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トップ > 初心者向け > 初心者向け - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年11月23日 12時)
たこ焼きネコ



今から十年以上も昔、母が長崎を歩いていて見つけた光景。
たこ焼き屋さんの屋台を覗き込み、様子をうかがうネコ。
と、その様子を見守る仲間ネコ(兄弟親子?)。
まだ写メとかない時代(だったと思います)、母は手持ちのフィルムカメラで撮ったものですが、焼き増しを送ってくれて、私は一目で気に入って、額に入れて飾ってました。
ここのところ、当ブログも生真面目な話題が続いたので、少し息抜きにアップしようと、十数年ぶりに額から出そうとしたら、ガラスに貼り付いてべりべり。一枚はなんとかはがしましたが、一部穴があいてしまい、もう一枚は裂けそうなので途中で断念。仕方なくガラスごしにスキャンしました。
今はこのたこ焼き屋さんもどうしておいでか。
猫たちはもしかしたらすでに天国かもしれませんが、私はいつ見てもつい笑ってしまいます。
たこ焼き屋さんにも、このネコたち、あるいはその子孫たちにも、幸多かれ♪
ではでは。
作者:山本貴嗣
更新日:2008年11月23日 7時50分
「考え方」にも「お試し期間」
ものの考え方(とそれに伴う生き方、あり方)というのは、身体的な技術(スポーツとか武術とか)といっしょで、一朝一夕に身につくものではありません。
聞いただけ、読んだだけで身につくのなら、子どもたちを集めて説教すれば世界は平和になるでしょう。
昔から色んな聖人・賢者と呼ばれる人が、優れたメッセージを残してますが(無論中にはインチキなものもいっぱいありますが)、人それぞれ相性というか、肌に合うものと合わないものがあります。
合わないものを無理やり実践しようとしても、ストレスが溜まって破綻します。
ただ、何かを身に付けるには、一定期間「お試し」で実践してみないことには、結果は出ません。
車で言うなら「テスト走行」です。
「設計図」を見た段階で、こりゃ走らない(どう見ても実生活で使えない)ものは別として、これで本当にそんなスピードが出るのかとか、快適に走行できるのか、といったことは、実際乗って走ってみるしかありません。
どこかの道場に行って練習風景を見て、こんな武術で本当にそんなに強くなれるのか?という疑問は、体験入門でもするか、通ってみないとわかりません。
無論、その前に、そこの先生や生徒の人間性を見るとか、部外者の評判を聞くとか、可能な情報収集や分析はあります。
で、しばらく通ってみたけどどうも納得いかない、でやめるか
それなりに強くはなったんで、もう少し続けてみるか
ここは納得いくんだけど、ここんとこは納得いかない、説明求むみたいな。
どれを選ぶかは人それぞれだと思います。
学生時代友人から聞いた話で、彼の友人がクラスメートからいじめられて、強くなりたくてある道場に見学と言うか入門希望で出かけたら、その道場の先生の友人である別の流派の先生もいて、その先生が
「キミみたいなきゃしゃな人がこの道場に入門したら、とてもついていけなくて体壊すだけだよ。うちに来た方がいいよ」
って言われて、入門するつもりだった道場主さんも賛成して、彼はそっちの道場に通い
強くなっていじめっ子ボコにしたってのがありました。
「生き方」「あり方」も、人それぞれだと思います。
「未成熟なうちに(無理して何かを)手放せば、それはあらたな束縛を生み出すだけ」
人と争ったり、人を憎んだり恨んだりすることも、本当にそれがこりごり、うんざり、もうイヤだと思うまでは、無理に押さえ込んでも長続きせず爆発するだけだと思います(だからって野放しで犯罪に走りましょうとか言う気はないですけど)。だから、ゆるせない人、ゆるせないことも、ゆるせるようになるまでゆるさないでいい。それは別に恥ずかしいことでもないし、ダメなことでもないと思います。
人にはそれぞれの歩幅があって発達段階があります。
ほかの人と比べて、自分の何かが未熟に見えてたとしても、将来のことはわかりません。
生まれたてのライオンの子は、犬でも殺せますが、一年後はどうでしょうか。
だからと言って犬が偉いわけでもライオンが偉いわけでもありません。
それぞれの道があるだけです。
みんなの行く道と別の道でも、それが合っている場合もあります。
効かないので定評のある抗がん剤が、たまたま合って生還された方の手記もあります。
