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35 残酷!光怪獣プリズ魔
「怪獣描写」と「人間ドラマ」の間に…
朱川 審(岸田森)
山際永三
佐川和夫
「この一週間に、南極大陸の周辺から南太平洋にかけて
次々と、不可解な恐ろしい事件が起こっていた。
航行中の船舶や灯台が、一夜のうちに跡形もなく消えうせた。
目撃者もないままに、原因不明として世界の話題をさらっていた」
「多分……いや……間違いない」
「いいか次郎、まず太陽光線を、この鏡で受ける。
部屋の中を暗くして、この狭い隙間から太陽光線を導き入れる。
二枚のガラスを60度に組み合わせて、その間に水の入ったビニール袋を置く。
……隙間のないようにね。さぁこれで、水のプリズムの出来上がりだ。
波長の違いで、こんなに色が分かれるんだ。
この、紫色のところが短い波長。赤い色のところが長い波。
これが全部混じって、白色光になるんだよ」
「何かが日本を、目指してるような気がしてならない」
「……白い……白い悪魔……」
「あ、いけね!コップにお湯を入れたら割れちゃった!」
「そりゃぁそうさ。冷たい物に急に熱を加えれば、歪みが起こる」
「……ん?焦げ臭いな」
「あ!燃えてる!」
「危ないな!こんなとこにレンズを置いて!このレンズが犯人だよ」
「次郎、光のイタズラだよ。光は生物にとって、なくてはならないもんだけど
一箇所に集中すると、こう……非常に大きな、破壊のエネルギーになるんだ」
「ふうん……」
「郷隊員と坂田の二人は、一つの予感に突き動かされていて
南の海に向けて車を走らせていた。
一方その頃、太平洋上で救助した、外国人船員が入院している病院では……」
「これはなんだろう?」
「透き通った、何かの結晶のようですね」
「すると、我々が救助したあの外国人は……」
「肉体そのものが、なんらかの原因によって、結晶体に変化した上で……全部光に!?」
「坂田さん!」
「なんだありゃ……」
「やっぱり来たな……。俺のクイズも、馬鹿にしたもんじゃない」
「うわぁ……すごいや!あいつ光怪獣だ!プリズ魔だ!」
「おい次郎!逃げるんだ!」
「あれは普通の物質じゃないんです。光の塊……物質の近くまで、凝縮した光なんです!」
「手当たり次第、あらゆる物質を、光に変えてしまうんですね」
「奴は光に飢えてるんです。……満足するということがない。
太陽の光を吸収して、強力な破壊力を持つと、さらに多くの光を必要とする」
「急激にすごい低温で取り巻いてしまえば
プリズ魔の活動を停止させることが出来るに違いないわ」
「しかしそれには、絶対温度マイナス273度を、作り出さなきゃならんぞ」
「絶対温度……活動を止めるだけでは駄目だ。破壊しなければ!」
「MATの要請によって、東京周辺一帯のあらゆる光が消されていった……。
暗黒の大都会。その中に、光怪獣プリズ魔を迎え撃つ、捨て身の作戦が用意されていたのだ」
「来た……!」
「そうだ……こうなったら小さくなって奴の身体に入り込むんだ。そして中で……」
「どうしたの?ウルトラマンは……。プリズ魔の中に、飲み込まれてしまったのかしら」」
「プリズ魔が苦しんでいる!爆発するぞ!」
「俺にとって……俺にとって、ギリギリの賭けだった……」
以前筆者は『落日の決闘』などの評論において
「特撮を熟知している人間が、見よう見まねでドラマを演出した作品」と
「映像の基本をしっかりと勉強した監督が、特撮をさらに学んで撮った作品」とが
どのように違う意味を持つのかを論じたことがあるが
その問題点を改めて違う角度から考えてみる上で、本話は見事なテキストになっている。
その「違う角度」とは、ウルトラを人間ドラマとして作ろうとした製作者と
怪獣譚として作ろうとした製作者とは、はたして相容れないのであろうか?という点である。
ここで結論から述べてしまうことは無粋かもしれないが
私見をあえて述べるのであれば、本話『残酷!光怪獣プリズ魔』は
『許されざるいのち』評論で述べた「ウルトラという受け皿で何が出来るのか。
ウルトラはどこへ向かうべきなのか」という基準で測ったときには
放映が数日前にずれてさえいれば、まさに「11月の傑作群」の仲間入りを果たしただろうと
保障できるクオリティを誇るレベルの作品である。
まず本話を語る上で前提にすべきは
このエピソードがプロの脚本家ではなく、本作で郷の兄貴分・坂田健を演じた俳優の
岸田森氏によって書かれた脚本で、撮られた作品であるということである。
岸田氏は本話の他にも、今回と同じ朱川審名義で
『ファイヤーマン(73年)』の第12話『地球はロボットの墓場』などを執筆したが
つまり本話のポイントの一つは
「プロの脚本家ではない俳優が脚本を書いた作品」であるということ。
そしてまた、それよりももっと大きなポイントは、本話に登場する怪獣・プリズ魔が
「怪獣デザインや怪獣造形、怪獣創造のプロではない俳優が生み出した怪獣」であるということ。
本話はその二点において、突出した異色性を放つ作品に仕上がっており
それは一方で、演出を受け持った山際永三監督の受け皿の広さや
他者とセンスや概念を融合させて作品を作る際のシャープさゆえではあるのだが
ここではまず今書いた二点を念頭にして、この異質で特異な作品を読み解いていきたい。
「ある時、撮影所の中(東宝ビルト)で光をテーマにした怪獣作品を
書いている話しが出、ストーリー展開で盛り上がりました。
岸田森さんと話していく中で強力な光の中にも優しさが欲しい
プリズ魔が発射する光エネルギー(光源)も柔らかさがあれば
光をテーマとした発想が成功と考えていました。
60年代後半~70年代の頃はフィルムに直接光源そのものを撮ることは不可能に近かったが
挑戦する事に意味があると感じました」
(佐川和夫 バンダイ食玩「帰ってきたウルトラ怪獣名鑑」より)
筆者が何度も評論で書き連ねてきたように、そもそもウルトラシリーズは
そこでそのエピソードでたった一度だけ登場する、怪獣こそが真の主役であった。
『ウルトラQ(66年)』の万条目達は傍観者に過ぎず
『ウルトラマン(66年)』のウルトラマンは、物語に幕を引くホスト役だった。
そこで毎回、入れ替わり立ち代りで登場する主役に共通していたのは「異形であること」
姿も生態も、概念もそこには共通性はなく、時として生命の存在すら訝しめられる存在。
怪獣文化の外側にいる人が抱く、一般的・普遍的な怪獣観は
大きな口と牙を湛え、背筋の伸びた恐竜を模して、逞しい四肢と長い尻尾というイメージ。
そのいかにもな「怪獣らしさ」は、もちろん怪獣映画の始祖『ゴジラ(54年)』が元祖であるが
ウルトラはそのゴジラという怪獣のスタイルを基準点にして
さまざまな座標軸のポイントに「怪獣」という楔を打ち込んできた。
その楔の打ち込まれた点から広がる波紋を、ドラマという構造に再構成して
時には謎を、時には夢を、そしてまた時には永遠の不理解を提示する
それが初期のウルトラシリーズの醍醐味だった。
ウルトラは初期においては、そのメインコンセプトが常に根底にあって
そこへ成田亨・高山良策両氏の、美術論的な具象化論がしっかりと重なることで
無限の可能性と筋の通ったコンセプトという、二律相反する要素を両立させながら
そこでは常に「ウルトラにしかない新しい怪獣」を描き続けていた。
それを成立させたのは、誰か個人がタクトを振ったからではない。
企画、脚本、演出、デザイン、造形、特撮、それらがありえないほどの奇跡的融合を果たし
それぞれの役割論の中での立ち位置が、互いの目的を補完しあったからに他ならない。
そしてまた、60年代中盤という時代がもたらした幸運も大きく
その時代が持っていた空気や風俗などが、まさに怪獣という存在を呼び寄せたのだとも言える。
まさに当時は「怪獣が主役」の時代だったのだ。
しかしそれは「主人公の、人間としてのウルトラマン」が前面に押し出された
『帰ってきたウルトラマン(72年)』で、完全に捨て去られたわけではない。
その初期ウルトラの持つ「怪獣を中心にした物語を構築する」という基本ドラマ構造が
「ウルトラマンというフォーマットで描くことのできるドラマの可能性のひとつ」として
シリーズの中での立ち位置を、模索していただけであろう。
実際、本話までの新マンでも『ウルトラセブン参上!』『怪獣は宇宙の流れ星』
『怪獣チャンネル』『この怪獣は俺が殺る』『怪奇!殺人甲虫事件』
『ウルトラ特攻大作戦』などなど、怪獣がドラマの添え物になるのではなく
また、怪獣登場が契機となった人間側のドラマが主客を転倒させることもなく
「新たな怪獣の形」の提示と、その怪獣の持つ特異性の描写と、それへの対応で
30分をしっかり描ききった傑作も、実は少なくないのである。
初期のウルトラが社会現象を起こすことが出来たのは
(誤解を恐れない言い方をするならば)毎週そこで登場する「怪獣という形の提示」が
いかにして、常に「予想を裏切りつつ、期待を裏切らない」存在であり続けるかに
関係者がそれぞれの立場で、そこを見つめているという
モチベーションの共有があったからだろう。
