアム
ずっと見たくて、でも何故か行こうとすると予定が入ってしまって行けなかった。10月に入ってL'la Padoから以前応募しておいたプレゼントの招待券が届いた! 素敵☆ ということで終了前日25日に行ってきた。
実はジョン・エヴァレット・ミレイという画家の本人のことはあまり知らなかった。正式にはサー・ジョン・エヴァレット・ミレイとのことなので、爵位を授かった人のようだ。多分、日本でも画家自身の知名度は高い方ではないのではないかと思う。ちなみに「落穂拾い」はミレーで、これは別人。でも、彼が描いた1枚の画は画家本人より有名なんじゃないかと思う。それを見に行って来た。「オフィーリア」 この展覧会のメインでもあるこの絵は会場の中間よりやや前に展示されている。これが見たくて行ったので、この絵については後からたっぷり語るとして、まずはその他心に残った作品の事を書こうと思う。
全体を7つのパートに分けて展示。"Ⅰ ラファエル前派"このパートのラストが「オフィーリア」で、この絵までは渋滞になっていたし、わりと宗教画が多かったので、ここはチラ見程度で流してしまった。"Ⅱ 物語と新しい風俗"は特に心惹かれるものはなかったけれど、「信じてほしい」は夫宛の手紙をとりあげ、後ろ手に隠す妻と、返して欲しいと懇願する夫の姿がおかしい。ミレイが知っていたとは思わないけれど、源氏物語の夕霧と気の強い妻、雲居の雁の一場面を思わせる。
"Ⅲ 唯美主義"からは少し余裕を持って見れるようになった。「「ああ、かようにも甘く、長く楽しい夢は、無残に破られるべきもの」-トーマス・ムーア『ララ・ルーク』より」という長いタイトルの絵は、ベラスケスの影響が見られ衣装の黒が印象的。ちなみにこの絵のように詩や物語の一節をイメージして描かれた作品がけっこうあって、そのたび長いタイトルとなっている。「エステル」は着物をイメージしたかのような黄色い衣装がおもしろい。"Ⅳ 大いなる伝統"の「遊歴の騎士」はかなり大きな作品で、裸身の女性が騎士に助けらるシーンを描いたもの。この作品はロンドン留学中の夏目漱石も見たのだそう。
"Ⅴ ファンシーピクチャー"個人的にはここと、"Ⅶ スコットランド風景"が好きだった。まずは「初めての説教」と「二度目の説教」の連作から。これはかわいい。「オフィーリア」を別格とすると1番のお気に入り。5才のミレイの長女エフィーを描いた作品。温かそうな赤いケープを着た少女が、緑のビロードが貼られたベンチのようなイスに座っている。紫のベロア素材のスカートから伸びた赤いタイツの足。皮のハーフブーツを履いた足先は、床に届いていない。ウェーブのかかったやや茶色い金髪に縁取られた少女の顔がかわいい。上目遣いの表情が豊か。今にも泣き出しそうなその顔には、反発や怒りも感じられる。5才の少女なりの自己主張。でもそんな少女も続く「二度目の説教」では寝てしまっている。かわいい! 説教というタイトルから、外出先ではしゃぎ過ぎたおしゃまな少女が叱られているシーンかと思ったけど、説教って神父様によるお説教のことかも? 長女エフィーは「わすれなぐさ」でも描かれていて、美しい娘に成長した姿を見ることができる。「ベラスケスの想い出」は描かれている少女が、有名な「ラス・メニーナス」の王女マルゲリータを思わせる。「旦那様宛の手紙」は黄色い衣装と、ボンネットが美しく、少女の真剣な眼差しが印象的な美しい作品。
