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人間中心設計プロセスでの具体的なデザインへの落とし込みの技術に関する理解不足について
今日はちょっとショックなことがありました。
昔、僕がペルソナとシナリオを用いて要件を定義したWebサイトがようやくリニューアルされて公開されていたのを見つけたんですけど、こりゃ、ペルソナやシナリオを使ってモデル化したことがほとんど設計に反映されてないなと感じたからです。
ペルソナを用いるゴールダイレクテッドデザインのメリットは、利用者のゴールとコンテキストを理解し、また利用者の脳内モデルを把握することで、利用者の使いやすいデザインを実現することですが、今日見たサイトは、機能要件/コンテンツ要件のレベルはユーザーの要求は満たしているものの(それは僕がやったのでできてないとおかしい)、情報構造化や構造を具現化する視覚表現のレベルではまったくユーザー要求を考慮したものとは思えないものになっていました。
UIってのは利用者の脳内モデルにどれだけあわせられるかが1つ評価のポイントだと思いますけど、それが見事に実装モデル(いわばHTMLの文書構造からくる論理のまんま。もちろん、文書構造そのものがユーザーの脳内モデルを反映していればよいのですが、とうぜん、そうはなっておらず・・・。このへんは利用するユーザー視点からみてコンテキスチュアルな意味でセマンティックにしていくべきですね)になってしまっているのが、一番ダメだなと感じたところです。
ユーザーのメンタルモデルとデザインのモデルを合わせることの重要性はノーマンが昔から言ってることなんですけどねー。どうしてもモノそのものの構造そのままをデザインにもむき出しで見せてしまう傾向がなくなりませんよね。うわべだけ視覚表現をかぶせてみてもダメなんですよーと言いたい。構造からちゃんとユーザーの脳内モデルをベースにして設計しないといくら表面だけ取り繕ってもダメなんですって。
続・ペルソナ作って、それからどうするの?
今日のことだけでなく、最近本当によく感じるのは、ペルソナ作って、それからどうするの?ということです。言い方を変えると、シナリオベースドデザイン、ゴールダイレクテッドデザインといったデザインのメソッドを本当の意味で、インフォメーション・アーキテクチャやインタラクションデザインやビジュアルデザインに落とし込む方法がほとんど理解されていないんだなということです。
その意味では『ペルソナ作って、それからどうするの?』を書いた際には、さすがにそのあたりは普通に理解されていて、いまさら僕が説明するまでもないだろうと思って書かなかった部分が、実際には理解もされていないし、とうぜん、実行できない状態なのだなということが最近になってしみじみとよくわかってきました。
これは続編か、その部分を追加した版でも出さないとダメ?とか考えてしまいます(いや、本当に書く気はありませんけどw)。
ペルソナを作ったあとのデザインプロセス
その点、やっぱりアランクーパーの『About Face3』はそのあたりも当然きちんと押さえていて、よくできた本だなと思います(続編を書かないのはこの本があるから)。例えば、ユーザー調査を行ってペルソナによってユーザーモデリングができたあとのプロセスを紹介しておくと、こんな感じで書かれています(表現などは僕が適当に変えたりしてますので、実際のものは本で確かめてみてください)。
- シナリオによる要件定義
- デザインの問題とヴィジョンを明確にする
- 偏見をなくすためアイデアの量を追求したブレインストーミングを行う
- ペルソナの頭のなかのモデルを明確にする
- ペルソナの利用シーン、利用パターンを描いたコンテキストシナリオを作成する
- シナリオから要件(データ要件、機能要件)を抽出する
- デザイン・フレームワークの設定
- 製品のGUI特性を理解する
- 機能要素とデータ要素を定義する(要件の要素への翻訳)
- 要素のグループと階層構造を決める
- UIのフレームワークをスケッチする
- 主要な導線のインタラクションシナリオを書く
- チェックシナリオでデザインに問題点がないかを確認する
- ビジュアルインターフェイスデザイン
- インターフェイス要素をグループにまとめ、階層構造を作る
- 視覚的な構造と流れを明確にする
- 凝縮力、一貫性、コンテキストに配慮し、使用するイメージを決める
- 目的をはっきりさせてスタイルと機能を統合する
- 視覚的なノイズや混乱を避ける
まぁ、このプロセスだけじゃ、なんだかわからないと思いますが、すくなくともこういうレベルでデザインのメソッドがきちんと体系化されているわけです。まぁ、思いきり細部を端折って図示するなら、『ペルソナ作って~』にも使った、こんなイメージになります。

ここにプロセスをわざわざ挙げたのは、これですこしはこういうことに興味を持ってくれる人が増えてくれればという甘い期待から。本当はもうちょっと自分で興味を持ってもらえるようなことを書ければいいんですけど、ここ最近はあんまりブログを書く余裕もないので、今日のところはこのくらいで勘弁してもらおうと思ってます(師走ですから)。
「設計による解決案の作成」のステップの弱さ
なんとなく誤解されてる気がしますが、別になんとなくペルソナ作って、ユーザーってこんな人なんだ、わーい!っていうのがペルソナの使い方じゃないんですよね。ユーザーのどの部分を重点的に理解しないと、要件の定義もできないし、データ要素や機能要素のリストアップもできない、ましてや要素を構造化して、視覚表現や振る舞いのデザインに落とし込めないのかが、ユーザー調査やペルソナを作成している時点である程度イメージできていなければ、ペルソナをつくってもあとのデザイン作業にはつながらないはずです。でも、ちゃんとプロセス全体を理解して使えば、製品の要件、それを具体化したデザイン要素、要素の構造化と視覚化、ユーザーと製品のあいだでどのようなインタラクションが発生するかまで、きちんと落とし込んでいけるのがゴールダイレクテッドデザインです。それにいまのところ、この方法以上にユーザーにマッチしたインタラクティブ製品のデザインの方法ってないんじゃないかと思うんですよね(しかも、僕が『ペルソナ作って~』で提示したプロセスなら、さらにContextual Designの方法も融合してるのでまさに怖いものなし!なんていうのは手前味噌w)。
こういう基本をきちんと身につけないから、アップルのような製品をデザインすることができないんじゃないかな。もちろん、要因はそれだけじゃないと思いますけど、日本のインタラクションデザインの技術がひどく見劣りするのは、やっぱり人間中心設計プロセスでの「設計による解決案の作成」のステップで、その前の「ユーザーと組織の要求事項の明示」のステップからの具体化のメソッドがちゃんと理解されていないことが大きいのかなと思います。そこの部分は地味で一番大変な作業で根気もいりますが本当は一番おもしろいところなんですけどね。シナリオ、情報構造、スケッチ(あるいはペーパープロト)を何度も行き来しながら、ユーザーのコンテキストにあった形を探っていく作業って、じっくりやればちゃんとした解決策が見いだせる一番楽しい作業だと思うんだけどな。みんな、手を動かしたり、いろいろ自分でアイデア出しながら組み立てるのが嫌いなんですかね?