「それ」がなぜ「化け物」ではなく「怪獣」であるのか。
例えば初期ウルトラでは、そこへのエクスキューズに
成田・高山コンビの名前を挙げることで解決できる部分もあるだろう。
大まかに捉えたときに、レッドキングとグビラとブルトンが同じ土俵で同じ言葉でくくられる
その開放感と不安定感の交錯は、成田・高山コンビによる統一感あってのものだろう。
その中でも「怪獣を妖怪にしたくはない」というデザインポリシーがある種の安心感を与え
受け入れる子ども達に対して作用していた部分も大きい。
しかし、成田・高山コンビを失い、怪獣が主役から脇役に成り下がり
ドラマを描く側は、怪獣がもたらす脅威や驚きよりも、人間を描くことへの意欲が先走り
そしてさらには「怪獣ブームは一度終わった」という事実が前提にあった新マン製作では
初期ウルトラの、奇跡的な幸せな融合とは真逆の
怪獣という存在にとっては逆風的な環境が、そこに整いつつあったのである。
だがそれは、やはり時代のせいであって、新マン製作体制が戦犯ではないのだろう。
60年代の狂騒的な怪獣ブームを通過してしまった社会にとって
「怪獣」が「怪しい獣」ではなくなってしまっていたという
大事な要素を我々は忘れてはならない。
そこを前提にしないで新マンの「非怪獣主義」は、迂闊に批判してはならない。
しかし、第二期ウルトラの初頭においては、明らかに送り手の主眼が
そこで登場する怪獣よりも、そこで展開される人間ドラマに注がれていたことは明白だ。
それでもテロチルス前後編に象徴される、特撮とドラマの乖離感は
まだその時期は、怪獣の描き方(デザイン・造形を含める)へもそれなりのパワーが注がれていて
視聴者はそこに、奇妙な拮抗を目撃することになるのではあるが
やがてその拮抗は、陣頭指揮を執るプロデューサーによる指針に寄って押し切られることになり
怪獣造形も息切れを起こし始める第4クール辺りになると
明らかに怪獣の存在が、人間ドラマやテーマに対して隷属する話が多く見受けられることになる。
それが良かったのか悪かったのか、筆者には客観をもって判断することは不可能であるが
ちょっとここで、私見を述べてみたいと思う。
前回『許されざるいのち』評論UP後に、懇意にしている某ブログ仲間さんと話したときに
思いつきで展開した自論に「ご褒美論」があった。
子どもは背伸びをしたがる。いつだって、ちょっと大人に見られたがってるし
自分が常に、年齢よりは大人に近いという自覚を欲している。
幼年期を過ぎた頃、今まで好きだったウルトラマンが、突然幼稚に見えた人も多かっただろう。
存在するはずもない怪獣と宇宙人の格闘を楽しむ自分を幼稚と感じて
怪獣の背中にチャックを見つけて「あれには本当は人間が入っているんだぜ」と誇らしげに語り
そのトリックを見抜いた自分に、ちょっと大人っぽさを感じた記憶がある人も少なくないだろう。
そういう「冷静に考えれば、それは決して大人らしさではない思考」は
例えばもう少し成長した思春期では
「学校の道徳やホームルームで、先生の望んだ優等生回答を述べてみせる」などと共に
常に「大人の世界の虚像や欺瞞を見抜く」ことで満足感を得るわけだが
その「大人が見せている嘘の世界」の向こう側にある「大人の本音」を覗くことは
実は子ども時代の、大事なイニシエーションであり、大切な経験だった。
筆者と同世代の少年時代を送った方々であれば、性欲もセックスへの知識もなかった時代に
単純に「これを観ると、どうやら大人らしい」という思い込みだけで
親の目を盗んで(そう、子どもが大人を疑似体験する、大人世界を覗くためには
そこで一番近しい大人である親から、眉をしかめられるというリアクションも必須要素だった)
『11PM(65年)』や『プレイガール(69年)』へとチャンネルを合わせた記憶がないだろうか?
そこでは「大人向けのドラマを観る」という行為も、大事な儀式だったかもしれない。
親が観ていた時代劇や刑事ドラマ、社会派ドラマなどを脇から眺めては
自分が親しんでいる子ども向けの作劇との世界の落差に、失意と憧れを抱いたものだ。
昭和の時代は、よく晩酌をする父親が、息子にいたずらでビールを一口飲ませたりしていた。
そこで味わったビールは「ただ苦いだけで美味しくもなんともない液体」だったが
同時に、それを旨そうに飲む父親を仰ぎ見ては「きっとこれを美味しいと感じるようになれば
自分は大人になれるんだろう」と思い込んでいた。
少年当時の、大人向けドラマへの理解不能さはそのビールの苦味に似て
だから、いつか再戦してやるぞと意気込んではみたものの
普段は自分からそういったドラマに接することは、あまり無かった。
しかし、ウルトラには時折、そこに容赦なく「ビールの苦味を持った大人向けドラマ」が
子どもへ冷や水を浴びせるように注ぎ込まれることがあった。
端的に言ってしまえば、それは第一期では『故郷は地球』『射つな!アラシ』『ダーク・ゾーン』
『超兵器R1号』『ノンマルトの使者』『史上最大の侵略』等々であるが
だからあの時代、子ども向けだと侮ってテレビの前に座って
これらのエピソードを体感した視聴者達は、皆そのベクトルの向き方にショックを受けたのだ。
そして、尋常じゃない緊張感を持ってそれらを観終わって一息ついた後に
「どうやら今日の話は、お父さんがいつも観ていたドラマを脇から観ていた感覚に似ている」
と自分の中の違和感を理解して租借し、そしてそのドラマが理解できた自分にちょっと嬉しくなり
自分が少し、大人になれたような錯覚を覚えたのである。
そう、それは錯覚に過ぎないからこそ、往年のファンと現代のファンの間で
上記した作品などが「稀代の傑作」「いや、それほどのものではない」と、意見が別れるのだ。
実はその論争は、両者が共に正しい。
なぜならば、そういった子ども時代を送ったウルトラファンの間でも
そこでの「最後までドラマを観続けられるモチベーション」はあくまで
「格好良いウルトラマンが、今までに見たことの無い強い怪獣を倒すところが見たい」だったので
その要素を満たしていない、佐々木守脚本・実相寺昭雄監督の作品などは
本音で言えば、子どもの頃は「ハズレ」扱いだったという人も、実は少なくないからだ。
そう、要はご褒美なのである。
子どもが大人向けドラマを、難しいテーマや展開を乗り越えて観ようとしないのは
そこに、ハードルを乗り越えるだけの価値を持った「ご褒美」がないからだ。
『超兵器R1号』は、もちろんそこに重たく大きなテーマが流れていて
視聴者はそこで、地球の正義への懸念に揺れるダンとシンクロしながら
大人でさえも拭いようの無いストレスを感じ続けるのであるが
そのストレスの先で展開するのは
成田・高山コンビによるシャープで美しく格好良い、未知の怪獣・ギエロン星獣と
我らがヒーローウルトラセブンによる
眩くも美しい花畑を舞台にした、ダイナミックで情緒豊かな特撮シーンだった。
この子ども好きするクライマックスは、子どもをして「難しいドラマを租借したご褒美」として
見事に機能して、そこで魅入られた子どもに「次も難しくてもがんばろう」と思わせつつ
大人気分を味あわせてくれた満足感をもたらすのである。
その「食べ難くても栄養に良いんだから食べなさい」と「ちゃんと食べたご褒美」のバランスは
その二つが融合していた初期ウルトラからはがらりと変わって
新マンをはじめとした第二期ウルトラでは、明確に対立構図へ姿を変える。
そして「大人の本音と本気が込められた、大人気分を味あわせてくれる重たさを持ったドラマ」は
やがて「学校の教室で、道徳の時間に見せられる教育ドラマ」へと姿を変え
ご褒美の質は、創造・造形・描写の全てが低下していき
その傾きすぎたバランスは子どもから「億劫な思いをしてまでウルトラを観る意義」を失わせた。
オイルショックやヒーロー番組の粗製濫造の影響なども強いが
結果としての第二期ウルトラの終焉には、こういった要素もあるのではないかと個人的に思う。
その「対立構図にはまりこんだ、ドラマとご褒美のバランス」は
新マンのこの時期にピークに達した。
しかしここまでを書いて筆者は思うのだ、「本当にその両者は対立せねばならないのか?」と。
ドラマの全てが怪獣へ向かいつつ、そのドラマが「大人が子どもへ向けるべき本質」を描く。
それは決して両立不可能な夢想ではないと、筆者は思うのだ。
「11月の傑作群」が傑作と呼ばれているのは、そこへの挑戦が随所に見られるからだろう。
新マン対ムルチのシーンが描いた「低く重たいワンダバが流れる中
曇り空としとどに降り注ぐ雨と工場という景色の中で、淡々と続く死闘」は
そこまでで描かれた、大人でさえも逃げ出したくなるストレスドラマの果てに得るご褒美としては
そのクオリティの高さはギリギリ、そこまでの全てのストレスに対する中和機能を持ち込んでいた。
それは他の作品でも同じであり、そのアプローチは本話で結実する。
プリズ魔という怪獣は、わずかにバルンガやブルトンなどにその源流を見ることができるが
その硬質感によって、ブルトンやバルンガと差別化されたそのイメージは
それまでのウルトラには提示されなかったタイプの「怪獣の形」である。