"Ⅵ 上流階級の肖像"の中に「エフィー・ミレイ」と息子「ジョージ・グレイ・ミレイ」の肖像があったということは、ミレイ家は上流階級ということなのか。まぁ、いいとして(笑) ここでの見ものは「ハートは切り札-ウォルター・アームストロングの娘たち、エリザベス、ダイアナ、メアリーの肖像」という長いタイトルの作品。タイトルどおり3人の年頃の娘たちがカードゲームをしている。表情は真剣で楽しそうな雰囲気ではない。中の1人右の女性(順番的にメアリー?)が、コチラに持ち札を見せる。その表情は不安そう。「こんな感じなんだけど・・・」といった雰囲気。カードゲームのことはさっぱり分からないので、持ち札を見てもいいのか悪いのか全く分からない。でも、おそらく勝負するには微妙な感じなのでしょう。実はハートは求婚者を意味するそうで、年頃の彼女たちが真剣な理由も分かるというもの(笑) ドレスも美しく、部屋の装飾も美しい。かなり大きな作品で見ごたえあり。
最後"Ⅶ スコットランド風景"ここは美しかった。ミレイの美しい色使いと、細部まで手を抜かない細かな描写が素晴らしい。バイロンの詩から題材を得た「月、まさにのぼりぬ、されどいまだ夜にならず」の夕日が美しい。「穏やかな天気」は11月11日聖マルティヌスの祝日には何故か毎年好天になるという。その好天の日を描いた作品。湖が美しい。ここで1番好きだったのは「露にぬれたハリエニシダ」森の中を描いた1枚。絵の下半分に露に濡れたハリエニシダを配し、上半分の両側に木を配して、中央に空間を作り、ハリエニシダから奥へと続く遠近感を出している。ハリエニシダの細かい描写が素晴らしく、白を気が遠くなるくらい載せることにより、露に濡れたみずみずさを描いている。これは良かった。
さて、最後に「オフィーリア」についてたっぷりと(笑) 言わずと知れたシェイクスピア作「ハムレット」の悲劇のヒロイン、オフィーリア。恋人ハムレットは常軌を逸し(たフリをし)彼女を冷たくふる。さらに父を殺されてしまう。たび重なる悲劇に精神を病んでしまうオフィーリア。ある日、様々な花で作った冠を枝にかけようと手を伸ばし、足を滑らせ川に落ちてしまう。ハムレットの中では王妃ガートルードのセリフで語られる彼女の死の場面をそのまま再現した絵。忠実な自然描写を目指し、背景となる風景を求めたミレイが選んだ場所がサリー州ユーウェルという町にあるホッグミル川。会場の外に川の写真が展示されていたけれど、美しいけれど小さな川。立ち上がればなんなく足が届きそうな気すらする。こんな川で命を落としてしまうというのがまたオフィーリアの悲劇を感じさせる。背景には本当に細かく様々な花が描かれている。その一つ一つに実は意味が込められている。例えば彼女が手にしたスミレは誠実、純潔、若い死を表している。柳は見捨てられた愛、ケシは死、パンジーはかなわぬ愛。バラは愛、そして兄レイアーティーズが彼女を"5月のバラ"と呼んでいたことにちなんでいる。とにかくその一つ一つが繊細で美しい。そして、美しい水の中に浮かぶオフィーリア。花をモチーフにしたレースのドレスは主張し過ぎず、そのレースは裾の方に流れた、手にしていた花冠の花と一体化している。水を含み大きく膨らみ、今まさに腰の辺りから沈もうとしている。その重みが感じられる。広げた手は殉教を表しているそうで、少し開けられた口は性的な表現でもあるとのこと。この絵には死と性(生)が描かれているのだそう。性的なものというとタブー視される傾向にあるけれど、有名な絵画は実は性的な要素が描かれていることが多い。でも、あからさまではないエロスは人を惹きつけるのだと思う。というわけでウットリ。死を扱ってこんなに心を捉えるのは、おそらくオフィーリア本人が死を恐れていないから。正気を失ってしまった彼女は、死のその瞬間も歌っていたと描写されている。まさに恍惚。その感じを見事に描いてる。
この「オフィーリア」はロンドン留学中の夏目漱石がいたく気に入ったようで、小説『草枕』にも書くほどだったらしい。漱石の本は何冊か読んだけれど『草枕』は未読。今度読んでみよう。
というわけで「オフィーリア」には心を奪われたし、その他の作品も良かった。ギリギリだったけど行って良かった。しかもL'la Padoさんのおかげでタダ。大満足!