なんか最近は自分でそこもやろうかなという気になってきています。こんだけこのステップを担う人材が不足してるのを目の当たりにすると、そう考えたくなります。たぶん、そここそ僕が本当に得意なところなんだろうし。誰か試しにちょっとやらせてみません?なんてw
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年12月2日 23時3分
道具の用途は生活や仕事のなかに埋め込まれている
ユーザーが道具を利用する用途は、普段の生活や仕事のなかに埋め込まれています。

多くの製品は生活や仕事で使われる道具です。
生活や仕事のうえで様々な役割(母親、プロジェクトリーダー、飲み会の幹事、etc.)を担う人びとが、それぞれの役割に応じた作業・仕事を行うために用いるものが道具です。
ある意味、人間は生活の場、仕事の場で、特定の役割を担うことで社会的な生き物として存在を認められます(つまり赤の他人にも理解できるようになる)。それぞれの役割には、役割に応じた作業が義務付けられています。その義務をこなすことができなければ、場合によっては、その役割としては失格の烙印をおされかねません。
失格の烙印をまぬがれるためにも、自分に与えられた役割を全うするためにも、人は自分に割り当てられた作業を完遂できるよう、作業のある部分を道具にたよるのです。
ですから、道具の価値は、それを使う人びとの生活や仕事のスタイル、生活環境・仕事の環境における役割、その役割に求められる作業・仕事、それを行う際の作業手順とその手順のなかで具体的に求められる効用といった、一連のつながりのなかに存在していると考えることができます。
その意味で、道具の価値を高めるための要件を決めるためには、ユーザーがどんな社会的文脈においてどんな役割を担っていて、その役割に課せられた作業において具体的にどのような目標の達成が必要とされているかを知ることは、とても重要なことなのです。人間中心設計プロセスで利用コンテキスト("Context of use")が重視されるのもそのためです。
たとえば、鍋
もうすこし、この道具に求められる要件とユーザーの役割の関係を考えてみましょう。たとえば、鍋。
鍋は食材に火を通し味付けをして食すという生活スタイルのなかで生じる用途に対応した道具です。火を通すのも煮たり蒸したりという調理法に紐づいていて、食材を焼いて食べるだけであれば深さのある鍋は必要となりません。
また、毎日子供たちやご主人のために料理をする奥さんにとっては用途のある製品ですが、ほとんど料理をつくったことがない旦那さんにとっては無用のものだったりします。仮に、その旦那さんが突然思いついて料理をしてみようと考えた際にも、鍋に求められる要件は奥さんが使う場合にそれに求められるものとは大きく違っているはずです。
(ちなみになぜ鍋の例を出してるかというと、煮物をしてるのを忘れて鍋を焦がしてしまったのがショックだからです)
たとえば、メール
同じように電子メールは、プライベートで友人や家族と連絡を取り合ったり、仕事上のやりとりを行ったりするために用いられますが、それはそうしたライフスタイル、ワークスタイルが一般に定着したからこそ、メールの利用用途として存在するものと捉えることができるでしょう。生活や仕事のなかに用途が結びつかない製品はなかなか利用してもらえません。家族への帰宅時間などの連絡、友人との待ち合わせ、取引先や社内に向けての仕事上のやりとりなど、いまでこそメールがなければ成り立たないものですが、かつてはメールがない状況でも待ち合わせや仕事ができていた時代があったのです。いまではどうやっていたのか想像するのもむずかしいですが。
この場合は新しい製品・機能が新しい用途を生み出し、人びとの生活や仕事の仕方を変化させたのです。
利用コンテキストを把握してユーザー像をモデル化する
ユーザーの生活や仕事上の用途から製品の要件が決まることもあれば、新しく登場した製品が人びとの生活や仕事のスタイルを変化させ新たな用途を生み出すこともあります。前者がニーズドリブンなアプローチなら、後者はシーズドリブンなアプローチといえます。これは別にどっちがいいとかそういうことではなくて、いずれの方法もありえるということです。いずれにせよ、どちらのアプローチからはじめるにしても、最終的に製品はその用途を介して人びとの生活や仕事に結びつくことが、ユーザビリティの第1の条件でもある有効さを満たすためには必要なことなのです。
それには、ユーザーの利用におけるコンテキストを理解するために、以下の項目をユーザー調査を通じて知っておくことが必要です。
- 生活や仕事における役割
- 製品を利用する際の具体的な作業内容(具体的な利用の目的)
- 製品に期待する効果(利用に際しての最終的な目標)
- 製品に期待する品質、パフォーマンス(利用に際しての副次的な目標)
- 製品を利用する物理的な環境、人間関係や組織のルールなどの文化的環境
- 製品を利用する際に併用するツール(関連製品)、あるいは代替品として利用されるツール(競合製品)
- ユーザーの製品カテゴリーに関する知識、習熟度
- 製品利用に際しての好みや考え方
こうした項目を調査を通じて理解したうえで、ユーザー像をモデル化するためにペルソナを作成するのです(いちおしつこく書いておくとペルソナ法ではなくゴールダイレクテッドデザイン)。
特にペルソナを描く際には、ユーザーのゴールと役割はきちんと押さえておかなくてはいけない項目です。役割をおさえる必要がある理由はここまで述べてきたとおりですね。
ゴールに関しては「ユーザーの3つのゴール」でも書いたとおり、必ずしも役割上与えられた作業を完遂できることだけがゴールではありません。その作業を快適に行えるようにすることや、その道具を使って作業をすることが嬉しくなるといったこともゴールに含まれます。自己表現というゴールは、まさにユーザー自身が自分に与えた役割を自分自身がこなせるようになることだと捉えることも可能でしょう。
このあたりはまさに「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」でも紹介した柳宗悦さんのいう「用の美」に通じます。用途とは必ずしも作業を完遂するための機能を指すだけではなく、使うことの悦び、物自体への愛着も含めたうえでの用途だと考えたほうがよいでしょう。このあたりもユーザー調査を通じて洞察を得られるとベストです。
利用コンテキストを盛り込んだシナリオを使ってデザインする
ユーザー調査を経て知りえた情報は、ユーザー像のモデリングのために利用できるだけでなく、ユーザーが実際にどのように製品を使うのかを考える際の、利用コンテキストを描くコンテキストシナリオ、具体的な製品とのインタラクションを描くキーパスシナリオを作成する際にも参考になります。調査で実際のユーザーの作業プロセスや作業で併用するほかの道具や作業環境などが把握できていれば、どんな要件が道具を設計する際に必要かが見えてきます。
シナリオを書く意義は、まさにユーザーの利用コンテキストのなかで製品の振る舞い(インタラクション)のデザインを位置づけることが可能になることです。実際にユーザーの役割になったつもりでロールプレイングしながらシナリオを描くことで、デザインしているものがユーザーの要求を満たしているか、ユーザーを確実にゴールにたどり着けるよう導けているかを評価することもできます。
これをユーザーが登場しない状況で機能のデザインのみをしても、結局それは実際の生活や仕事のなかでの利用コンテキストにはなかなか当てはまらず、せっかくつくっても使われなかったり、使いにくいと不評がユーザーから漏れたりという結果になる確率は高くなってしまうでしょう。
社会というシステム全体で捉える視点
以前に「ユーザーの生活や思考を知ることからデザインをはじめる」というエントリーも書きましたが、利用者の社会的役割やそれにともなう作業が生活や仕事のなかに埋め込まれたものである以上、その中で用いられる道具もまた利用者の生活や仕事の文脈のなかで捉えなくていけないのは、むしろ当たり前のことなんだと思います。いってみれば、道具、それを使う用途、その用途を含むユーザーの作業、そして、そのユーザーがその作業を行わなくてはならない背景としての役割、さらにユーザーにその役割を与える社会といったもの全体を含めてひとつのシステムとして捉える視点が必要なんでしょう(この視点にたてば、なぜハーバート・サイモンがデザイン論を扱った書籍が日本語タイトルで『システムの科学(原題:"The Science of the Artificial")』となっているかも頷けます)。デザインすべき道具はその一部だと捉えれば、システムのなかでどう機能すべきかを考えることは当然で、それには道具と関連して機能するユーザーという別の機能についても把握できていなければ互換性が十分に保てないのも当然でしょう。