そして本話はその30分間全てを、その「誰も見たことの無い怪獣」への描写と
そこへの対応への模索に費やした、初期ウルトラと同じベクトルの作品である。
本話を観て「でもこれには、何もテーマがないじゃないか」と仰るファンも多い。
確かに本話には、人と人が繋がる上で巻き起こるドラマは何も展開しない。
しかし、初期のウルトラがそうであったように
背景としての人間や社会の描写にさえ、肉感や体温を喪失しなければ
そこで、みたこともない怪獣を描いて見せ続けるだけで
結果的に、帰結的にそのドラマは「人が生きる社会の脆弱性と
人が抱いている既成概念の危険性」を、描き出すことができるのである。
怪獣とはそもそも、いつでも人間の既知を超えて現れる存在だったはずである。
ゴジラ型怪獣はあくまで、怪獣創造の軸足であるべきであり
それをテンプレートにして、ディティールを付け加える「作業」はやがて
子どもから「ご褒美感」を失わせてしまうことに繋がるのだ。
ツインテール、バリケーン、ビーコン、ベムスター、オクスター
この時期の、熊谷健・米谷佳晃・高橋昭彦 三氏他による怪獣デザインは
独創的で創造的な怪獣を生み出すことも多かったが
そこには「怪獣創造のプロならでは」の、動脈硬化のような現象が起きていたことは確かだ。
上記した新マンの独創的な怪獣達は皆
「あえて怪獣的なシルエットから軸外しをする」を目的とした
つまり、逆の意味でゴジラ型怪獣に縛られた発想から生み出された怪獣である。
それを責めることはできない、人はあくまで人であり
決して創造を永遠に継続できる神ではないからだ。
むしろ第一期の終焉を一度体験した身にとっては
「怪獣人気は終わることがあるのだ」という恐怖感は強く存在していただろうし
その中では、上記した怪獣達は、必死に「新しい怪獣の形」を模索した結実としては
「怪獣創造のプロ」が行った仕事としては、限界に近いクオリティを誇っている。
しかし、そこで怪獣創造としてはまったくの素人だった、俳優の岸田氏が生み出したプリズ魔は
プロフェッショナルの側からは決して生まれ出でない発想と着想で構築され
だからこそ、人間ドラマやテーマをまず構築する方法論の世界の、山際永三監督をして
当初は「最初はもうね、なんていうかそれこそもうテーマ性、メッセージ性がないんでね。
困っちゃって(打ち合わせで)いろいろ言ってたんですけど」と思わせつつも
最終的には「結構あれは、出来上がりとしては面白かったですね」と言わせしめた。
(筆者による山際永三監督インタビュー
参照)
それはおそらく、山際監督の(こちらもまた類型化しつつあった)ドラマ構築セオリーに対して
要求する物を与えない代わりにもたらす物が、岸田氏による『残酷!光怪獣プリズ魔』の中に
山際監督が欲していた「人間ドラマ・テーマ」の質・物量と同等に存在していて
それが山際監督を刺激して満足させた、何よりの証ではないだろうか?
映像が完成までに共有する製作テーマが、いつでもドラマやメッセージにある義務はない。
本話では冒頭に引用したコメントにあったように、佐川和夫特撮監督や岸田氏
そして山際監督の間に共通した形で「光という存在をキーにした疑似科学性や創造性
それが生み出した異形と脅威、そしてそこを解決するための方法論」という目的があり
そこに焦点を当てて、全ての要素が集約していった作品を見ることができる。
そこでは「何が起きてるのかわからないけど、すごい不思議なことが起きている」という印象が
視聴者の子どもを困惑させる形で与えられ続け、その果てにたどり着く「ご褒美」は
スタジアムを舞台にした、息を呑む緊張感の中の決戦という形で送り出される。
そのバランスにも道程にも、どこにも「人間ドラマメッセージ」や
「大人向けドラマの持つテーマ」は含まれてはいないが、本話にはそれを補って
そういった「大人の思惑」とは無縁の「子どもの頑張りと、それへのご褒美」がそこにはあり
そしてその「人間ドラマ・テーマを放棄した、怪獣の特異性描写に特化した作品」は
着想・脚本・デザイン・造形・演出の見事な融合によって
「人が生きていく社会に満ちているだろう、謎の提示」というテーマを
声高に主張することなく描くことに成功した傑作だったのである。
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作者:
更新日:2008年11月28日 0時26分
帰ってきたウルトラマン 35 残酷!光怪獣プリズ魔
正直な話をすると、この話の特撮再現は、勝てる気が最初からしなかった。
今まで蓄積してきた特撮ノウハウのルーティンが一切通用しない、試行錯誤の連続地獄。
実際の本編は、漆黒の闇夜の中で眩いばかりに輝くプリズ魔と、我等が新マンの死闘が
これでもかという、合成技術の粋を凝らした映像美で繰り広げられる。
観る者を、まさに光のマジックへと誘うがのごとき、怒涛の映像と
常に光り輝くプリズ魔という図式は、実際に画を作る立場にしてみると
生半可な技術も、経験も役に立たず、立ち尽くすしかない絶望に見舞われる。
また、その戦いの流れは、瞬間的なカッティングとモンタージュが
シュールなコンティニュティで繋がれていて
唯一それを、戦闘たらしめている「動き」ですら
本ブログのような、静止画像の連続描写では表現できないため
結果として、手の込んだ意味のわからない画像が、ただ羅列するだけという
まさに「筆者にとってもギリギリの賭けだった」的な
非常に敗北感の強い作品として、仕上がってしまった。
まだ、動きのある動画でありさえすれば
新マンとプリズ魔の間で何が起きているのか、両者は何をしようとしているのか
観る者はそれを受け止めることができるのであるが
本話における戦いでは、「動き」という潤滑剤がないと
各カットがモンタージュとして繋がらないのである。
全くもって、己の力の無さを思い知る機会になってしまったわけだが
それでも、なんとか本話の魅力を再現しようと
様々な形で奮闘してみたのは事実なので、とりあえず解説に移りたい。
まずは冒頭は、深夜の灯台を、霧状のプリズ魔が襲うシーン。
灯台に関しては、アイテム解説を参照。
灯台の発光は、フォトショップ描画ではなく、実際の電飾を撮影。
その灯台が、プリズ魔の霧に飲み込まれて赤く光る演出は、フォトショ描画。
やがて現れるプリズ魔。
今回の撮影は「闇と光」がコントラストだったので
撮影時の露光は、通常の夜間撮影よりもさらに落として撮影。
しかしそうすると、いかに後からフォトショで光を合成しても
プリズ魔のディティールが潰れてしまうので
今回は本ブログ特撮で初めて、ソフビに電飾を仕込んだ。
といっても難しいシステムなどではない。
相変わらず、ローコスト・ローテクニックが身上の、市川大河流特撮である(笑)
東急ハンズで、一番原始的な豆電球と電池、ソケットと電池ボックスを購入し
それを単純につなげて仕込んだだけである。
夜の海は、土台に(多少クシャクシャにして波をつけた)青セロファンを敷き
その上に発泡スチロールで作った、島や岸壁を配置してセットを組んだ。
背景は、今回は黒いラシャ紙で表現している。
プリズ魔の霧、オーロラ、プリズ魔が放つ光線、プリズ魔の発光。
今回は、合成を施していないカットは、一切ない演出になった。
やがて新マンが一回目の登場。
新マンの空中キックから始まる一連の戦いは、合成処理のオンパレード。
戦いの中で飛び散る水しぶきも、フォトショ処理。
目まぐるしく繰り広げられる、プリズ魔の攻撃による光学合成の再現は
DVDからキャプチュアした画像を観ながら
必死になって、似たような雰囲気を再現するべく尽力はしてみた。
やがて、新マンの冷凍霧を浴びて、朝焼けの中消えていくプリズ魔。
このカットだけ、背景を朝焼け(正確には、今まで夕焼けとして
使用してきた)背景に変更して、露出を上げて撮影した。
後半は、野球場を舞台にした、新マン二度目の決戦。
この野球場セットは『ウルトラマン(66年)』の『悪魔はふたたび』で
競技場として制作した、観客席スタンドと照明とグラウンドという
一面だけを再現してあるセットを流用しており
しかし、このセットは『悪魔はふたたび』で壊される運命にあるため
撮影自体は『悪魔はふたたび』に先駆ける形で、08年2月に行われた。
野球場の照明塔は、全ての電球に、個別で発光処理を施している。
霧と共に現れるプリズ魔。
迎え撃つ新マンの縮小化カットは、本編同様に
変身カットの新マンを使って、背景には野球場の客席を使用している。
プリズ魔の体内に自ら突入する新マン。
体内1カット目は、影部分をカットした新マン画像の透明度を上げて
プリズ魔のソフビに合成しただけだが、問題は次のカットだった。
プリズ魔体内で、スペシウム光線を発射する新マンのカット。
このエピソード再現特撮画像のクライマックスである。
実際の本編では、クリスタルガラスのようなプリズ魔の外壁が
多面体の状態で新マンを包み込み、その中にプリズム光が舞うという
特撮映像美のひとつの完成形として、今でも評価の高いカット。
このブログの特撮再現は、ただ機械的に原作を再現するだけではなく