「ジョン・エヴァレット・ミレイ展」(Bunkamura)
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年11月2日 0時40分
"Cinema Table"
公認ブロガーをさせていただいているシネトレさんから出版された本。『ブリュレ』試写会の時にご紹介いただき、ぜひ読んでみたいと思っていた。ブロガー限定プレゼントのお知らせがあったので早速応募。見事当選! とってもうれしい。
シネトレ・スタッフの方の食事中の「何故映画を見た後おいしいものが食べたくなるんだろう」「映画の中の食事がおいしそうだからじゃないか」という会話から誕生したという本。
5章に分けてテーマ別に料理を紹介している。それぞれの中から私がおいしそう!と思ったものをいくつかご紹介。といっても全部おいしそうなんだけど(笑)
★Chapter1 Breakfast:朝食
『クレイマー、クレイマー』 フレンチトースト
『この森で、天使はバスを降りた』 パンケーキプレート
★Chapter2 Outdoor:野外での食事
『ブロークバック・マウンテン』 ベイクドビーンズ
★Chapter3 Birthday Cake:誕生日のケーキ
『ロッタちゃんと赤いじてんしゃ』 リンゴンベリーケーキ
★Chapter4 Dinner:ごちそう
『ショコラ』 ラム肉のロースト チョコレートソースがけ
『エイプリルの七面鳥』 NY風ローストチキン
★Chapter5 Country:カントリーフード
『少女の髪どめ』 イラン風パン
『トランスアメリカ』 メキシカンプレート
フードディレクションの馬詰佳香さんの料理がどれもおいしそう。スタイリング岡尾美代子さんの映画のシーンのような素朴なスタイリングが素敵。そして『かもめ食堂』『めがね』などでおなじみの高橋ヨーコさんのトーンを抑えた写真がいい。
映画の簡単なあらすじと、レシピが載っているのはもちろん、巻末にはDVDリストもあって丁寧。紹介されたお料理がどのシーンで出てくるのか見てみたくなる。

『Cinema Table』
発行:Cinevine 発売:アスペクト 1,900円
『シネトレ』
『シネマテーブル』コミュ
amazon
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年10月27日 23時14分
『ハンサム★スーツ』
'08.10.20 『ハンサム★スーツ』(試写会)@ニッショーホール
バカ映画の予感がしてyaplog試写会に応募。当選した。
「定食屋を営む大木琢郎。料理の腕は良く、心優しい好青年。だけどブサイク。33年間女性にフラレてばかり。バイト募集に応募してきた寛子。美人で性格の良い寛子は琢郎にも優しく接してくれる。彼女に恋した琢郎は告白するもフラレてしまう。失意の琢郎は着るだけでハンサムになれるハンサム・スーツを手に入れるが・・・」という話。う~ん。これは・・・。試写会に招待していただいておきながら心苦しいのだけど、正直あまり・・・。ストーリー自体は王道でオチも想像がつくし、意外な事実も上映後「心にしまっておいてほしいこと」というチラシを頂いたけれど、すぐに分かってしまった。何より笑わせようとしているシーンが、ほとんど笑えなかった。もちろん笑えるところもあったのだけど、中条きよしが「すいませんハンサムで」と言ったり、温水洋一が出てくるところとか(笑) でも、それって2人のキャラというか、ぬっくんはある意味出オチだし。その辺りの事もふまえて書かれた脚本なのであれば、それはスゴイと言えるのでしょうが・・・。まぁ、笑っている人もいたので、私が合わないだけかもしれないけれど。
見てみたいと思った理由は、塚地がハンサム・スーツを着て谷原章介になるという発想がおもしろかったから。正確には"谷原章介"という人選が絶妙だなと思ったから。谷原章介って確かにハンサムであって、イケメンではない。なんとも昭和な香り。見ている側に「ハンサム・スーツを着たのに谷原章介なんだ(笑)」と思わせる感じはいいかなと。ってスゴイ失礼かな? その辺りの感じは生かされていて、無敵のハンサム光山杏仁はモデルとして大成功するけど、中身は琢郎なので三枚目キャラなことに説得力があるのは谷原章介だからだと思う。ホメればホメるほど落としてる気がする・・・。ごめんなさい
人は見た目で判断されてしまうのか?とか、見た目しか重要じゃないのか?ってことがテーマで、もちろんそんなことはないのは確か。でも琢郎が「ブサイクというだけで自分の中身なんか知ろうともしてもらえない」と言うのも、美人アルバイトの寛子が「自分の外見ばかり好きになって中身を見てもらえない」というのも、まぁ真理ではあると思う。"本当の自分"なんて自分だって良く分からないし、まして相手の事なんて知ろうと思わなければムリだし。しかも相手が見せてくれなければ、見れるものでもない。相手の事を知ろうと思うのは、その人の事が気になって知りたいと思うから。それには第一印象が大切になる。だけどそれはブサイクだからでも、美人だからでもないとは思うけれど・・・。