そうした全体的な発想ができ、その発想を最終的な形に結実させられるところまで持っていけることこそが「デザイン・シンキング」なのでしょう。そして、そのように人びとの生活や仕事のなかでデザインをすることでこそ、道具に対する人びとの愛情を喚起できるような、愛情あるものづくりができるのではないでしょうか。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月27日 22時50分
愛情とは
古代においては、魂の授受が恋愛の出発点であり、根拠であったそうです。
古代の人びとにとって愛情とは何であったろうか。愛情とは、まずたがいに霊の往来が可能であることであった。それで人びとは自己の霊を相手に与え、また相手の霊をわが身によりそえるという表現をもって愛情を確かめあった。白川静『詩経―中国の古代歌謡』
これって現代の愛情の定義よりよっぽどはっきりしてますね。w

物と愛情
では、どうやって古代の人は霊をたがいに往来させていたのか? たがいの魂の授受を行っていたのでしょう。これが意外とはっきりしているんです。
魂の授受といっても、魂はもと形なきものである。しかし古代の人びとは魂を物によって象徴することができた。わが国では玉が魂と同音であることからも知られるように、珠は魂の象徴であった。白川静『詩経―中国の古代歌謡』
これが真珠のような珠のこともあれば、勾玉のようなものの場合もあります。また、玉の形をした果物のような場合もあったそうです。
女性が男性に対して果物を投げ(投果)、男性がその返報として身につけた珠を返したそうです。もちろん、ただのお返しではなく、末長い愛情のしるしとしてです。とうぜん、その気持ちがなければ返答はしませんでした。
これって今でも大事な人にプレゼントをすること、大事な人からもらったものは大切にしたいと思う気持ちにも通じます。物に対して愛情に感じるというのは実はとても人間的なことなのかなと思います。
認知プロセスと愛情
また大切な人にもらったものではなく、自分で買ったものでも、物は使うことで愛着が増してきます。買った時や使っている際に何か特別なエピソードが絡めば、さらに愛着は増したりもします。すこしまえに紹介した『工藝の道』でも柳宗悦さんがこんなことを書いています。
「手ずれ」とか、「使いこみ」とか、「なれ」とか、これがいかに器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。まだ務めをも果たしておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくない。
先の書評エントリーでも触れましたが、この『工藝の道』で柳宗悦さんが書いていることって実は、ドナルド・A・ノーマンが『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』のなかで書いていることに非常に近いものをもっているんですね。
例えば、上の引用部に近い言葉もすぐに見つかります。
製品のデザインは目標を誤っていることが多い。一定の仕様に添ってモノが構成され作られるが、多くのユーザーは見当違いだと気づく。購入した既製品は、かなり満足に近いところまではいっているかもしれないにしても、ニーズにピッタリくることは少ない。幸いなことに、我々は別々の品物を自由に買って、自分にとってちょうどうまく機能するようにそれらを組み合わせることもできる。自分の部屋は自分のライフスタイルに合っている。自分の持ち物が個性を反映しているのだ。
「ユーザーの3つのゴール」というエントリーでも触れたとおり、ノーマンはこの『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』で、人間の認知的プロセスを3つのレベルに分けたうえで、そのプロセスそれぞれに対応したデザインスタイルが必要であることを述べています。
このうちの行動的レベルの認知プロセスが人間の日常的行動において中核をなすものであり、かつ他の2つのレベル(本能的レベル、内省的レベル)に影響を与えます。行動的レベルの認知は、特定の物とのインタラクションが重ねられればられるほど、深くなっていく性質をもっています。柳さんのいう「手ずれ」や「使いこみ」や「なれ」は、そういった行動的レベルの認知だと考えていいはずです。
ものづくりと愛情
そうした行動的レベルでの認知の変化が物への愛着へとつながっていく場合がある。今日のユニヴァーサル・デザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしますが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間の交流を薄くします。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします。ガラスは落とすと割れるからこそ、人はていねいにあつかいます。そして、人はものに愛着を感じることになります。自転車は練習しなければ乗れません。しかしそれを達成したときの喜びは大きいものです。そうした経験こそ、人とものとの触れ合いになるのです。
「使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします」。そうそう。これが普通のデザインであってほしい。人が価値を感じる魅力をもち、かつ丁寧に大切に使いたいと思う魅力をもっていてほしいです。
ここで内田繁さんがいう経験こそが行動的レベルでの認知に大きく関わるものです。もちろん、経験には内省的レベルに影響を与えるエピソードをあわせもつものもあるでしょう。
大事な人にプレゼントされたという経験が物への愛情をより高めることがあるのはすでに述べたとおりです。さらにプレゼントされたものを大切に使えば使うほど、物への愛着はより高まります。ただし、ここでは注意が必要です。プレゼントされたものが大切に使って味わい深くなるようなものではなく、すぐに飽きてしまうようなものだったり、使いこむことで味わいよりも汚れが目立つようなものであったりすれば、せっかくの大事な人からもらった愛情も半減してしまうのではないでしょうか。いまのものづくりはそこまで配慮されているでしょうか。
そうした物はたがいに惹かれあう男女の魂の授受には向いていません。でも、いまつくられている物の多くは買ったばかりのころは新しくてピカピカしていても使っているうちに薄汚れてきて使いたくなくなるものが多くないでしょうか?
ものづくりの場に神は宿っているか?
田中優子さんは『江戸はネットワーク』のなかで、江戸期の俳諧連句や歌舞伎などの芝居における座では必ず神棚に神を祭ったことを紹介してくれています。連句の座が神霊の世界に根を張っていることと、芝居もまたそのような性質をもっていることとは、単なる偶然の一致ではない。おそらく、連によって成立しているほとんどのジャンルが、それぞれの神との関係で成り立っているにちがいないのだ。ちなみに、これは個々人の信仰や意識の問題ではなく、文化の枠組の問題である。
俳諧連句にしても歌舞伎にしても、元を辿れば、古代の歌謡や歌舞に通じます。それらは元々神に奉納するものとして祭祀の場で詠われ舞われたものです。江戸期に至ってもそこに神棚があるのは不思議ではありません。
それだけでなく、そうした神への祭祀は、農事やものづくりとも結びつくものだったのです。ものづくりは最初から神とともにあり、物には神や霊が宿ったのです。そうした物に自らの愛情を託し、愛する者との魂の授受の依り代として用いたのは、行動的レベルを中核に、3つのレベルの認知プロセスを通じて物と関わっている人間にとっては、とうぜんのことだったのかもしれません。
そう考えると、物と愛情、認知と愛情、ものづくりと愛情の関係に関しては、古代を生きた人々より現代に生きる僕らのほうがはるかに鈍感なのかもしれません。人の認知そのものに関しても、いまのものづくりの現場のほうが古代から近世にかけての現場よりもはるかに理解できていないんじゃないかと思ってしまいます。
いま、ものづくりの現場に神は宿っているでしょうか? 神が不在の場でつくられたものに人は愛着を感じることができるのでしょうか?