その過程で、再現という行為を使って
往年の特撮映像をリスペクトする意味も持っている。
脚本や監督の意図や目的も含めて、その話全体を包み込んでいる
「表現」「メッセージ」を、再現特撮の静止画で伝える目的がある。
だとすれば、この最後のカットから逃げては
本話で岸田森氏が脚本に込めた
山際永三・佐川和夫両監督が映像に込めた
この話の核を喪失させてしまうことになる。
覚悟を決めて、このカットに取り組むことにした。
撮影は簡単だった。
プリズ魔の外壁を想定して、フィギュアのブリスターパックに使われている
透明塩ビのケースをフィルター代わりにして、新マンを撮影した。
問題はこれから。
特殊効果処理をはじめとして、プリズム光や様々な光を合成する。
「プリズ魔の中にいる」という存在感と、プリズム光の美しさを
1カットで同時に表現しなければいけない。
苦心はしたが、結果はいかがであったろうか?
ぜひご意見をお聞かせ願いたい。
そしてラストは、眩いばかりの閃光を発しながら、爆発するプリズ魔。
今回は、枚数分以上に、合成に心血を注ぎ疲弊した作業だった。
この時期の新マン作品の中でも、ひときわ高いレベルで
映像が凝縮している本話の魅力が、伝わっていればその苦労も報われる。
帰ってきたウルトラマン
http://ameblo.jp/ultra-taiga/entry-10031309664.html
プリズ魔
本話に登場する、芸術的クリスタルオブジェのような怪獣・プリズ魔は
やまなやが怪獣郷シリーズで発売した、ソフビのプリズ魔を使用している。
本シリーズでも、すっかりお馴染みになった、やまなやの怪獣郷だが
そのリアルとレトロのバランスは、ギラス兄弟やドラゴリーなどに顕著で
ベアモデルやマーミットのソフビとは、また違った趣で造形されている。
しかし、キャラによっては目立つそのディフォルメも
こと、プリズ魔に関しては、元々生物的なフォルムではなかったこともあって
非常に写実的なディスプレイモデルに仕上がっている。
立体解釈としては、多少エッジの甘さが目立つものの
しかしそれは、原型や造形の問題ではなく、ソフビという材質からくる特徴。
その上、クリアソフビで成型された上に
メタリックの塗装を軽く吹いた仕上がりは、インテリア的な印象を与えてくれる。
同じくプリズ魔の立体化としては、リアルタイプの怪獣フィギュアメーカー・CCPが
佐竹雅昭怪獣コレクションブランドから「光怪獣プリズ魔VS新マン対決セット」として
リアル造形でノーマルタイプと蓄光タイプを発売しているが
今回は入手の都合や予算などの問題から、怪獣郷版を使用した。
このプリズ魔は、限定品などでは、クライマックスにおいて
新マンが体内に突入した状況を、再現している物もある。
中空成形のソフビの中に、新マンのミニソフビを設置することで
新マン決死の「ギリギリの賭け」を、再現しているという好アイテム。
今回はその中空成形を活かして、電飾を仕込むために
底面の蓋(?)を外しただけで、無改造・無塗装で撮影に使用している。
灯台
実は灯台というアイテムに関しては、以前から様々な形で悩んでいた。
「灯台が出てくるウルトラ」といえば、本話以外にもすぐ思いつくのが
『ウルトラセブン(68年)』の『北へ還れ!』における
カナン星人のロケット基地が灯台に偽装していたシークエンス。
本話の灯台シーンだけであれば、そのアイテムが手元になければ
シーンごとスルーするという、選択肢も許されたかもしれないが
『北へ還れ!』は、ある意味灯台が主役の話でもあるので、その立体は絶対不可欠だった。
当然、筆者の基本スタンスである、自作という手段も考えた。
しかし、灯台という建造物を改めて考えると、意外に難敵であった。
まず、正確な円錐で基本構造が成り立っていなければいけない。
その上で、細かいディティールをしっかり作りこまないと
それはただの「白い円錐柱」にしか見えない可能性が高い。
シンプルゆえに誤魔化しがきかず、ニュアンスでは作れないのだ。
仕方ない、と自作は諦め、灯台ミニチュアを探す日々が続いた。
出来れば本話と『北へ還れ!』で共用したいので、見た目は没個性的な灯台がいい。
サイズは出来ればソフビ怪獣達と並べられるサイズがいい。
そう思い探したが、一向にお目当てが見つからない。
鉄道模型用のストラクチュアにあるかと期待したが
本当に小さなサイズの奴があるくらいで、使える大きさの物はない。
ヤフオクだと、かろうじて民芸品に灯台の置物がいくつかあったが
置物だけに、民芸品だけに、欧風でありお洒落であり
そして、一個一万以上もする高価な品物であった。
さてさてどうするか。
悩んでいた日々の中で、闇雲に検索をかけていたところ
食玩が占めるカテゴリで、なぜかいきなり灯台がヒットした。
すぐさま出品ページを開いてみると、色以外はまさに求めていた灯台。
これはなんだ?と調べてみると、その灯台の正体は
タカラトミーの子会社で、カプセルトイを中心に商品展開している
ユージンが、99年より発売していた「カプセルプラレール」シリーズの
うみべのおはなし編の灯台であった。
筆者はこのカテゴリ商品に関しては、全くと言っていいほど知識が無いので
あくまで、灯台を落札したついでに閲覧した、オークションの出品から判断するには
まず理解できたのは、これが読んで字の如く「カプセル」の「プラレール」だということである。
プラレールといえば、筆者の児童時代からロングセラーを続けた、子ども用の列車玩具である。
筆者が子どもだった時代の列車玩具は
青いレールに玩具然とした列車が走る、このプラレールという玩具と
プラレールよりも、リアル志向が強かったバンダイのミニミニレールとが
競合していた印象が強かった。
怪獣ソフビでもリアル志向だった筆者は、当然ミニミニレールを選んだが
筆者の周囲を含む当時の児童は、プラレールの方を選んだ者が多かった。
ミニミニレールは、やがて80年代に姿を消すが
50年代から展開していた、タカラトミーのプラレールは
その後も仕様やラインナップを変化させながら、現在に到っている。
その実績は、長年のファン層によって支えられており
リアリズムを最初から捨て去って、玩具の魅力に徹することで
本物志向のNゲージなどと住み分けを確立していることも、要因の一つだろう。
また、近年は子どもに人気の鉄道キャラクターの
『機関車トーマス』の版権を獲得して商品展開することで
キャラクター玩具としての側面も、持ち合わせることに成功し
それが長寿商品を活性化させているのだろう。
カプセルプラレールは、99年に展開をはじめたカプセルトイ版である。
もともとコレクション性が高い玩具であったプラレールの、廉価版として機能しており
その内容も、車両、路線、ストラクチュアと多岐にわたる。
そもそもプラレールが、非リアリズム玩具であった上に
カプセルトイという販売方式ゆえに
カプセルプラレールはさらに車両やストラクチュアのデザインが
丸くディフォルメされた方向で世界観を確立しつつあるのだが
今回の灯台だけはご覧の通り
リアルストラクチュアとしても、通用するシルエットを持っている。
せっかく灯台が手に入ったのだからと、カプセルプラレールのシリーズで
他に使えるストラクチュアでもないものかと、ヤフオクを周ってみたりしたのだが
他はほとんど丸いディフォルメが施され
むしろ、この灯台だけが異端であるかのように存在していた。
この灯台は、カプセルには分割されて収納されていて
それを繋げる形で完成する仕様になっている。
中には電池が最初から内蔵されていて(交換は不可)
スイッチを入れれば、本物の灯台よろしく点灯を始める。
商品は赤と白という、おめでたい塗装だったので
今回はこれを全体的に白くリペイント。
ライト部に白い柵を塗装で描きこんで、どこにでもある灯台を作り上げた。
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作者:
更新日:2008年11月28日 0時18分
34 許されざるいのち
11月の傑作群 レオゴンのデザインが招いた怪獣ブームの終焉
石堂淑朗(原案・小林晋一郎)
山際永三
佐川和夫
「……水野じゃないか!」
「郷!はっはっは!」
「懐かしいなぁ!奇遇だなぁ」
「そうか君はMATで働いていたのか!小学校の頃から、運動神経は抜群だったからね君は!」
「しかし、勉強の方じゃ君にはかなわなかったよ!小学校時代の親友なんですよ」
「去年親父が死んでね、そこで屋敷を改造して、今こういうことをやってるんだ」
「『水野生物研究所』そうだ、君は昔から生き物が好きだったからね」
「一つ質問していいですか?この研究所には、動物と植物と両方いるけど
水野さんの専門は、本当はどっちなんですか?」
「いやぁそれは実に良い質問だね!僕はね、その両方を研究しているんだよ。
僕はね、子どもの頃から『動物と植物の本当の違いはなんだろう』と
ずーっと考え続けてきたんだ。
いまや人類は、方や月へ到達し、火星にロケットを送り
方や生命の神秘に迫ろうとしている。そういう時代なんだよ!