確かに生まれついての美醜というのはあるかもしれない。だけど、それも人の価値観だし、人間の価値はそれだけではない。個人的には「30過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉が好き。自分の顔は自分が作り上げるということ。オリンピックのメダリスト達は全員が美男美女というわけではないけれど、皆いい顔をしている。それは切磋琢磨して自分を鍛え、目標を達成したから。それはフツーのOLにだって言えること。いい顔している人のことは気になるハズ。琢郎はいい顔していたからこそ、友人がたくさんいるのだけど、それには気づかない。女性にモテないのは、女性に対する時自信が持てないからかも。もちろん自分に自信なんてなかなか持てないし、1人よがりの自信満々な人なんて魅力的じゃないけれど。その辺りをもう少し掘り下げて欲しい気はするけれど、伝わってこないことはない。
琢郎は光山杏仁となって超売れっ子モデルになるけれど、杏仁でいる時のモテモテぶりや、琢郎の時のこてんぱんぶりは少しやり過ぎではあるし、そこで笑いを取ろうとしているのであれば、空回りしている感じもする。でも、琢郎が最後に"本当に大切なもの"に気づくためには、こういう対比は有効だとは思うけれど。琢郎が大切なものに気づく重要人物として、本江という人が出てくる。森三中の大島が演じている事でも分かるとおり容姿には恵まれていない。でも持ち前の明るさと、気立ての良さで店の常連客や琢郎の心を掴んでいく。"人は見た目じゃない"という事の象徴は琢郎よりもむしろ本江の方。本江はもう嫌味なくらいいい人(笑) でもイヤじゃないのは大島によるものかも。さすが脚本の鈴木おさむはダンナだけあって彼女の個性を生かしている。
俳優さんたちは全体的には可もなく不可もなくという感じ。正直、本上まなみの演技が気になったけれど、役柄的にも好きではなかったので仕方ないかも。谷原章介は頑張っていたと思う。この役すごく損だと思うし。今さらショーのクライマックスで大スピーチする年齢でもないと思うし(笑) キャラありきの気はするけれど、塚地は良かったと思う。
いろいろ書いてきたけれど、正直そんなに深々と考える映画ではないのだと思う。何度も書いているけれど「人は見た目?」というテーマはあるけれど、やりたかったのはコメディーなんだと思う。でも、それがあまり笑えなかったのが残念。でも、それはあくまで私の意見。お笑いが好きだから、笑いに関してはハードル高いので(笑) それにこれ結局は一周回って"見た目"ってことになってる気が・・・。まぁ、もういいか(笑) あまりいろい考えずに笑える作品が見たいという人にはいいかもしれない。
試写会前に"My Revolution"がイヤというほどかかっていたけど、テーマソングだったらしい(苦笑) エンドロール後におまけ映像もありです。
『ハンサム★スーツ』Official site

こんなのあった

ハンサム・スーツ(写真提供baru)
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年10月27日 1時19分
『行け行け! インド』
'08.10.19 『行け行け! インド』@TOHOシネマズ六本木ヒルズ
10/18から開催中の第21回東京国際映画祭アジア部門招待作品。baruからのお誘い。baruのお友達でインド映画大好きなKちゃんと3人で鑑賞。
「ホッケー・インド代表チーム主将だったカビール。彼のPKが外れ宿敵パキスタンに敗戦。試合後、相手選手と握手を交わしている写真が報道され、彼が八百長をしたのではないかと誤解され、ホッケー界から追放されてしまう。7年後、協会でさえお飾りと考え、勝利を期待されていない女子ホッケー・チームのコーチに就任するが・・・」という話で、これはスポ根もの。恋愛シーンはほとんど出てこない。なので歌わないし、踊らない。ストーリー展開もオチもほぼ読める王道。でも、そこはインド映画ゆえの大仰さや、インド独特の習慣などと相まって、とっても楽しめる作品になっていた。そもそも王道なのって悪いわけじゃないし、分かりやすくおもしろいからこそ王道なのだし。
とにかく、驚いたことには選手達は皆サリーなど着ていない。もちろん練習シーンや試合シーンではユニフォーム姿なのは当然だけど、世界大会のパーティーでイヤイヤ着たくらい。そして皆意外に露出が多くて細い。インド美人といえばムチムチ・ボディに色鮮やかなサリーをまとい、バッチリメイクをほどこした印象。まぁ、アイラインはほぼ皆バッチリだったけど(笑) それにしても、こちらがドキドキしてしまうほどのミニスカート姿でのプレー。まぁ、日本人や欧米人にとっては普通だけど。でも、それだけに禁断のものを見てしまったような気になって、ちょっと男子の気持ちが分かったりする(笑) よく分からないけれど、その辺りは少しゆるくなっているのかもしれない。