以前もどこかで触れましたが、アフガニスタンで現地の方々のために尽力されていて、先だってスタッフの中のお一人がゲリラ?だかに殺害され(ご冥福をお祈りします)ニュースにもなったペシャワール会の医師、中村哲先生の話を引用します。
「ペシャワールの現地に赴いたとき、「このイスラム社会で、キリスト教徒のあなたがなぜ?」と訊かれたとき、私は答えた。「ヒンズークッシュの山の頂は変わらない。それは誰にとっても同じである。しかしその光景は、眺める方角で異なるし、登り道もちがう」
たいていのイスラム教徒なら、いたく共感して協力を惜しまなかった」
(NHK知るを楽しむ この人この世界「アフガニスタン・命の水を求めて」より)
どの道が合うかは「神のみぞ知る」です(私は、堅苦しいのがイヤなんで「神の味噌汁」って言うんですが)(笑)。
納得のいく道を歩んで、間違ったときは引き返せばいい。
あみだくじじゃないんですから、後退もありです♪色々試しながら進んでおります。
作者:山本貴嗣
更新日:2008年11月21日 5時4分
自分に呪いをかけないで;
最近の日記、ゆるすこととか心をコントロールすること(感情にふりまわされない)について、お読みくださった方のコメントで
「言ってることはわかるけど、自分にはとてもできない。自分はダメだ」
という意味のものがありまして
お、お気持ちはわかりますが、どうか早まらないでくださいと申し上げたくキーに向かいました。
自分で自分の未来を決め付けて「ダメだ」とか「死ぬまで~~だ」とか、どうかおっしゃらないでください。
それは自分で自分に「呪い」をかけるようなものです。
たとえ勘違いのウソでも、毎日毎日そう思って生きていると、潜在意識に刷り込まれ、ウソがホントに思えてきます。
心が萎縮して、自分にブレーキをかけ、自分で自分を檻に入れます。
「なんでもできる」とは言わないでください。人間ですから。
「絶対できない」とも言わないでください。人間ですから。
できるかできないかは、自分で生きてみることでしか結論は出ません。
誰がなんと言おうと、それしかないです。
ちなみに
人が自分で自分に「呪い」をかけるようになるきっかけの最たるものが
他人からかけられた言葉や仕打ちです。
親からおまえはダメだダメだと言われて育った子どもが、自分はそうなんだと思い込んでしまうとか、クラスメートから人格を否定され続けて「自分なんかこの世にいない方がいいんだ」と思い込んでしまう人とか。
子どものころは、冷静で論理的な思考のシステムができていませんから、親や友人、世間の評価が絶対的だと思うのは無理ありませんが、そのうち、それがウソであることに気がつきます。
一つの例は、第二次大戦の終わりと同時に、戦争万歳だったオトナの多くが、平和と民主主義サイコーに一夜にして宗旨替えしたことなど、そのいい例でしょう(そういうオトナを見て人生観が変わったという人、あの時代には少なくないようです)。
人は他人からどんなひどい決めつけを受けても、最終的に自分が同意しない限り、それは効果がありません。
「おまえなんかゴミだ」
と言われて、この人はなにを言っているのかな、どうも機嫌が悪いらしいな、と思うか
そうかオレはゴミなのかと思うか
「同意する書類」に「ハンコを押す」のは自分自身です。どうか「ハンコを押さないで」ください。
あなたの前に、誰かが現れて
「あなたは死ぬまで~~でしょう」
などと言い出したら、インチキ預言者か頭のおかしい人だと思うでしょう(まあ、そう思って、だいたい間違いないと思いますが)。だから同じことを自分で自分になさらないでください。
一寸先は闇
かも知れないし
一寸先は光
かもしれない。
人にはわからない未来のことを、神でも預言者でもない人が決め付けない方がいいと思います(だから私も決め付けません)。いや、たとえあなたの前に、自分は神だとか預言者だとか言う人が現れたとしても、その人の言うことを信じるかどうか、受け入れるかどうか、最終責任はあなたにあります。
私は私の名において私の自己責任で判断し決定します。うかつに「ハンコは押しません」。
あなたがどこまで行けるか、どれほどの力を可能性を秘めた方か、あなたにも誰にもわかりません。
結論は死ぬときまでわかりません。
よく言われる「一生懸命願えばなんでもかなう」とかいった、空手形は申しません。
人には確かに限界があって、身長が足りなくて新弟子検査にパスしないとか、そういう「できないこと」はあります。
でも心の可能性は、深海や宇宙と同じように、まったく未知の部分が大半です。
限界がどこにあったか、証明するのは自分の人生だけです。
どうか自分に「呪い」をかけず、もし過去にかけていたら「ちゃら」にする方向で、過去など気にせず進んでください。
どうしてもやりたいのなら
「呪い」ではなく「祝福」を!