僕が動物と植物の間から、動物でもあれば植物でもあるような
まったく新しい生命を作ろうと考えたのも、科学者としての当然の権利なんだ!」
「本当にそんなこと考えてるんですか?」
「あぁそうだよ!いけないかね!? 」
「いけないとはいわないけど、なんだか気味が悪いや……」
「……それはまだ君が常識に囚われているからだ。
宇宙の生命は本来一つの物なんだ。人間・動物・植物、いろいろ在る方がおかしいんだ。
生命に差別があってはいけないんだ!」
「αレオン電磁波……私の発見したお前は
宇宙の生命とは一つの物でしかない事を証明する、神のごとき光線だ」
「郷隊員の小学校時代の友人・水野一郎は
この時既に、動物と植物の間に新しい生命、新しい卵を得ることに成功していたのだ」
「やった……とうとうやったぞ!僕はついに!動物と植物の!
何人も超えられなかった境界線を、打ち破ったぞ!やった!はっはっは!
お父さん、あなたは息子の僕を、馬鹿にし続けてあの世にいかれた。
しかし、今日という今日こそ、あなたは僕に脱帽すべきなんだ!
はっはっは……あなたは単に、金儲けの上手い商人に過ぎなかった。
しかし、今日の私は天才なんですよ。
アインシュタイン、ニュートンに比すべき天才になったんですよ!
はっはっは!……え?……レオゴン!レオゴン!うわぁあっ!」
「ようし!出撃!」
「出たぞ!」
「あ!危ない!」
「エンジン全開!」
「いやぁ岸田隊員の、必中のロケット弾のおかげで助かったよ」
「これがジャイロの機体に引っかかっていたものです。これはまさに植物なんです。
鑑識課に調べてもらった結果、植物以外の何物でもないようです」
「水野……君はどうしてこんな恐ろしい研究を……」
「恐ろしい研究?僕は……新しい生命が欲しかった。
動物でもなく、植物でもない、レオゴンは僕が生み出した、新しい命なんだ。
郷、お前には僕の気持ちなんか、分かりゃしないよ!
僕がレオゴンを生み出したことが罪だって言うのなら
僕はもう死ぬしかないんだよ!死ぬしかないんだ!」
「水野、今は君の気持ちを聞いている時じゃないんだ。
作り出した物なら、壊すことも出来るだろう?
水野、どうやったらあの怪獣をやっつけることが出来るんだ?」
「それは……この光線αレオンさ。βレオンに変えれば、あの生物は死ぬ」
「水野、頼むやってくれ。このまま放っておけば、ますます被害は大きくなるばかりだ」
「水野君!頼むぞ!」
「お前は僕の命だ……。僕にはお前を殺すことはできない。
レオゴーン!レオゴーン!!」
「水野さん!水野さん!」
「水野ぉおっ!戻ってこぉい!」
よろこびの時 笑えない人 色のない花 この世界
春の訪れのない私の この青春に問いかける
「水野の机の中から遺書が出てきた……。
万一のことがあった場合、一切を開放して、子どもの遊び場にするようにってね」
「じゃあ水野さんは、自分が作ったレオゴンが、怪獣になるって知ってたんだね……」
あなたの花 あなたの太陽 あなたの雨 あなたの愛
花・太陽・雨 花・太陽・雨……
本話は『帰ってきたウルトラマン(72年)』「11月の傑作群」の一本であり
89年に公開された映画『ゴジラVSビオランテ』でも原作をつとめた小林晋一郎氏が学生時代に
新マン放映当時の円谷プロへ送ったアイディアが原案であることは
ウルトラファンには有名なエピソードとして知られている。
実際に放映された『許されざるいのち』に対して小林氏が与えた要素は
「植物と動物の合成怪獣」という骨子他のレベルであり
完成作品においては「資本主義・商人への嫌悪感」「科学と自然の拮抗」など
脚本を担当した石堂淑朗氏のカラーの方が強く反映されている。
石堂氏の持つアニミズムと商人主義否定に関してや
本話辺りから油が乗り始めてきた山際永三監督による「動線交錯画面設計」などについては
いずれその他のエピソードの解説で語る機会もあるので今回は割愛するが
まずはここでは、本話が今回本ブログでも扱っている「11月の傑作群」の1本であるという前提で
総論的な視点で振り返ってみたいと思う。
「11月の傑作群は、どういった経緯で誕生したのか」については
本ブログ11月冒頭の『悪魔と天使の間に…』評論でざっくりと述べてみたが
視点を変えてみるとそこにはまず「そもそも傑作という評価の定義とは?」があるわけであり
新マンというシリーズだけを見つめてみてもそこには(路線が紆余曲折したとはいえ)
「新マンの傑作が、決して11月だけに集まったわけではない」という意見も
もちろん説得力をもって語られているのではある。
筆者が『天使と悪魔の間に…』評論で書いたように
新マンは11月を迎える前段階から、既にそのテンションは張り詰めつつあったし
実際、筆者個人の私見で言えば、筆者にとって新マンで
いやウルトラシリーズで一番思い入れが深い作品は(いずれ語るが)
この「11月の傑作群」よりも、少し前の時期の作品だったりするのも事実。
そういったポイントを踏まえた上で、「なぜ11月の傑作群が傑作群なのか」に対して
もう少し踏み込んで読み解いていきたいと思う。
「11月の傑作群」に選ばれたエピソードは『悪魔と天使の間に…』『落日の決闘』
『怪獣使いと少年』『許されざるいのち』の4本。
これらはそれぞれ脚本家も演出家も異なり、そこにはむしろ統一された作風はない。
また「身長40mの宇宙人と怪獣が戦うドラマ」という形態へのアプローチとしても
人間心理の描写へ踏み込んだ話もあれば、特撮の画的説得力の特化へ向かった話もあり
宇宙人という存在を、社会が根幹で抱える問題へ投影した作品もある。
そういった意味では本話は、それまでは稀であった「人のもつ若さを俯瞰で捕らえる」という
ウルトラらしからぬモチベーションが、ウルトラならではの設定を得て成立しているわけで
そういう意味では「11月の傑作群」はどれもこれも
「ウルトラならでは」の枠で描ける映像ドラマの、限界への挑戦だとも言えたのである。
穿った見方をしてしまえば『悪魔と天使の間に…』は
『ウルトラセブン(67年)』の『消された時間』に
『許されざるいのち』は『ウルトラマン(66年)』の『謎の恐竜基地』に
それぞれ、ドラマ骨子のルーツを見取ることは可能なのだけれども
それはむしろ『帰ってきたウルトラマン』という作品が、その当初から延々脈々と
「初期シリーズの骨子を使ったリトライ」という側面を持ち合わせていたわけであって
その要素はなんら「11月の傑作群」という称号を貶めるものではない。
むしろそういった「初期ウルトラエピソードの再構築」という一面も含めて
この時期の新マンは「ウルトラならでは」から、受け手も送り手も想像できる限界範囲での
「ウルトラはどこへ向かうべきなのか」への
果て無きチャレンジ精神が見て取れるのである。
その上で。
上記した4本には、実はドラマ的に共通したテーマが
まるでスポーツにおける統一レギュレーションのように、存在していたことが分かるのである。
「父と子の絆」
それが「11月の傑作群」に共通したテーマであった。
『悪魔と天使の間に…』で核となったのは、伊吹隊長が娘・美奈子に対して抱いた思い入れだった。
『落日の決闘』で、独特の牧歌的クライシスの背景でリアリズムを形成していたのは
主人公少年・太郎と、トンネル工事で死んだ本当の父、そして現在の父・作太の関係だった。
『怪獣使いと少年』では、良少年と彼を見守る父親代わりの宇宙人・金山の関係が鍵になっていた。
そして本話でも、その物語は一見青春ドラマのように、水野の若さと科学への傾倒を描くのだが
その「頭でっかちのSF・特撮ファンの学生が夢想した
『マッドサイエンティストが登場する僕アイディア』物語」に、生々しい血肉を与えたのは
(おそらく石堂氏の筆による)水野の中にあった「父へのコンプレックス」であったことは
これはきっと、原案を担当した小林氏にとっても幸運だったのではないだろうか。