ストーリー的にはホントにお約束どおり。チームのためにあえて憎まれ役となる鬼コーチ。反発する選手。ただ1人コーチを理解し慕う選手(ただし恋愛はなし) 選手同士の軋轢。そして全てを乗り越えた先には・・・。問題自体もオチも想像通り。なのでこれはストーリーそのものよりも、これがインドの映画であることを楽しむべき。上映後、監督によるティーチ・インが行われた。通訳のミシェルさんの日本語が流暢すぎてビックリしたのは余談だけど、楽しかった。客席からの質問に丁寧に答えてくれた。日本人としてはあまり理解しにくいのだけど、インドには"州"という意識が強いらしく、選手達も"国"を代表する以前に"州"の代表として参加したという感覚らしい。選手達の軋轢もそんなところから来ている部分がある。冒頭コーチのカビールが相手選手と握手したシーンが問題となることも、これは相手がパキスタンである事が問題なのだそう。たしか、インドとパキスタンは元は同じ国だったはず。後に分裂し、両国の間のわだかまりは残されたまま。握手を求めてきた選手も、応じたカビールもスポーツマンとして立派な態度だと思うけれど、国のそういう事情がカビールを裏切り者としてしまう感じは怖い。ただ、これは褒めているのだけど、そんな悲劇的なシーンでさえインド・テイストだと重すぎず入ってくるのがいい。すごく悩んでいるのに、どこか「きっと大丈夫だろう」と思わせるインド人気質みたいな・・・。上手く言えないけど。
女性はやはり少し差別的な扱いのよう。でも『オフサイド・ガールズ』のように法や宗教的な拘束力のものではないようだ。前にも書いたけれど、服装に制限があるわけでも、男性の試合を女性が見てはいけないという事もない。世界大会出場を賭けたとはいえ男子チームと試合もしている。おそらく以前はもっと厳しかったのだろうし、今でも地方によっては習慣として残っているところもあるのだろうとは思うけれど、少なくともこの映画ではそういう表面的なものは無くなっている。ただ、古い考え方に縛られた人達はやはり多いようで「女に何ができる」という差別となっている。とういうことは差別自体に明確な根拠があるわけではないらしい。昔からの固定観念が拭い去れていないという感じ。でも、アメリカだって結局は女性大統領の誕生は見送られた事を考えると、未だに「女に何ができる」と思っている人は多いのかも。まぁ、個人的には面と向かってそんな事を言われたら、腹立たしくも思うだろうけれど、出来ると主張するものもないし、あんまり頑張るのも疲れるし・・・。こんな考えの人がいるからダメなのかもしれないけど(笑) でも、州代表チームの主将やスター選手には、それなりのプライドがある。だから彼女達がコーチに素直になれない気持ちも分かる。
監督がこの映画を撮ろう思ったきっかけは、実際に世界大会で優勝した女子ホッケー・チームを扱った記事がとても小さかった事に違和感があったからだそう。ミッシェルさんの通訳によると「こんなに小さいのかよ!」と思ったとのこと(笑) 余談ですが。そこに疑問を持ったのは、映画の題材としておもしろいと思った側面もあるとは思うけれど、少なくとも監督は「女に何が出来る」とは思っていないのでしょう。だから、ケンカっ早かったり、プライドが高すぎたり、地方出身過ぎて言葉が通じなかったりと、個性的な選手達のおかげでなかなかまとまらないチームの、それらは1つ1つ解決していくのに、FWのプリティとコーマルの意地の張り合いだけは未解決。コーマルはまだ少女という感じで、明らかに年上のプリティが大人になって譲り、丸く収まるのだろうと思っていたら、意外にも・・・。それはプリティが譲れない理由が「女に何が出来ると思っているある男を見返したいから」というものだったから。ある男というのは男子クリケット・チームの副主将で彼女の婚約者。なので一見個人的な感情に思うけれど、これはチーム全体が闘ってきた偏見でもある。だからコーマルも譲ったのだろう。このシーンは感動的。
この映画が描きたいのは女性に対する偏見と、パキスタンとの微妙な関係ゆえスポーツマンシップでさえ歪めて捉えてしまう人々の偏見なのだろうと思う。偏見をなくすには結果を出す事が必要なのだということ。それは別にインド代表チームにいなくても、フツーのOLにも言えること。そんな視点もあったのかというような驚きはないものの、やっぱり王道ストーリーは感動するのだと思う。インド国内で大ヒットしたものの、海外ではインド・コミュニティーでしか上映されていないというこの作品。初めてインド系以外の人向けに上映されたのだそう。この映画祭以外で見られる機会があるのか不明だけれど、スポ根もののインド映画もなかなか良かった。ホッケー・シーンの迫力がすごくて映像もいい。インド的と思われる見所としては、
◆インドNo.1人気のシャー・ルク・カーン主演(ただし踊らず)
◆シャー・ルクが雨でびしょ濡れになりウルウル涙目に
◆マックで大乱闘するも全くお咎めなし(お別れランチがマックなのもツボ)
◆大乱闘後、シャー・ルクを先頭に行進、しかもスロー
◆スローを多用、そして大袈裟なアテレコ
◆バージョン違いで何度も大仰にかかる"Chakde! Indeia"(行け行け! インド)
あたりかと・・・。個人的にはシャー・ルクがかけてるティアドロップスが気になる!