笑う人もいるでしょう。無理だと言う人もいるでしょう。私もずいぶん言われてきました。
でも自分の思う道を行くだけです。
行ってください。
誰かの思うことでなく、あなたの思う人生を。
「笑う人は笑わせておけばいいわ
人生は短くて忙しいの」
(中島みゆき『夢見る勇気(ちから)』)
作者:山本貴嗣
更新日:2008年11月20日 18時23分
おめえに費やす○○・コメント御礼
仕事に追われ、なかなか更新ままならず;
申し訳ありません。
先日の日記おめえに費やす○○はねえ!に、たくさんのコメントをいただきありがとうございます。公開コメント以外にも、「拍手コメント」含め非公開でのコメントをいくつかいただきました。ふだんより多い量で驚いております。
この問題について、悩んでこられた方の多さ・・・と言うより、人生で一度も悩まなかった方はむしろ少数派なのではないでしょうか。
私も元来気性の激しい人間でしたもので、若いころから何度も悩んでまいりました。
先日の日記のような心境になったのは、本当にごくごく近年、40代も後半に入ってのことです。
子どものころ~若いころは、当然と言うか、許せないと思った相手に、どう思い知らせてやろうか、あんなやつはひどい目に逢えばいい、などなど、ろくでもない考えがぐるぐる心の中を駆け巡っていました。
歳が進むと、多少の分別が身につくのと体力が低下するのとがミックスして(憎むのも体力がいります)(笑)若いころほど、自分を傷つけた相手を憎むことはなくなりましたが、今度は、どっちが正しかったのか、なぜこういう対立が生まれたのか、その判定を巡ってぐるぐるしました。
相手を憎んだり、相手の不幸を願うのは自分の身上に反するし、自分のためにも人のためにもならない。でもどうしても許せない。
そうなると、アクセルを踏みながらブレーキをかけている自動車のようなもので、二つの相反する力にはさまれて、素直に憎悪していたころより、ある意味ストレスは増加します。
相手も許せない、許せないと言う自分も許せない。
ほとんど一人SMですね(笑)。
結論から言うと、一番いいのは「ゆるす」ことなんですが
そんな理屈どおりに行くなら苦労はしません。
昔から色んな賢者・聖人が、道徳や宗教を通して「ゆるしましょう」と説いています。
でも、そう言われて思うのは
なぜ。傷つけられた自分が(悪くもない自分が)、なお、この上譲歩しなければいけないのか。
相手にゆずって許さなければいけないのか。
そんな理屈に合わない話はない。
でも、本当に自分は正しいのか。相手が間違っていて自分が正義なのか。
その辺を冷静に分析判断できる人間はほとんどいないと思います。
明らかないじめや虐待、犯罪行為の被害者は別として、日常の人間関係のトラブルの大半は、それぞれの常識や解釈の食い違い、ボタンの掛け違い、ちょっとした対立が毎日少しずつ積み重なって積立貯金のように膨れ上がったあげく、ある日がまんが限界に達してのブチキレだったりします。
結局、人は自分が一番かわいいですから(私もです)自分に都合のいい証拠を都合のいい解釈で「被告人不在」の「欠席裁判」で裁いてしまって、自分に有利な「判決」を下す(憎い相手を「有罪」にする)だけです。
自分自身が誰かにそういう目に合わされて悲しい思いをした人は、これまたいっぱいおいでなのではないでしょうか。
じゃあ、せめて自分は誰かに同じことをしないでおこう。
いや、とことん冷静に分析しても相手に非があるのかもしれないけど、感情的になってる今はひとまず置こうと。
前回も書いたとおり、傷つけられた瞬間の痛みよりも、はるかに人を苦しめるのは、そのあとのエンドレスで繰り返される心の中のぐるぐるです。
人は、一回犯した過ちに対しては、一回裁かれ、一回謝罪し罪を償えばいいはずですが
多くの人が、一回犯した過ちに対して何度も何度も他人を裁き、何度も何度も痛めつけ、何度も何度も償わせようとします。そんな理不尽な話はありません。
実際の社会や生活の中でもそうですし、心の中ででもそうです。
個人レベルの問題でもそうですし、集団、国家のレベルでもあります。
ここでは物理的法的な問題ではなく、あくまで心の中での問題について書いています。
ゆるすと言うのは相手の無法を放置するとか自虐のススメではけしてありません。
心の中で相手を痛めつけるのは、その瞬間はある種のうさ晴らしにもなりますが、長い目で見ると結局自分を痛めつけることになります。