愛情、愛着の感じられない物ばかりつくるのではなく、使うことで愛着を増すような物をつくれる感覚をいまの僕らも取り戻せればいいなと思います。
関連エントリー
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- エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために/ドナルド・A・ノーマン
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作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月25日 22時39分
疑うためにはまずは信じないと
いったんは信じてみないと疑うこともできませんよ。
白川静本人のスゴさは認めるけど、その業績すべてを妄信するのは危険。今から業績再評価が始まるんじゃない?
わからなくはないですが、でも、本当に業績再評価がはじまると思うなら、まず自分が率先してはじめなきゃいけないと思うんです。業績再評価を他人任せにしていても、いつまで経っても埒はあかないと思います(それはあとで説明)。
自分で再評価をはじめるには、最初から疑ってかかるよりはとりあえずその人が言っていることをまずはそのまま理解して、信じてみて、その上で自分でどこがおかしいかを考えていくのが正解なんじゃないかと僕は思います。
なので、最近の白川静さん関連エントリーは僕なりの「業績再評価」でもある。基本、僕のスタンスはとりあえずその人の言うことに従う。そして、それを信じていろいろ展開するなかで、矛盾が出はじめたら、それがその人の論の限界かどうかをあらためて問う。そうやって検証したほうが自分に納得がいく評価になると思うからです。
他人事じゃない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけない
結局、他人の評価を待っていても、それが役に立つかどうかはかなりあやしいと思うんですね。というのも、仮に誰かが白川さんの業績を再評価したとしますよね。じゃあ、その評価自体が信じるに足るかはいったい誰が評価するのでしょうか。そう考えると、結局、どこかの時点で自分自身が評価を下さないといけないときがまわってくるんです。もちろん、そのためには評価を行えるだけの準備が自分自身にできていないといけません。であれば、僕なら最初から他人の評価を待つより、同時に自分でも評価の準備をはじめます。そのほうが手っ取り早いので。
それとも、最後まで自分自身での評価は回避して、多数決的におおぜいの意見を集約して、それで判断しますか?
寄合と呼ばれる村の会議は、全員一致の結論に達するまで何日も話し合ったことが、歴史や民俗学の資料でわかっている。多数決という方法は村にとっては、どうしても全員一致の意見に達することのできないときに取られた「いたしかたない方法」であって、決してほめられる事態ではないのである。
多数決というのはある意味では自分の力で判断することができない人たちが集まった場合の「いたしかたない方法」だと考えたほうがいいと思います。やはり白川静さん自身がそうしたように自分が疑問に感じることがあれば自分自身で何年もかけてじっくりその問題を問うべきなんだと思います。
絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかない
それから、そもそも信じる信じないという場合に、なにか絶対的な真理みたいなものを想定してしまってはいけません。現在、ある問題をもっとも状況をうまく説明できるものをとりあえず真理と呼ぶのであって、ある説明を再評価しなくてはいけないのは、それが疑わしいからじゃなくて、まさにそれが現在の真理だからです。そして、やはり、その真理を疑うためには、それを信じたうえで、それ以上にうまい説明がありうるかを問わなくてはいけないのでしょう。それを問う方法は2つ。
もっと他にうまい説明をしてる人を探すか、自分自身がそれ以上のうまい説明を考え出すかです。
いずれにしても、どちらがうまい説明かを検証するためには疑う対象をまず理解する必要があるのはいうまでもありません。何かを疑い、その疑いの正しさを証明しようとすれば、やはり一度は自分自身で疑う対象を、腹のなかに飲み込んでみるしかないんですね。
「罪を憎んで人を憎まず」のスタンス
あと、もう1点。たとえ、何かの論を疑う場合でも「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが必要だと思うんです。別に論のどこかに間違いがあったことが明らかになったとしても、その人自体の仕事を全部否定したり、ましてやその人自体を否定する必要なんてどこにもないのですから。安易に、疑う単位を人にしてしまうのはよくなくて、あくまでその人が実際に言った、書いた論を対象に批評の目を向けなくてはアンフェアです。それに人に対する好き嫌いと、論の正しい正しくないを評価する視点はちゃんと分けて捉えられる力をもたないといけないですしね。
先の例であれば、白川静という人を疑っても仕方がなく、白川静さんの論を疑い検証しなくては意味がないでしょう。そうではなく何十年も一心に研究を続けた方に向かって「今から業績再評価が始まるんじゃない?」なんて他人任せにたった一言言い放つのはあまりに非礼です。仮に論が間違ってもその仕事に傾けた情熱、努力は称賛に値するし、決して真似できないような凄みを感じさせるものですから。
その意味では、冒頭のコメントを書いた方にも別に敵意とかをもってるわけじゃないんです。とにかく、そういう風なスタンスで臨んでしまうともったいないと感じたんです。
あの発言で済ませてしまうには、あまりに白川静さんの学は偉大すぎるものだと思うし、そう言ってしませてしまうより騙されるつもりで読んでみても損はないと思ったから申し訳ないですが例としてあげさせてもらいました(そういうことなので、お気を悪くなさないでくださいね)。もちろん、白川静さんに限った話じゃなくて、もっと一般的に考えても、すでにある学問に対して最初から信用に足るかどうかと疑ってかかって、誰かが評価してくれるのを待つというのはもったいないと思うんです(まぁ、本当に興味がもてないのだったら、それはそれで仕方ないので無視するのはアリ)。
今ある仮説を疑う際の3つの注意点
そして、わざわざここでこれを書いたのは何も白川静さんを擁護したかったからでもありません。だって、別に僕がそんなことするまでもなく白川静のすごさはいまのところ認めざるをえないと思いますから。そうではなく、これを書いた理由は、ここまで挙げたように以下の3つは大事なことだなと思ったからです。
- 評価を他人任せにすることはできない。結局はどこかの時点で自分自身で評価しないといけないときがくる
- 絶対の真理はない。すべてその時点で一番うまい説明でしかないと捉えないと大きく間違う可能性がある
- 何かの論を疑う場合も、「罪を憎んで人を憎まず」のスタンスが大事
明らかな嘘や間違いは別として、いったんは他人の論は騙されたと思って興味を示した方が結局は自分を磨くのには役に立つと思います。そのくらいの授業料は払わないと何の勉強にもならないのかな、と。
焦らず、じっくり、自分の直観と頭と体をつかった労力を信じてみることが、他人を疑うことより大事だということは、まさに白川静さんや先日紹介した『いまなぜ白洲正子なのか』の白洲正子さんから学べることです。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月22日 1時43分
文は記号の総体である
文は文身(イレズミ)であり、字は幼名(アザ)であり、書は呪的な目的のもとに隠された呪文であったそうです。