類型的な特撮ドラマやSF作品で、マッドサイエンティストが描かれる場合は
そこではなんらかのコンプレックスが、バネになっているという構図が用いられることが多い。
「偉大すぎた父へのコンプレックスゆえ」という動機付けは、この手の作品では
「自分が天才過ぎて、凡庸な学会から追い出されたことへの恨み」と共に定番である。
作劇を担当した石堂・山際コンビにおいて
「父と子の絆」というレギュレーションが念頭にあったとは思えないが
その動機付けがもしも「私を追い出した学会へ復讐してやる」だったとしたら
本話はここまで傑作に上り詰めなかったのではないかと、筆者は個人的に思う。
マッドサイエンティストという存在は、ドリルメカやワンダバBGMと同じく
こういった作品のマニアやファンにとっては大好物のアイテムではあるが
筆者はそこにあまり思い入れがないせいか
本話においては、石堂・山際コンビによるキャラ造形に対して
「上手く父子の因縁に落とし込んだな」という印象が強かった。
それはもちろん「マッドサイエンティスト」という存在が
「ボクっ娘」「巨大人型兵器」「地底戦車」などと共に
宇宙人や怪獣よりは実在しそうだという願望に依存しているからではあるが
常識で考えればそんな人物像は、「萌え少女」や「戦うメイド」などと同じで
宇宙人だの怪獣だのと同じレベルでやはり在り得ないということは
普通に社会を見ていれば理解できるのである。
山際監督は、かつて筆者のインタビューに対して
「映像を作るということは、いつでもそこに狂気を込めるということである」と仰ったが
同時に大事なことは、その狂気に対して人の生理に訴えるリアリズムを与えることであった。
それを誰よりも認知していたのは山際監督自身であるが
それはたとえば富野由悠季監督が『機動戦士ガンダム(79年)』などにおいて
「未来の宇宙で、人型兵器が戦争を行う」という
冷静に考えれば開いた口がふさがらないほどに、ばかばかしい設定に対して
いつでも「親子喧嘩」や「痴話喧嘩」などという、等身大の問題をその戦争の契機にすることで
そこでの荒唐無稽な世界観を、観る人の生理と地続きにし続けたスタンスに似ている。
本話で水野が表現し続けた狂気は、唯一「父の肖像画を前に独白するシーン」によって
水野の整合性や体温を、観ている者に伝えることが出来たのではないだろうか?
そこで自然的に表現された「視野の狭さの根底にある若さ」が(山際監督の言葉を借りれば)
水野のマッドサイエンティストぶりを「現実で裏打ち」したのであろう。
人はいつでも「自分が今ここに存在している」という事実を、普遍的な形で確認したがる。
本来それは、繋がる他者との相関的な距離感が示す座標で認知するのであるが
より明確な形を求めて暴走し、やがて周囲が見えなくなるという矛盾的帰結は
それはやはり、思春期の特性であったりするのも事実。
本話の水野の場合は、それがまさにレオゴンだったわけであり
一見すると、本話を包み込んでいたように見えた水野のレオゴンへの偏愛は
実は自己愛でしかなかったことが、大人になって本話を観返してみるとはっきりと分かる。
水野は自身の「内なる狂気の力」を妄信しつつ恐怖していたからこそ
自らを重ね合わせたレオゴンと同化し、そしてその上でウルトラマンにレオゴンを殺させることで
自身が「自らの目で見える範囲に、自身の存在意義が結実した現実がない」この世界から
永遠に逃避を果たしたとも言えるのではないだろうか?
そういう部分で本話は、上記したように『謎の恐竜基地』とは相似形であり
そこではまさに(筆者による金城哲夫評にあるように)「閉じた関係」が
水野とレオゴンの間に、「水野の思い入れ」という形で一方的に築かれていたのである。
父へのコンプレックスを乗り越えるためには
自身の内なる狂気を暴走させなければいけなかった時点で
水野が自分の深層心理でも納得できるレベルで、父を乗り越えることが出来ていたとは言い難く
それゆえ、本話中盤で祝杯を片手に、父の肖像画に勝利宣言を語りかける水野の独白は
どこか空虚で「自分自身に言い聞かせている」ようにさえ見える。
フィクションにおける「狂気」は、それが稚拙な作劇者にかかると
荒唐無稽な展開に対する口実として、便利に使われてしまうこともあるが
本来は、それは観る者に対しては「理解不能から来る底知れない生理的嫌悪感」と共に
観る者の日常へアプローチして、その者の狂気を呼び覚まし
共鳴を起こす接点がなくてはいけない。
映像作品とはそもそも、人がその生業で接する視覚や聴覚をコントロールするメディアだけに
例えその共鳴ポイントが小さな接点であっても、強大なエネルギーでこじ開ける力を持っている。
大事なのは、観る者の視覚と聴覚を上手く誘導して、その極小な接点へと誘導すること。
そしてその接点はいつだって、人の「生き物としての生理」のみで成り立っているのである。
それが分かり描ける者だけが「我々と同じ人間が住む世界」と
「40mの巨大宇宙人と、巨大な怪物が戦う世界」を、繋ぐ作品が描けたのかもしれない。
一方、本話が印象深いエンディングのエピソードとして、観た人の脳裏に刻み込まれた原因に
クライマックスからエンディングにかけて流れた『花・太陽・雨』という曲の存在がある。
この歌は、当時ブームのピークを過ぎたグループサウンズが
その垣根を越えて結成したグループ・PYGによって作られたものである。
PYGはザ・スパイダースの井上堯之氏、大野克夫氏
ザ・テンプターズの萩原健一氏、大口広司氏
ザ・タイガースの岸部一徳氏、沢田研二氏によるコラボで結成。
当時はジュリー(沢田研二)とショーケン(萩原健一)という
GSブームが生み出した最大級のスター両者のコラボレートということで
GSムーブメントに酔いしれた若者たちにとっては
ブームのグランドフィナーレ的に迎えられていた。
ちなみに、現在見受けられる資料ではあまり語られていないが、このPYGには
後に日本のロック史に輝かしい名前を残した、伝説の博多めんたいバンド・ARBで
Voの石橋凌のサポートを20年以上続けることになる
屈指の名ドラマー・KEITHも参加していた。
いまや個性派俳優として名高い岸部一徳氏が作詞を担当した『花・太陽・雨』であったが
この名曲が本話で使われた背景には、実は市川森一氏の存在が鍵になっているのである。
新マン放映当時、市川氏が住んでいたアパートに住んでいたのが萩原健一氏だったのだ。
二人はほどなく意気投合し、映画論や文化論など、様々な夢を語り合う関係になっていく。
やがて二人の夢談義は、映画監督の工藤栄一氏などを巻き込んで
新宿ゴールデン街で毎晩展開され「色事師のドラマが良い」「詐欺師が毎回失敗するドラマだ」
「任侠ドラマをテレビでやりたい」と紆余曲折したあげく
やがて『傷だらけの天使(74年)』へと結実したのだが
その過程で懇意になった市川氏が、萩原氏へドラマ内使用を持ちかけて快諾を受けたのが
この『花・太陽・雨』だったのである。
その『花・太陽・雨』は、曲自体のクオリティはもちろん高いのであったが
時既にハード系ロックへ若者文化が移行し始めていたということもあって
PYGは絶大的な人気背景を持って、日比谷野音ロックフェスティバルなどに出向いたはずだったが
その商業的なコラボレート企画主義が、逆に反感を買うなどという状況に陥っていた。
萩原氏自身も己の欲求以前の問題で、芸能界で生き残るための方向転換を
求められて模索していた時期でもあり、だからこそ後の俳優業へと繋がるのだが
本曲が産み落とされる背景にあった、祭りの終わりを告げるそういった情感が
完成した曲にも何かしらの形で反映されていて
どこかで本話の「死に行く怪獣」「終わり行く青春」と、オーバーラップしていたのかもしれない。
えてして名作・傑作というものは、かように奇跡的な偶然や接点を持っている場合が多いのだが
本話があくまで「11月の傑作群」の中の一本に評価がとどまってしまい