何しろ現実の相手にはダメージがないんですから、「夢」からさめるたびにフラストレーションを感じる。何度同じことをしても賽の河原、見果てぬ夢です。
難しい話はすっとばして、ちょっと視点を変えて見てみますと
誰かとの人間関係で疲れ傷ついた人に向かって
「これからあなたは毎日決められた時間、あなたを傷つけた相手のことを考えて暗い気分にならなくてはいけません。怒って憎んで悲しんで、その間はほかのことを考えたり楽しんだりしてはいけません。そうですね、とりあえず毎日○時間必ずそうしてください。できれば半年、いや最低○年は続けてもらいましょう。おいしいものを飲んだり食べたり、何か楽しいことが始まりそうなときには必ずそれを考えて、気分が悪くなるようにしてください。いいですね」
という人物が現れたらどうでしょう。
まず100人が100人、ふざけるな、冗談じゃない、何の権利があって私にそんなことを命令するんだと怒りだすでしょう。
多くの人が自分に対して行っているのは、これと同じことだと思います。
それを止められるのは自分だけです。
私は自分にふりかかるできごと、自分以外の何かを変える力はないかもしれないけれど、自分の思いは自分で変える。
私はあちらを選ばない。私はこちらを選んで生きる。
そう思うことだと思います。
人をゆるすのは素敵なことですが、ゆるせない相手は無理にゆるすことはないし、無理をすればまた、新たな怒りや悲しみが生まれます。
ゆるせない自分への怒り、自分にできないこと(「ゆるせないこと」を「ゆるさなくてはいけない」)を自分に押し付けた「人」や「教え」への怒り。罪悪感とか絶望とかetc・・・;
だからできる範囲で努力して、あとは
熟した木の実がふくらんで、自然に枝から落ちるように
ある日ゆるせるようになっていた自分に気づけばいい。
それまでは、ゆるせないことはゆるせないでほっておく。
でも、そのことに私の「思い」は使わない。
「おめえに費やす感情はねえ!」
で、ひとまずスルーしていくのも手ではないかと思います。
蛇足ですが、昔私がどうしてもハラにすえかね、ケンカ別れではないけれど、それに近い殺伐とした絶縁に至った人がいて、私は飯を食うたびにその人のことを思い出し、ムカついて仕方がありませんでした。
当然おいしさも半減です。
食事は人生の大きな楽しみの一つですから、それを奪われるのは大変な苦痛です。
仏教説話に、食べ物を食べようとするとそれが燃え上がって食べられない地獄なんてのがあったように思いますが、これってある意味それに近いなって、悲しくなっていました。
そんなことが何日も何十日も続いたある日、つまのおいしい手料理を食べていて
「ああ、うまいなあ、これをあの人といっしょに分け合って食べられたら楽しいだろうなあ」
という思いが、突然心に浮かびました。
そしたらなんだか涙がぽろぽろこぼれてきて
「ああ、自分は本当は憎んだり恨んだりしたいんじゃない。ただわかり合いたかっただけなんだ。
本当は仲良く、笑ってともに在りたいだけなんだ」
って気がつきました。
食事のことはただその象徴に過ぎず、心の底を気づかせてくれるきっかけでした。
それを境に、なんだか恨みも怒りも手放して、その人のことで思い悩むことは、風の前に置かれた灰の山のように、消えてなくなっていきました。
もしどこかで再会することがあっても、今は笑って会食できると思います(笑)。
そのことは自分が今のような考えに至る大きなきっかけにもなりました。
だから、私の思い悩んだ日々はけして無駄ではなかったし、そういう機会を与えてくれたその人にもありがとうと思っています。
これを読んでくださっておいでの皆様の、今が、きょうが豊かでありますように。
今あるすべてを十全に活かせますように。
出来る限り多くのの機会を、無駄に捨てることなく、よりよく使うことができますように。
良い追い風が吹きますように。
よしんば逆風であっても、それを斜めに帆に受けて、風上に向かって前進してゆくヨットのように、
めげすに進んでいけますように。
休むべきときには休む勇気と、進むべきときには進む勇気と
その判断ができる英知が宿りますように。
ありがとうございました。
ではではまた♪
作者:山本貴嗣
更新日:2008年11月18日 8時7分
おめえに費やす○○はねえ!