文身は、出生・成人・死喪の際の通過儀礼として行われ、人の胸郭に朱色で記号を加えた形をもとに文という字が象形されているといいます。女性の場合は両乳をモチーフとしてその周囲に文身を加える。その字は奭あるいは爽。いずえも爽明の意をもつのだそうです。文も奭も爽も、霊界に入る人の聖化の方法として用いたイレズミを象形かつ象徴している字です。
人が生まれたときにも、やはりその額にしるしをつけ、邪霊が依り憑くのを祓い、転生の祖霊を迎えたといいます。それを象徴する字は、ひたいを象形する雁垂れの形の上に文をしるし、下に生を加えた産。成人のときに同じくひたいを象形する雁垂れの形の上に文をしるし、下に文彩を示す彡(さん)を加えたのが彦。その刺青を加えたひたいを顔というそうです。
他にも、名は上部は祭肉、下は祖廟に告げる祝詞をあらわす器の形。字は祖廟をあらわす垂れた屋根に、氏族の子が祖霊に謁見して、生育の可否を報告しその承認を受ける儀礼を示しているそうです。
文字と祭祀儀礼
このように本来文字を意味する、文、名、字などはすべて通過儀礼に関するものだと白川静さんは述べています。このことは、文字がもとそのような儀礼を背景とし、その儀礼的実践をいわば字形的に映像化することによって生まれたものであることを、示唆するものであろう。象形とは単なる絵画的方法や模写を意味するものではない。象形文字はその形象の含む比喩的な表象の方法によること、つまりいつでも象徴的な表現であるというところに、その本質がある。白川静『漢字百話』
これはすごい見方です。文字とその意味は、描かれる対象と描いた形象という従属的な関係ではなく、比喩的・象徴的関係にあるというのです。
別のところで、白川さんは、文字の象形は絵画的な具象ではなく抽象だといっていますが、それはそもそも儀礼を行うという行為と文字をしるすという行為が主従関係にあるのではなく、おなじく神や祖霊と交換する行為であるというところから来ています。単に儀礼を象形しているのではなく、儀礼をおこなうのと同様の目的で文字をしるすことで神や祖霊をコンタクトしているのです。
それはバーバラ・M・スタフォードが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で書いている、以下のような力にも通じるものだと考えてよいのではないでしょうか。
要するにイメージというものは、情報を一度に小空間にディスプレーしながら、それをミニチュア化し、圧縮し、組み合わせる力を持っている訳である。
ことば、文字のもつ呪能
この発見はすごいと思います。従来の記号学はソシュール言語学のようにシニフィエとシニフィアンという形で、記号とその対象を主従関係的にみていました。それに対して、白川さんの発見は文字のはじまりにおいては、儀礼と文字による象形が同等の意味をもつものであったことを明らかにしているのですから。
先の文や爽や産や彦にしても、文身をほどこされた身体や顔を示しているのではなく、あくまでそうした文身をおこなう通過儀礼そのものを示しているのです。それは唯物的な思考で対象に名づけるのとはまるで発想が異なります。
すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形式でなく、ことばの意味する実態そのものの表示にほかならない。白川静『漢字百話』
また白川さんは「文は記号の総体である。内なるものが外にあらわれるものをいう」とも書いています。
とうぜん、そのような文字はそのはじまりにおいてことばを書き記すもの、ことばに従属するものではなかったわけです。ことばを発するのと文字をしるすのはやはりおなじ意味をもっていたわけで、その意味を白川さんは呪能という言葉で表現しています。ことばにも、文字にも、言霊がやどっていた、いや、言霊がやどらなければことばを口にしたり、文字をしるす意味がなかったのです。
このような意味において、ことば、文字を捉えると、イメージや象徴ということの意味、あるいは、物や実在というものが意味することがまったくいまの思考とは違うものになってきます。この思考の先にいまとは異なる知の体系や情報・コミュニケーション論の可能性があるのではないかと思います。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月22日 0時25分
いまなぜ白川静なのか
最近、白川静さんの本を読んで紹介しているのですが、どうも人気がないようです。
僕の紹介の仕方がつまらなそうに思わせてしまうのか、自分とは関係のない分野の話と決め込んでしまっている人が多いからなのか、あるいは、すでに皆さん読まれているからかわかりませんが、理由はどうあれ、まだ白川静さんに触れたことがない人はぜひどれでもいいので一冊読んでみることをおすすめします。

どれがいいか迷う人は『漢字―生い立ちとその背景』から読まれることをおすすめします。
この本に関しては、いま半分ほど読んだ『白川静 漢字の世界観』で、松岡正剛さんがこんな風に書いています。
文字のひとつずつを解明するだけでなく、文字がそのような形や音という根拠をもたざるをえなかった古代社会の祈りや恐怖や欲望や期待を解明することと、文字それぞれがことごとく不即不離になっているのです。その連携的な解読の中核に漢字マザーの発見がいくつもあったのです。そこが白川学のすごいところであり、私が1970年の『漢字』に衝撃をうけたところでした。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
そう。白川学は「すごい」んです。僕など、まだ3冊しか読んでないので、すでに書いた書評以上のことはいまの時点ではいえませんが、漢字の研究を通じて古代の中国および日本の祭祀、習俗、歌謡などの世界を浮かび上がらせてくれるのを読んでいると、その知の世界にどんどんのめりこんでいきます。
白川静という巨知を語ること
先の本の冒頭近くで松岡さんは「うまく話せるかどうか、とてもおぼつかない」とめずらしく慎重になっています。というのも松岡さんは「白川静という巨知を語ること」は、以下のことに値すると捉えてるからです。- 「文字が放つ世界観」を覗きこむこと
- 古代社会このかた「人間の観念や行為」をあからさまにすること
- 中国と日本をつなぐ「東洋思想の根底」をそうとうに深くめぐること
- 白川さんの研究人生そのものに貫通していた「気概と方法」に手や声や体をもって直截にふれること
まさにこれこそが「いまなぜ白川静なのか」と題したエントリーを書こうと思った理由に通じることですし、さらには「いまなぜ白川静なのか」そのものの答えだともいえると思っています。
難解にして、深甚
「白川さんの著作も白川さんの漢字世界観も、正直いって難解です。いや、深甚です」と松岡さんはいいます。けれど、続けて「その難解でありながらも深甚であるところがたまらなく魅力的で、かつそのように漢字のもつ世界観のことや、東洋の言語思想や日本の文字文化について語る白川静がほぼ一世紀にわたってありえたということが、最も白川的であることのメッセージだと私は思う」とも書いてらっしゃいます。これはまさにそのとおりだと感じます。白川さんの本には難解でありながらもじっくり読むことで魅力を感じる深さがあるのを感じます。その世界にどんどんのめり込ませてくれる魅力があります。
にもかかわらず、この数十年の日本に決定していたのは、そのように「白川的であろう」とすることでした。
何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題なのです。ですから、白川さんの本を読む、あるいはその研究を辿るということは、私たちにほぼ陥没して欠落してしまっているであろう「アジアの根本にひそむ深甚な世界観」にじかにふれるということであって、ということは、そのような白川的世界観を読むには難解な印象などものともせずに、白川さん同様に「東洋学≒日本学」に立ち向かってみるということなのです。松岡正剛『白川静 漢字の世界観』