まだまだ可能性を残しつつも「新マン稀代の大傑作」には成り得なかった要因としては
本話を象徴するべき存在の怪獣・レオゴンが、今ひとつのレベルのデザインで
留まってしまったからというのがあるのかもしれない。
レオゴンの持つ「植物と動物の融合生物」という概念は、それまでのウルトラの中では
あったようで実は無かった独自性を持っている。
グリーンモンスやケロニア、スフランのような「あくまで植物が進化した形態」でも
ワイアール星人のような地球外生命体でもないレオゴンは
怪獣という概念における新たな提示の形であった。
植物が動物へ進化するのでも、動物が植物へ向かって進化するのでもなく
植物と動物が互いに等価に歩み寄った結果として生まれた命が
怪獣以外何者でもなかったというそのロジックは
「怪獣とはなんぞや」へのアプローチとしては、とても知的で甘美的ですらある。
しかしでは、実際映像作品で描かれたレオゴンはというと
お世辞にも「植物と動物が等価に融合した生物」を具象化したとは言えず
「植物のディティールをもった動物」という、結果植物が動物に隷属するバランスに落ち着いた。
画は手元にはないが、話によるとレオゴンはそのデザインも小林氏が最初は手がけていたそうで
だが円谷で本話を制作するにおいては
米谷佳晃氏が、改めてリデザインとフィニッシュワークを担当したと言われている。
米谷佳晃氏はこの時期から怪獣デザインを手がけるようになり
やがては東映で『正義のシンボル コンドールマン(75年)』の主人公デザインも手がけたが
小林氏の投稿当初は二足歩行型だったというデザインが
どう改変されて完成デザインになったかまでは知ることは出来ないが
米谷氏によるレオゴンのデザインは
上記したように凡庸さの域を出るものではなかったように思える。
だから小林氏は、本話がファンタジービジュアルとして具現化できなかった
「植物と動物の融合した結晶が人の狂気を体現する」というアイディアを暖め続け
『ゴジラVSビオランテ』まで、20年近くも持ち越したのではないだろうか?
そこで描かれたビオランテという怪獣は
振り幅として植物方向へも動物方向へも形態を変えたが
大森一樹監督の安っぽく稚拙なドラマと演出を、補って有り余るイマジネーションを
ビオランテというキャラクターからは感じさせてくれていた。
怪獣造形や表現特撮技術のレベル差があるので一概に比較は出来ないが
もしもビオランテレベルのデザインで本話が描かれていたとしたら
『怪獣使いと少年』とは全く違うベクトルで、本話はウルトラ史やテレビ史に
孤高の傑作として、その名を刻み込まれていたのではないだろうか?
そしてもしそのifが実現していたら
以前の評論で書いた、この時期の新マンにおける怪獣定義の広がりと迷走がたどり着いた
一つの到達点を象徴する形として、ベムスター以上の絶妙さをもって
怪獣文化のある種の結実として語られたに違いない。
「11月の傑作群」と呼ばれたこの時期に
レオゴンという存在を、しっかりと描けなかった怪獣デザインの脆弱さは
その後の新マン怪獣の、あからさまな息切れを呼ぶ要因になってしまい
そしてそれは『ウルトラマンA(72年)』前半の、超獣という創造をも息切れさせた遠因になった。
「11月の傑作群」という俗称が、奇跡的な時間へのリスペクトなのか
第一期ウルトラへの呪縛に縛られた者が一瞬垣間見た夢想なのかは
それは筆者には明確には判別できないが
少なくともこの時期にはハイテンションに融合していた様々な要素が
この後『ウルトラの星光る時』を境に、緊張の糸が切れたように急速な失速を呼び
その根は第二期中盤以降へも、影を落とし続けていくのである。
ウルトラを愛した青年の紡いだ夢と、石堂脚本の生々しさと、山際映像の狂気との
高次元融合コラボレートに対して、怪獣デザインだけが追いつけきれなかったという現実は
ウルトラが一度たどり着いた「超獣」という存在を経て
もう一度「怪獣」へと回帰した『ウルトラマンタロウ(73年)』において
明確な後遺症を発症するのである。
それはこの時期の新マンとタロウを、様々な要素で比較すると明確になるのであるが
一つにはドラマ的な方向性で語るのであれば
この時期の新マンが融合させ過ぎた、異様なまでのハイテンションのもたらす緊張感に対して
児童視聴者層が息苦しさを我慢できないレベルで感じたのではないかという点。
それは(『悪魔と天使の間に…』評論でも述べたが)新マンの視聴率は結果的には
『ウルトラの星光る時』以降の第4クールが、もっとも高かったという数字が証明している。
子どもと大人が本気で拮抗しあえば、もちろん子どもはかなうはずもなく圧倒されるわけで
この新マン時期の、ドラマ・脚本・特撮が三位一体で子どもへ襲い掛かるように放った
「訴えかけるエネルギー」は、幼年児童層には敬遠されたのではないだろうか。
そして、橋本洋二体制が、その「大人の本気の力」を「伝えること」ではなく
「道徳論を教えること」へ注ぐようにシフトさせていった経緯が
第二期ウルトラと呼ばれるシリーズの、大まかな流れであるのだろう。
そこで計算された「子どもに拒絶されないために計算された飴と鞭の周到さ」は
エース後半からタロウ・レオ期までの怪獣構築にも反映されていて
しかしその「怪獣に思い入れの無い大人が思い描く、子どもを怖がらせすぎない怪獣」には
その条件を満たすために、意図的に「生命感」という要素がスポイルされた。
しかし本来そここそが怪獣本来の魅力であり
子どもたちが惹きつけられた核であるという真理に
橋本体制では誰も気づかなかったからこそ、怪獣ブームは終焉を迎えていくのである。
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作者:
更新日:2008年11月21日 0時31分
帰ってきたウルトラマン 34 許されざるいのち
湖を舞台に繰り広げられる、植物と動物の融合が生み出したレオゴンとウルトラマンの死闘。
本話を再現するためには、その湖のセットが不可欠でもあった。
また、湖プールと湖畔というセット構築は
同じ新マンの傑作『呪いの骨神オクスター』でも必須であったので
まずは今回は、実際の水を張る大規模湖セットの構築から取り掛かることにした。
本ブログを楽しみにしてくださってる皆さんには
本ブログが08年の夏から企画した「リベンジプロジェクト」において
『ウルトラ作戦第一号』『湖の秘密』などで既にごらん頂いた湖畔セットであるが
本来はこのエピソードのために制作されたと言っても過言ではない。
というか、まずは本話と『呪いの骨神オクスター』での必要性から湖畔セットを構築して
そのセットが完成したから、せっかくだから初期作品をリメイクしようという
そういった順序で(他の要素ももちろんあったが)リベンジプロジェクトは立ち上がったのである。
そういう意味合いも考えると新規セットは
ある程度はパーマネントセットとして機能しなくてはならない。
サイズと耐久性を考えて、まずはベースは発泡スチロールの積層で築いた。
長方形のスチロールを積層して、湖の部分だけくりぬいて全体の形状を整える。
自然的な地形やシルエットをもたせるために、まずは全体を紙粘土で覆った。
しかし紙粘土では、セットに肝心の水を張った時に溶け出してしまう。
なので表面ディティールを整える意味もあり、地形の表面をセメントでコーティングして
仕上げに、全体に霧吹きで湿らせた上から、セメントの粉を直接振りまいた。
最後に、明度を調整した茶系の塗料で塗装したのが、完成したセットである。
ベースが発泡スチロールとはいえ、紙粘土とセメントのおかげで
最終的には結構な重量級のセットになった(笑)
この窪みの部分に、青色系の入浴剤で色をつけた水を張ったのが、今回のセットである。
実際の演出では、基本的にこのセットで特殊撮影を行いつつ
本編をイメージした、植物細胞などの資料映像で再現していく構成をとった。