前回、感情と意思の話で日記書きましたが
きょうブログ見てたら、知り合いの漫画家さんが仕事してたマイナーな出版社が、原稿料未払いのままトンズラ(倒産か)したみたいで
メゲてらっしゃいました(そりゃメゲるよ!)。
一か月分の生活費くらいにはなる原稿料踏み倒されたみたいで
なんとお慰めしたらよいか。
電話もFAXも通じない、ホームページも消えてる。
完全に逃げたな、と。
私も昔マイナーな出版社でそういうことされたことがあります。
そりゃハラもたちますし、悲しい悔しい、金銭的にも大変です。
でも
ここで本当に大変ですぐに変えられないのは金銭問題で、感情問題は自分の気持ちや考え方次第です。
無理して「いい子」になって、湧き上がる思いを「抑圧」すると、一時的にはいいんですが、長期的に見るとその「抑圧」した感情が身体的な変調(時には痛みや、ホルモンなんかのバランスを崩したり)を起こしたり、精神状態も悪くするので、あくまで可能な範囲で調整することが肝心なんですが
一つ言えるのは、感情も自分の貴重な資源、財産です。
うまく活かせば、建設的な行動を起こす「燃料」にもなるし、逆に翻弄されると考えもまとまらない、行動も支離滅裂、あとで後悔するはめになります。
んで
「あいつのこと赦せない」
とか
「がまんできない」
と思うのは仕方ないとして、その感情が暴走してどうにも止まらなくなり、次の手を考える余裕が無いとか、何も手がつかない状態になられた方に、山本流アドバイス(珍しくセッキョじみたこと書きますが、けしてセッキョじゃなく、実体験からの提案ですので、お許しください)。
その人物がどうしようもなくひどい人だったとして、すでにあなたは十分「被害」を受けていられるわけですよね。
で、その人物のために心が捉われて、大切な「今」を失い、食いつぶされるというのは、実際に発生した被害以降も、新たな被害が拡大再生産されている状態です。
それはもったいないし、悲劇です。
これを止められるのは、自分だけ。
そのひどい人物のために、何かを(もっぱらネガティブな感情になるわけですが)思い続け、ほかのことが出来ないというのは、言って見れば自分の時間と財産をそのひどい人物のために捧げているのと同じことです。
いったいなんのために、そんな人の奴隷になる必要があるのでしょうか。
もうあなたは十分に、そいつのために貴重な時間と労力を奪われてきたはず。
でも、あんなやつは赦せない
なら、無理に赦す必要はありません。
ただ、そんな人物のために、自分の貴重な時間も感情ももう一ミリだって一グラムだって差し出すものかという断固たる決意があればいいだけです。
自分は自分の感情も思考も、よりよい未来と幸せのためにだけ使う。
そんなやつのためにはもう何も差し出さない。
そう思うのも手です。
昔
「おめえに食わせる○○はねえ!」
ってフレーズがはやりましたが
「おめえに費やす感情はねえ!」
そう思ってみられてはいかがでしょうか。
私は自分と自分の愛する人と、大切な未来や幸せのために、大切な感情はとっておくのだ、と。
自分の心も感情も、かけがえのない大切なものだから、くだらないものために浪費するような余分はないと。
苦労して稼いだお金は血の一滴に等しいと言いますが、感情もまた血の一滴です。どうか大切に使ってください。
というわけで
誰かにムカついてそれがぐるぐるして困ったら
「おめえに費やす感情はねえ!」
山本の提案でございます;失礼しました~~;
追記
そういえば、私の友人のお坊さんで、どうしてもハラたったときは、無理せず怒るという方がおいでです。
時間を区切ってその間だけフルスイングで素直に怒る。
んで
「うーん、きょうは気持ちよく怒ったぞ~~!」
って、気持ちを切り替えて仕事にかかるという。
そういうのもまたありですねー♪
作者:山本貴嗣
更新日:2008年11月14日 2時22分