「何もかもをわかりやすくして、何もかもをキャンディにかわいくしていこうとする、その日本の姿勢のほうがむしろ問題」。本当にこれはどうにかしてほしいし、どうにかしないといけないと思います。わかりやすさがダメだというのではなく、わかるやすくなければ興味を示せない姿勢が問題だと思うのです。難解なものに腰を据えてじっくり関わっていこうという姿勢がとれないということが。
二相ではなく不二
僕の印象でいうと、アジアの世界観にふれるのが難解かつ深甚にならざるをえないのが、それが西洋のような還元主義や唯物的で分析的な思考をもたず、かつ、その結果生じてしまう要素がバラバラになって異分野間の連絡が通じないような事態に陥ることも回避できるような、統一的な視点をもっているからだと思っています。柳宗悦さんが『工藝の道』で書かれた言葉を引けば「二相ではなく不二」としてみる感覚が東洋に共通する感覚としてあり、そのややこしい不二という立場をとるからこそ難解にもなるし、深甚でもいられるのではないか、と。ジョン・ノイバウアーが『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』
「東洋学≒日本学」の先にあるものではないかと想像しているのです。そして、それはバラバラの情報を統合することができずに右往左往しているいまだからこそ必要な知ではないかと思うのです。
東洋的な結合の術に向けて
その意味では、最近紹介したばかりで同じく「結合術」をサブタイトルに含んだデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を読んだときの関心ともつながりますし、これも前に紹介済みのバーバラ・M・スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』、『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で取り上げているような問題(『ヴィジュアル・アナロジー』では「ライプニッツの存在論は美学と合して、個を、個を超えるものとハイパーリンクするところの、還元せず繋げるひとつの巨大プログラムを形づくっている」といった言及もある)にもつながっていきます。
そういう観点から、白川静さんの本は、特に情報デザイン、インタラクションデザインに関わる仕事をしている人にはぜひ読んでほしいと思っています。これがいまのインタラクティブ製品の問題を解決するための突破口に将来的につながっていく/つなげていかなくてはいけないはずのものであるから。西洋の物真似をがんばっても下手くそにしかできないくらいなら、東洋的な方法を生みだしてそこで勝負していかないとだめだろうと思うんです。そのためにもぜひ。
もちろん、それ以外の人でも言葉や文字、人間の思考や行為、そして社会におけるあり方などについて興味を持っている方にはおすすめです。とにかく読めば衝撃をうけるはずですので。
僕自身はいまは松岡さんの本と並行して、白川さんの『詩経―中国の古代歌謡』
ただ、やっぱり難解なのはちょっとと思う方は、はじめての白川学入門書として書かれた松岡さんの『白川静 漢字の世界観』から読むか、梅原猛さんとの対談形式なので読みやすい『呪の思想―神と人との間』から読まれてみてはいかがでしょうか。
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 漢字―生い立ちとその背景/白川静
- 呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛
- ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識/バーバラ・M・スタフォード:
- グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ/バーバラ・M・スタフォード
- ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月21日 2時54分
足りないのは思慮深さ
これはごもっとも。
一般に、インタラクティブな製品が私たちを苛立たせるのは、機能が足りないからではなく、思慮深く振る舞わないからだ。アラン・クーパー『About Face 3 インタラクションデザインの極意』
アラン・クーパーはそう書いたうえで、「思慮深い製品の特徴」として以下の項目をあげています。
- ユーザーに対して関心を示す
- ユーザーに対して敬意
経緯を払う - 先が見える
- 常識を働かせる
- 人のニーズを予測する
- 用意周到だ
- 自分の個人的な問題で他人に負担をかけない
- ユーザーに必要な情報を提供する
- 洞察力がある
- 自信を持っている
- あまり質問をしない
- 穏便にエラーを収める
- ルールを曲げるべきときを知っている
- 責任を取る
いつも同じパソコンを使ってるのに、どうして違うサイトで買い物したり、何かを申し込むたびに、毎回名前や住所を入力しなきゃいけないの(いい加減覚えてよ)。
いつまで経っても僕の好みややりたいことをわかってくれないのはどうして?
保存しますか?って、そりゃ編集したんだから保存するよね、常識的には。
なんで一回アプリを終了したらアンドゥ(戻す)できなくなるの?
しつこく確認メッセージ出すけど、それ、僕の問題じゃなく君の問題だよね。
まったく気がきかないったらありゃしない。
もしこんな店員がいたらどうよ?って考えると、いかにインタラクティブシステムが要求するコミュニケーションが思慮に欠けるかということです。
昔、矢野さんが、人間中心設計の必要性を説明するのに友達へのプレゼントを考える例を挙げていました。
でも、特別の日に何をプレゼントするかを考えることも大事かもしれませんが、普段から相手のことを考えて自分の振る舞いを見直すことのほうがそれ以上に大事なんですよね。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月19日 22時34分
呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛
最近、一冊読んで面白かった人の本を続けて読む機会が多くなっています。
松岡正剛さんは別格だとしても、すこし前の高山宏さんもそうだし、割と最近では田中優子さんもそうでした。そして、いまは白川静さんのサイクルに入っていて、『初期万葉論』と『漢字―生い立ちとその背景』に続いて、梅原猛さんとの対談である『呪の思想―神と人との間』を読みました。
対談当時、白川静91歳、梅原猛76歳というからそれだけですごい。しかも、お二人ともこんな素敵なお顔をしてます。

91歳+76歳に蓄積された知識の深みは感嘆するばかりです。さらに対談ですから読みやすく、ほかの白川さんの著作に比べたらはるかに読みやすく、はじめて読む方にもおすすめ(もう1冊入門書としては最近出たばかりの松岡正剛さんによる新書『白川静 漢字の世界観』
訓読みを発明したのは百済人
さて、この本の内容ですが、梅原猛さんの問いに白川静さんが答えるという形で、漢字の話、孔子の話、詩経の話というように話題が進んでいきます。話題の舞台は多くは白川さんの専門の古代の中国で、そこに梅原さんが専門の古代の日本の話がまぎれこんだりします。いずれも本のタイトル通り、ともに呪的なもので政治が社会が人間が動いていた時代です。先日紹介したばかりの『漢字―生い立ちとその背景』でも文字が生まれるためには絶対王朝が必要だと書かれていましたが、ここでも、白川さんは、