というわけで、インド的要素を味わいつつ、ちょっぴり感動したりして楽しめた。歌って踊ってがないと・・・という人も楽しめると思う。歌って踊ってのシーンは、そもそもラブシーンが撮れないため、感情の高ぶりを歌い踊って表現していたはず。それを使わなくても表現できるようになったということもそうだろうし、恋愛はほとんどないし。でもインドらしい個性は出てた。
上映後のティーチ・インで丁寧に真剣に答えてくれたシミト・アミーン監督は穏やかなのに熱く燃えているタイプ。この映画もそんな映画だった。
東京国際映画祭『行け行け! インド』

シミト・アミーン監督(左)

ティーチ・イン中の監督
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年10月27日 1時7分
『BOY A』
'08.10.17 『BOY A』(試写会)@シネカノン試写室
『グーグーだって猫である』を見に行った時、予告を見て気になった。シネトレさんからブロガー試写会のお知らせを頂き早速申し込み。見事当選した。
「ジャック・バリッジは少年時代ある犯罪を犯し更正施設に入所していた。24歳になった彼は名前や過去を変え社会に出る。真面目に働き、親友もでき、心から愛する女性にも巡り会えたのだが…」という話。これは重い。映画自体はわりと淡々と描いているけれど、題材自体が重過ぎて気軽に感想を書けそうにない。自分の中のあまり触れたくない部分にも触れることになる気がする。
事前に「彼の過去については明かさないように」と言われている。見る前はそんなの何となく分かってしまうだろうと思っていたけど、見終わってみてその真意が分かった。単にネタバレを怖れてのことではなかったのだ。衝撃を受けるのは"彼の過去"ではないから。これを書いてしまっていいのか悩むけれど、衝撃は全てを知った後、自分の中に沸き上がった感情とか、自問自答した時の答えに対して。この問題提起に対してはどんな回答も正解じゃない気がする。世の中全部に正解なんてあってないようなものだけれど、そういうのとも違う。
冒頭、出所するにあたりソーシャルワーカーのテリーと面会しているシーンから始まる。名前や過去を変えて別人として新たな門出を祝ってテリーからスニーカーを貰うジャック。何て言えばいいのか分からないと戸惑う彼に「ありがとうと言えばいい」と答えるテリー。はにかみながらお礼を言った後、意を決したように立ち上がり、テリーを不器用にハグするジャック。このシーンがジャックとなった青年を物語っている。素直だけれど、感情表現が下手、思慮深いが故に答えを出すのに時間がかかる、そして繊細で傷つきやすい。だから人に受け入れてもらえるのか不安で、自分から踏み出すことを怖れている。と書くとたいていの人が1つや2つは自分に当てはまることはある気がする。そして、それは決して悪いことではない。そもそも人間なんて欠点があって当たり前なのだから、仮にジャックのそういう部分が欠点であったとしても、彼を責めたり嫌ったりするのはおかしい。だけど、相手もまた欠点を抱えた人間であるが故、彼のこういう性質がいじめの対象になってしまうかもしれないと思ったりする。と同時に彼が長い間、隔離された状態にあったことがその会話から伝わってくる。
地方の都市で下宿をし、運送会社で働き始める。素直で真面目に働くジャックは職場でも受け入れられ、親友もできる。事務係のミシェルという恋人もできた。そんなジャックの日常と、事件を起こしたと思われる少年の頃の映像が交互に描かれる。あまり詳しく語られないけど末期ガンで病床にある母親に甘えたくても甘えられず、学校の勉強にも身が入らないジャックは教師からもダメな生徒として扱われているよう。誰も彼の声に耳を傾けようとしていない。まして感情表現の下手な、もしくは感情を抑えることに慣れてしまった彼の心まで見ようとしている人などいないようだ。本当は親なり、教師なりがケアしてあげなければならない問題だと思うけれど、残念ながら皆が親や教師に向いているわけではない。彼に初めて自分から近づいて来てくれたフィリップ。彼もまた辛い日常を生きている。自分を守るためにフィリップは攻撃的になっている。そんな彼にジャックは強さを見たのかもしれない。でも、それは強さではない。
ジャックの運命を変えたのは3人。フィリップとソーシャルワーカーのテリー、そしてジャック本人。テリーは愛情と自信に満ちた態度でジャックを導く。ジャックも彼を信頼している。でも、テリーは家庭に問題を抱えている。離婚した妻が引き取った息子は、自身も結婚に失敗し行き場を失くしテリーの元に転がり込み、引きこもり状態。彼が熱心にジャックの力になろうとしているのは、もちろんジャックへの愛情もあるけれど"仕事"にやりがいを感じているから。それが彼の存在証明でもある。だから仕事というフィルターを通さない実の息子との関係は上手く結べない。だからこそ余計ジャックの指導に熱が入ってるのかもしれない。テリーは直接的にジャックの運命を好転させ、間接的に突き落とすことになる。