「特撮では、水と火が難関」なのは、東宝円谷も筆者も違いはない。
どうしても、そこにスケール感や躍動感が表現しにくいため
今回も、水しぶきの効果を随所に合成で施して、劇中の雰囲気を再現しようと頑張ってみた。
まずはレオゴンの登場。マットジャイロが迎撃しての攻防戦を
移動ブレぼかしや曳光弾、水しぶきやや爆炎などの効果を伴って演出。
劇中でも印象的だった「レオゴンの背中の突起から伸びる、触手のようなツタ」は
筆者のサポートをしてくれる彼女さんが、地元のホームセンターで購入したインテリアグッズ。
筆者が使用した怪獣郷ソフビのレオゴンは
ソフビでツタとマットジャイロが再現されている限定版だったが
さすがにソフビ製では少しリアリティに欠けると、そのパーツは外してソフビを使用。
そのツタパーツが嵌着ではめ込まれていた突起の先端が、ちょうど穴が開いたので
そこへホームセンターのツタを差し込むことで、容易に撮影が行えることになった。
後半戦、ウルトラマンが登場。
湖を舞台に、激しい肉弾戦が繰り広げられる。
どれくらい激しかったかというと、『落日の決闘』インターミッションでも語ったように
今回の撮影の直後に行った『落日の決闘』撮影中に
ウルトラ超合金の新マンの右肘が破損してしまったのだが
多分、直接の原因、破損の引き金になったのは
このとき、演出を最優先してウルトラ超合金を水に漬けまくり
大胆なポーズをさせ過ぎたからではないかと、筆者は推測している(しかし後悔はない(笑))
フィニッシュは、この時期定番だったウルトラブレスレット。
レオゴンソフビは、四肢や背中の突起が嵌着で組みあがっているので
嵌着単位でパーツを外して合成することで、切り刻まれたレオゴンを再現できた。
演出のためなら、ソフビをカッターで切り刻むことに躊躇はない筆者だが(笑)
切り刻まなくてもすむソフビは、やはりありがたいと思ったりするのである。
帰ってきたウルトラマン
http://ameblo.jp/ultra-taiga/entry-10031309664.html
レオゴン
狂気の青年科学者が生み出した、植物と動物が融合した怪獣・レオゴンは
やまなやが雑誌ハイパーホビー誌上限定で発売した
怪獣郷シリーズレオゴン・マットジャイロ捕獲バージョンを撮影に使用した。
怪獣郷ブランドは、他社よりも一歩早く第二期怪獣を商品化したイメージが強く
その造形の安定性や、キャラクターチョイスのセンスなどにおいて
ここ数年で着実に、その評価を高めたといえるだろう。
レトロ風味を加味した怪獣ソフビは、どうしても狭い世界での市場の食い合いになり
ユーザーのペイも限定されている中での縄張り争いになってしまうが
その中で生き残っていくためにはどうしても、怪獣の魅力以外の部分での
そのブランド、メーカー独自の作風やフォーマットが
(インスパイア社のような「統一した作風がない」という独自性も含めて)
必要になってくるのが現状である。
そこで、作風やディフォルメの方向性のコントロールに対して
総合的な指揮官の立場にいる人間が、致命的に無関心なマーミットなどでは
「次にチョイスされる怪獣の名前だけでは
期待してもいい商品になるのかが全く予測できない」という不安を生んでしまうが
怪獣郷の場合はそのフォーマットが明確で安定性も高く
商品予告アナウンスの時点で、商品状態がしっかり予測できるという良メーカーである。
今回の怪獣郷レオゴンも、レトロ風のディフォルメを施してあるものの
その「新マン怪獣独特のりりしい目」なども含めて、ツボはしっかりと再現しており
幼児体型的な口実へ逃げ込むこともせずに、誠意ある造形を楽しむことができる。
筆者が手に入れたのは、一般流通の販売版ではなくハイパーホビー誌上通販版だったので
そのツタや、ツタに絡まったマットジャイロなどは撮影には耐えないレベルだったが
あくまで立体物としてのソフビを嗜むのであれば
これ(限定版のみのツタパーツ)はこれで趣があって良いのではないだろうか。
なぜわざわざ限定版を入手したのかと問われたら、むしろ結果が理由だったわけで
たまたまオークションで出品されていて落札したらこれだったという単純な理由。
むしろ、なぜかレオゴンに限った話でいうと
オークションやショップでは、一般流通版よりもこの限定版の方が目にする機会が多い。
やまなやでは08年には、改めてブルー版を発売するらしいが
レオゴンやこの時期の新マン怪獣が好きなファンであれば
手に入れるのは、今からでも遅くないかもしれない。
今回は、商品状態そのままに、無塗装・無改造で撮影に使用している。
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作者:
更新日:2008年11月21日 0時25分
32 落日の決闘
11月の傑作群 特撮監督が演出したドラマが抱える問題
千束北男
大木 淳
「竜神岳方面の頻発地震は、まだ怪獣の仕業だと決まったわけではない。
深夜になったら我々は、ビハイクルを現地にまわしておく。
それまでにそれぞれ、情報を掴んでおいてくれたまえ。以上!」
「いや、本当に申し訳ございません。いやまったくあの野郎の悪戯には
もう親の私でさえねぇ、あきれ返ってる始末でして……」
「お宅の坊やときたら!任しとけとかなんとか言って
東京じゃ見たこともない、こんな気持ちの悪い虫を一杯入れて!
学校中の笑いものになったんざますのよ!」
「あ……地震」
「あ……来ます、来ます、中くらいの奴がきます。
分かるんです私、霊感って奴ですかねぇ?」
「なんだぁその面は?お前いったい、なんだってこんな悪たれになったんだ?
お前、誰かに何か言われたんじゃないのか?」
「じゃあやっぱり……やっぱり本当なんだね、あの話。
本当のお父ちゃんの話さ。俺の……」
「MAT?すると最近の地鳴りや地震は、あれは怪獣の仕業だって言うのかい?」
「いえ……まだそうと決まったわけじゃないんですが……。
ところで、竜神トンネルの工事は、大変な難工事だったんじゃありませんか?」
「しかしあんときの事故はね、地滑りだったに違いありませんよ。
何しろずーっと雨続きでな、二三日前からちっちゃな地崩れなんかがあったんだが
もー少しで開通するってところで皆張り切っててよ。
そんなとこ、気にするとこじゃなかったんだ。ちょうどあんとき俺ぁ……」
「そうか……お前知ってたのか」
「俺の母ちゃん、それから俺を捨てて東京に行っちゃったんだってね」
「……トンネルん中で、名乗りあった男同士だってことで
お前の父ちゃんは、まだ赤ん坊のお前を引き取ってなぁ……今日まで……。
父ちゃんは、お前がそんなことまで知ってるなんて……」
「そうさ。そこが俺の辛ぇとこなんだよ。な?駐在さん、そう泣くなよ」
「隊長、どうやら間違いないようです。
昨夜から現在までに記録されている震度のカーブは
地震や火山の地鳴りとは、全く特性が違っています」
「うむ、まだ断定は出来ないが、龍神トンネル付近には違いないようだ」
「へぇえ……だいぶ深そうですなぁ。地震で出来たのかなぁ?」
「よし、入ってみよう。奥に何かありそうだ。
駐在さん、一つお願いしますよ。大きなのが来そうだなと思ったら、大声で呼んでください」
「弱ったな……来るぞ!来る!大きいのが!」
「こちら郷!こちら郷!竜神トンネルに怪獣発見!」
「父ちゃん!仇をとってやるぞ!」
「ようし!氷が溶けきらないうちに攻撃しよう」
「いかん!」
「隊長、上野隊員です!」
「やったぁ!やったぁー!」
「隊長!やりましたね!」
「……我々はまだ勝ってない……。奴の心臓はまだ動いている。
奴はまだ生きている。油断するな!」






























































