白川 日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったからです。「神聖王」を核とする絶対王朝が出来なければ、文字は生まれて来ない。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と言っています。
そして、漢字が日本に入ってきてから、いまのような訓読みが生まれたのは、日本人が工夫してそうしたのではなく、
白川 本当の訓読みを発明したのは、僕は百済人だと思う。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
と、当時日本に住んで「史(ふひと)」として文章に関することをやっていた百済人が、日本以外ではどこの国にもない訓読みを日本語に漢字を適合させる方法として折衷的に生み出したと白川さんは考えているんですね。
こういうおもしろい話が本の随所に出てくる。読みはじめたらどんどん読めちゃいます。
祝詞を入れた器から
で、やっぱり興味をひくのが漢字の話です。呪の思想におおわれた殷の時代にできた字ですから、それが象形するものもほとんどが呪的なものなんですね。例えば、祝詞を入れた器をあらわす口に似たサイという文字。これが元々はホコをあらわす「才」ともう1つの
ホコをあらわす「戈」がいっしょになった、載や裁から車や衣をとった部分から生まれているというんです。これはすべてのもののはじめを意味する文字なんだそうです。
下の写真の右ページの真ん中あたりにこの文字から、祝詞を入れた器をあらわす文字が生まれているのが示されています。

そして、この祝詞を入れた器をあらわす文字に蓋や針を加えて「吉」「吾」「古」「害」「舎」の字が生まれています。「吉」は器のうえにマサカリを置いて守る意味。「古」は同じく器の上にたて(十)を置いて永く守る意味だそうです。おもしろいところでは耳の大きな人のかたわらに器をおけば「聖」、神がかった巫女が髪を振り乱して器を抱えて舞う姿が「若」なのだそうです。そもそ
もこの「器」という文字が祝詞を入れた器を清める犬牲をしたことから生まれた字であることは「漢字―生い立ちとその背景/白川静」でも紹介済みです。
神へ問う意味の「言」と神が答える意味の「音」の2つの文字の対称性もおもしろい。ともに器にハリ(辛)を指した象形で、一方の「言」は器が空で、「音」は器のなかに神の意が入っている(神が音連れてるわけです)。器にハリは「害」もおなじで、ただ、こっちは取っ手付きのハリで器を破壊していることの象形なんだそうです。
さらに先の「才」のほうからは「存(才の下に産子)」「在(才の下に土饅頭)」が、「戈」からは「戯(戈が虎を打つ形)」がそれぞれ生じています。
詩は歌われ、神話は語られた
これらすべてが神と人との交信の儀礼などを示す呪的な行為を象形化しているんですね。王もまた神と交信することを示すことで絶対王となる。だからこそ、「日本に文字が出来なかったのは、絶対王朝が出来なかったから」になるんですね。中国には絶対王になる環境的必然があったのに対して、日本の氏神にはその必要性がなかったということなのでしょう。梅原 ところが詩が歌うことを離れ、音読することを離れ、だんだん目で見るだけのものになってきた。現代詩の衰退は、そういうところにあると思っています。白川静、梅原猛『呪の思想―神と人との間』
呪的な世界において何より詩は歌われ、神話は語られたのです。それがことばを離れ、文字のみを見るようになると呪的な社会は合理的な社会へと移っていく。『初期万葉論』でも『漢字―生い立ちとその背景』でも語られていたことです。きっと文学というのは本来こういう場所に立って考えるべきものなんでしょう。
最近はこのあたりの話が非常に興味深く感じられます。
と、この本があまりにおもしろかったので、今度は梅原猛さんの『隠された十字架―法隆寺論』
こうやって、どんどん読みたい本がつながっていくんです。
あっ、そういえばこのブログ、ちょうど3年前の11月18日にはじめたんだった。祝3周年。早いもので4年目に突入です。
関連エントリー
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月19日 1時26分
工藝の道/柳宗悦
「自分で考えろ」「答えがあると思うな」
学校でも企業でも当然のように用いられるこれらの言葉は果たして本当に正しいか? 最近、そのことに大きな疑問を感じています。
「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたように、歴史的には時代が下れば下るほど、ものつくりの技術は質的に劣化し、かつて可能であった品質をあとの時代には再現できなくなります。いまに生きる人たちはこのことに無頓着ですが、すこしでも関心をもって歴史上の制作物を振り返る目をもった人であればその差は歴然としています。
過去の技術の伝承・維持、あるいは個人意識の孤立を回避するには
なぜ過去にあった質を維持する技術の伝承ができないのか?それは白川静さんが『初期万葉論』や『漢字―生い立ちとその背景』で、田中優子さんが『カムイ伝講義』で描いてくれているような社会のしくみの変化、それにともなう人間の内面の変化、徐々に距離感ができ遠ざかる人間と自然との関係、そして、経済文化の変化にともなう働き方の変化や働くことの思想の変化が、生産の単位や消費の単位を今日までに徐々に個人化してしまったことにあるのでしょう。
今日美術と呼ばれるものは皆Homo-centric「人間中心」の所産である。だが工藝はそうではない。そうでないがために卑下せられた。しかしそうでないが故に讃美される日は来ないであろうか。工藝はこれに対しNature-centric「自然中心」の所産である。ちょうど宗教がTheo-centric「神中心」の世界に現れるのと同じである。柳宗悦『工藝の道』
20年ごとに行われる(伊勢)神宮の式年遷宮は、神宮そのものの維持であると同時に、それを建造する技術の維持でもあるといいます。職人は人生のなかで大体3度の式年遷宮に立ち会うことができ、一度目ははじめてその場に関わる見習いとして、2度目は経験をもった職人として作業の中核を担い、最後の3度目ははじめて作業に立ち会う職人のために技術だけでなく式年遷宮のしきたりも伝承する役割として、その場に立ち会うことになるといいます。とうぜん、それが20年ごとに行われるよう維持するためには技術そのものだけでなく、式年遷宮という儀礼そのものの価値を損なわず維持できるよう社会的、経済文化的な維持も必要になってきます。神と人との関係とともに、そこで使われる建材となる自然との関係も維持しなくてはいけません。
そこには個人がどうの、新しい技術や個性がどうのという価値観はまったく存在しません。新しいものを生み出すことばかりに熱心で、ものを長く使うことだけでなく、技術や社会の価値観そのものを維持していこうという姿勢を著しく欠いた現代の経済文化的、社会的価値観とはまったく異なるものがあります。
個性中心の見方からして、工藝の美が等閑にされたのも無理はない。否、高き工藝は、美術的であらねばならぬとさえ考えられた。柳宗悦『工藝の道』
これが現代主流となっている風潮です。そこではものつくりの技術が時とともに劣化していくだけではなく、社会のしくみそのものが次第に劣化し、人間は神からも自然からも隣人や家族からも距離をもった孤独な存在となっていきます。そして、さらには自分の身体や自分の感性からも孤立化した孤独な意識だけになって生きる力を失っていく。
学校でも、企業でも「自分で考えろ」と言われ、個性や個人力を磨くことばかりを説かれるだけで、依ってかかる社会や経済文化の価値観や思想を示されることはない。果たしてこれが本当に正しい道なのだろうか?
なぜ工藝なのか?