テリー役のピーター・ミュランがいい。ジャックに対しては言える優しい言葉や厳しい助言も、実の息子に対しては言えない感じがいい。ジャックに対しては仕事フィルターを通して少し自分を演出できるけど、素の自分として対峙することに戸惑いと畏れを感じているのが分かる。それはやっぱり息子に受け入れてほしいからだし、そしてそのことに自信がないから。だから"いい父親"を演じてしまう。でもそれは逃げ。彼の息子はダメだし、甘えるなと思うけれど、逃げられていることに対して苛立つ気持ちは分かる。もちろんテリーは偽善者ではないし、ダメな人でもない。彼がジャックに対してしたことは心からの事だと思うし、つかの間でも彼を救った事も事実。それだけに辛い。テリーに対して苛立ったりせず、そういうやるせなさを感じられたのはピーター・ミュランのおかげ。
ジャックのアンドリュー・ガーフィールドが素晴らしい。人生の半分を世の中から隔離されていたため、日常のあらゆる事に驚きと戸惑いを感じている。それはもちろんそうなので、そう演じるのは当然。でも、それだけではなくて"少年のままである"というのがスゴイ! 少年期を演じる少年とアンドリュー・ガーフィールドは似ていない。それは伏線ではあるのだけど、でもジャックはあの少年の頃のまま純粋で傷つきやすい人物である感じが伝わってくる。ミシェルとの初めての夜、普通の幸せに涙する姿は切ない。彼がミシェルに執着していくのは初めて感じる幸せであり、生きている実感だったからかも。そして、そののめり込み方も少年ぽさを表している。決断に時間がかかる感じに少しイラッとするけれど、それが重い過去を背負っているが故の慎重さだったり、彼の不幸の原因の一端であることを表現しているならば、それすら見事。ジャックは事件を起こしたけれど"悪"だったことは一度もない。いくら"生まれ変わった"とはいえ、元々"悪"だったのであれば、あれほど苦悩はしないだろう。だけど、ある一瞬、ある一線を越えた。その瞬間を彼と共に悔やんでしまう。それはアンドリュー・ガーフィールドの演技と、かれの繊細な佇まいによるもの。
映像が良かった。現在ジャックが暮らす街の暗い感じもいいし、少年時代のロンドン郊外の街がいい。石造りの古い住宅街には意外に自然が残っている。辛い現実を生きるジャックとフィリップが学校をサボって自然の中で遊ぶ気持ちは分かる。その遊びには少し危険信号が出てはいるけれど・・・。少年時代のシーンには大人はほとんど出てこない。出てきても顔は見せない。むしろ2人きりのシーンばかり。2人の孤独感が伝わる。実の父親の顔が映されないのは、彼が親に捨てられたことを表しているのだろうし、代わりにテリーのアップを多用しているのは、彼が父性を体現しているからかもしれない。対して、現在彼が暮らす街には人は大勢いるし顔も見えている。でも、みな無関心なので顔がないも同じ。ジャックが人との関わりを求めた時には得られず、触れて欲しくない時には踏み込まれるというのは何とも皮肉。
問題提起としてタブー視されるような題材を選び、あえて人の暗部を描いたことはすごいと思うけれど、正直この問いかけは辛い。もう少し逃げ道を作ってくれないと。こうして感想を書いているけれど、現段階でも問いかけに対する明確な答えは出せない。どんな答えも人として間違っている気がする。あの瞬間をなかったことにしたいのはジャックだけじゃない。彼の良い面だけを見ればやり直しをさせてあげたい気もするけれど、では自分がミシェルや友人クリスの立場だったら?と考えると・・・。難しい・・・。
ラスト、ジャックは海辺の街に辿り着く。保養地と思われる海に突き出たデッキを歩くジャックには背後の観覧車のある楽しげな風景も見えてはいない。このシーンは切ない。してしまった事の責任、罪のつぐない、人が生きていくことの現実・・・。いろいろ考えさせられた。ジャックが命を救った少女からの手紙が唯一の救い。それこそ彼がこの世に生まれてきた意味があったことの証。でも、彼が存在しなければ起きなかった悲劇もある。
身近に起こりうる題材。あの神戸の少年も世に出ている。どこかで彼を受入れている人達が日本にもいる。そう考えるとますます重い・・・。決して遠くの国の話ではない。だから辛い。手放しでオススメできるタイプの映画ではないけれど、淡々と描き出されたジャックの人生には考えさせられることは多い。少年のあの頃、たとえ彼を罵倒するのだとしても真剣に向き合ってくれる人がいたら、あんな事にはならなかったのかも。昨晩BSで放送されていたドキュメンタリーで、バレエ学校の老女性教師に罵倒されながらも、事件当時のジャックと同じ年頃の生徒達が、バレエを踊りたい一心で切磋琢磨している姿を見て、ますます考え込んでしまった。
なんだかまとまらなくて中途半端な感想になってしまった。でも、これが精一杯(涙)

(c)THE WEINSTEIN COMPANY ,FILMFOUR CUBA PICTURES
★11月、渋谷シネ・アミューズほか全国順次ロードショー
『BOY A』Official site
作者:maru-a-gogo
更新日:2008年10月22日 1時39分
『オリヲン座からの招待状』
これは公開時気になっていた。加瀬亮は好き。
「17歳の留吉は松蔵とトヨが経営するオリヲン座へやって来る。映画が大好きだから働かせてくれという留吉に、初めは断るものの、あまりに必死な姿に住み込みとして雇うことにする。映写室に寝起きし、夫婦を立て仕事熱心な留吉に感心した2人は温かく接する。しかし、3人の幸せな日々は長くは続かず松蔵が亡くなってしまう。トヨと留吉はオリヲン座を再開するが・・・」という話。これは良かった。そしてこれは大人のお伽話。映写技師の師弟関係や、人々の憶測が人を追い詰める感じは、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』や『マレーナ』を思わせる。まぁ、後者はわりと普遍的なテーマではなるけれど。ストーリーとしては特に新しくはないけれど、多分昔の映画みたいな雰囲気の作品を作りたかったんだろうなと思った。
冒頭、年老いた留吉がオリヲン座閉館の案内状を書いているシーンから始まる。最終上映会への招待状に一言ずつ手描きでメッセージを添える留吉。その実直な人柄がうかがえる。招待状を書き終えた留吉は病院に向かう。病院内ですれ違う人にいちいち頭を下げて挨拶する姿が印象的。人柄を表すとともに長い間客商売をしてきた事が伝わる。ちょっとやり過ぎな気もしたけれど、若い頃の留吉に繋がった時自然だったのはこのシーンの効果もあったと思う。留吉から招待状を受け取った人の中には裕次と良枝の夫婦がいる。幼なじみの2人。夫婦関係は終わろうとしている。一緒にオリヲン座に行って欲しいと頼む妻に、夫は行けないと答える。妻は最近見た夢の話をする。子供だった自分がオリヲン座に行こうと急いでいるけど、どうしても辿り着けなかったという。夫の心は揺れる。話は松蔵とトヨ、留吉とトヨ、裕次と良枝を軸にして描かれる。もちろん本筋は留吉とトヨだけど、それぞれの関係が”夫婦”を描いている。
昭和32~39年の京都の小さな街が舞台。未見だけど大ヒットした映画『Always三丁目の夕日』などでも昭和30年代が舞台となっていて、貧しかったけれど人情があって、元気だった日本の風景が懐かしいと評判だった。生まれる前の事なので、懐かしいという感じはしないけれど、オリヲン座の感じとか、小さな街の感じとかはレトロでかわいらしい。正直、セット感がいなめないけれど・・・(笑) でも、オリヲン座の座席に白いカバーが掛けてあったり、柿の種(だと思われる)を量り売りしていたり、ガラスケースであんパンが売られていたり、暑い中うちわで扇ぎながら映画を見ている感じは何ともおおらか。まぁ、隣りで柿の種をポリポリ食べられたらちょっとイヤだけど(笑) 今とは映画を見るという意味合いも違っていたのだろうし・・・。その感じは『ニュー・シネマ・パラダイス』でも描かれていたけど、映画は庶民の娯楽の主役だった。それだけに少ないフィルムを別の映画館と交代でかけたり、それを留吉が自転車で運ぶのもおもしろい。道々会う人と挨拶を交わす。留吉がこの街の人になったことが微笑ましい。そういうほのぼのとした日常が松蔵の死で一変してしまう。
松蔵を亡くし途方に暮れる2人。オリヲン座を再開する決心をする。街の人も応援してくれるが、テレビ放送開始にともない客足は鈍る。仮装をしてのチラシ配りも効果はなく、ついに観客は0に・・・。ある日、留吉はその本当の理由を知る。人のこういう事ってホントにどうしょうもない。本来、松蔵は亡くなっているわけで、若い2人の間に愛情が芽生えたとしても決して悪いことじゃないハズ。法律上では。でも、人はある事ない事想像する生き物。人間だけ(かは知らないけど・・・)に与えられた想像力は芸術や文学を生み出し、他人を思いやれる気持ちを生むけれど、悪意に向かってしまうとタチが悪い。そして、こういう場合悪いのは「不倫している2人」であり、「裏切られた松蔵さん」という被害者を生み出すことで、2人を無視するのは当然で、むしろ正義であるという事になる。そして、そういう人の言葉に惑わされ噂を鵜呑みにし、自分も正義に加わろうとする人も出てくる。もちろん噂など信じない、もしくは真実だとしても問題ないじゃないかと思う人もいるだろうけど、そういう人達も人の目を気にして避けたりすることもある。そうやって意識のない悪意は広がってゆく。でも、その渦中にいると気づかないものなのかもしれないし、単純に大半の人にとって映画は娯楽の中心でなくなってしまっただ