柳宗悦さんの『工藝の道』に関しては、これまでも「正しき工藝の11の法則」や「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」をはじめ、「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない」、「勤労・勤勉が可能な社会」、「失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?」などのエントリーですでに何度も取り上げてきましたが、このあたりで一度しっかりまとめておきたいと思います。日本民藝運動を興した柳宗悦さんはご存じの方はいると思いますが、著名な工業デザイナーである柳宗理さんの父親にあたる方です。この『工藝の道』は柳宗悦さんが日本民藝運動をはじめるにあたって最初に工藝のもつ価値を記した一冊にあたるものです。
知られているように、柳宗悦さんは全国をまわって自分の直観にひびくよき工藝品の収集を行い、その成果を日本民藝館に結実させています。その一方でなぜ自分たちが工藝に価値を見出し、日本民藝運動を行っているのかに対するアカウンタビリティの義務もしっかりと多くの著作を通じて果たしています。
私は私自身をここに主張するのではなく、よき作品が示す工藝の意義を、そのまま忠実に伝えたいと思うのである。
この問題が投げる抛物線は広くかつ深い。美に結合し、生活に参与し、経済に関連し、思想に当面する。工藝が精神と物質との結合せる一文化現象として、将来異常な学的注意を集めてくることは疑いない。柳宗悦『工藝の道』
ここに書き記されているように、柳さんは工藝に単なる美を見ているのではなく、生活への参与、経済との関わり、思想への直面をみています。それは上に書いたような白川静さんや田中優子さんの問題系にも関わりますし、『ふすま―文化のランドスケープ』の表具師・向井一太郎さん、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』の法隆寺棟梁・西岡常一さんのような職人の技術と生活・信仰に関する価値観や、『お能・老木の花』に所収された「梅若実聞書」で白洲正子さんが聞き語りをしてくれている能楽師・二代目梅若実さんの言葉(「言いがたいところの智慧」)にも感じられるものです。
ものつくりの射程
ものをつくるための思考や技術は、単に生活のための必要品をつくるということだけでなく、社会や文化のなかで自分はどういう立場にあるのかを学び、制作をする際や素材を入手する際に自然の材から自然のもつ力を学び、自分の力だけではどうにもできないこと、自然や過去の人びとの努力やまわりの人との協力によって成し得ることの力を学ぶという「広くかつ深い」抛物線のなかにあるものととらえなくては単なるものつくりの話として軽くあしらって終わりになるかもしれません。しかし、そう考えるのは、ものつくりが人びとの生活に関わるものであること、経済文化や社会と関わること、ものをつくることと自然との関わり、そして、ものをつくったりものを使うことがどれだけ人間の認知や思考に影響を与えるかというつながりを見捨てて、自分本位な狭いものつくりの視点でそれを捉えてしまっているからにすぎません。
されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。
ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。(中略)用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。
初代の茶器に見られる雅韻は、いかにそれが多量に迅速に作られた民衆的作品であったかを語る。茶器はその中から選んだわずかなものに過ぎぬと云う人もあろうが、しかし多量につくられる品でなくば、選ぶということもできないであろう。茶器の美は「多」の美である。
人々は美しい作を余暇の賜物と思ってはならぬ。休む暇もなく働かずしてどうして多くを作り、技を練ることができるであろう。汗のない工藝は美のない工藝である。
沈んでゆく工藝の歴史を省みると、このことが著しく目に映る。そこには情愛の水が涸れきっている。器は愛なき世界に放たれているのだ。傭う者は、作る者への愛がなく、作る者は働くことへの愛がない。どうしてかかる場合に器に愛を持つことができよう。
私たちは工藝においてむしろ天然の大を記念するに過ぎない。美は人為の作業ではなく、自然からの恩寵である。自然の慈雨に濡れずして工藝の種は芽生えないであろう。材料の貧しさは美の貧しさである。自然を遠ざかるものは、美からも遠ざかる。
無心とは自然に任ずる意である。無学であった工人たちは、幸にも意識の慾に煩わされることなく、自然の働きを素直に受けた。無心の美が偉大であるのは自然の自由に活きるからである。この自由に在る時、作は自ら創造の美に入る。近代の作に創意を欠くのは、自然への帰依が薄いからと云えないであろうか。
されば工藝の美は伝統の美である。作者自らの力によるものではない。(中略)よき作を守護するものは、長い長い歴史の背景である。今日まで積み重ねられた伝統の力である。そこにはあの驚くべき幾億年の自然の経過が潜み、そうして幾百代の人間の労作の堆積があるのである。すべて柳宗悦『工藝の道』
こうしたことが「正しき工藝の11の法則」でも示した以下の11の法則としてまとめられています。
- 工藝の本質は「用」である
- 工藝の最も純な美は、日常の用器に表現される
- 多く作られることによって、工藝はその存在の意味と美とを得る
- 工藝の美は労働と結ばることなくしてはあり得ない
- 労働の運命を担う大衆が、相応しい工藝の作者である
- 民衆の工藝であるから、そこには協力がなければならぬ
- 手工藝にも増してよき工藝はない
- 正しい工藝は天然の上に休む
- 高き工藝の美は無心の美である
- 個性に彩る器は全き器となることはできぬ。古作品の美は没我の美である
- 工藝においては単純さが美の主要な要素である
ここでは、Homo-centric「人間中心」に工藝の美、ものつくりの意義が問われているのではなく、Nature-centric「自然中心」であり、経済文化や社会における労働の価値、そして、人間の生き方までを射程にいれて、ものをつくるとはどういうことかが問われているといえます。
器の正しさは制度の正しさを要求する。器の美に破綻が来たのは、社会に破綻が来たからである。柳宗悦『工藝の道』
「自分で考えろ」「答えがあると思うな」というような言葉がまかりとおるような個人主義の社会はどこか破綻しています。個人は社会において常に孤立しており、個人のなかでも身体による労働や体験から得られる感覚から切り離された自己意識が孤独に苛まれています。
他力道
ここではとてもではありませんが、この偉大な書のよさのすべてを伝えきることはできません。願わくば、ものつくりに関わるより多くの方が実際にこの本を手にとって読んでいただければと感じます。とてもすべてを伝えきることはできませんが、最後に自然やまわりの人間・社会といかに関わりをもって、ものつくりを行っていくかということに関する柳さんの考えを紹介しておきましょう。
柳さんは「何の要あってかくは自然に素直にまた容易に生るべき美を、強いて曲げ作り工夫しようとするのであろうか」と個人の創意に疑問を投げかけています。なぜ「自然の志の悖る」ような作意や名をあげんがための個性の作をつくろうとするのか、といい、「自然は工藝をして民衆の手に成就せしめるために、最も平易な道を準備している」と書いています。
柳さんのこの考えの背景にある思想は仏教における「他力道」です。
私はあの『歎異抄』に書かれた親鸞聖人の言葉を感慨深く想い起す。「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」と。(中略)私は宗教におけるこの秘儀を、工藝においても深く体験する。私が費した多くの言葉もついにこの一句に尽きる。柳宗悦『工藝の道』
「もしこの世に工藝の聖典があるなら、この言葉によってこそ書き起こされているであろう」とまで柳さんは言っています。
この「他力道」はいわゆるネットワーク理論や複雑系の科学、あるいは、環境とのアフォーダンスを考える生態的心理学や、そのもとにもなっている生態学、さらには経済文化を相互作用的に捉えた思想との関係で、僕らは捉えていかなくてはいけないでしょう。
個人主義という還元主義はいまや科学が還元主義におちいった挙句、おもちゃをバラバラにしてしまった子どもが再びそれを組み立てなおすことができずに泣いているような状態で、途方にくれています。ものつくりのような人間が行う活動に関しても同じです。ものつくりという活動をほかから切り離して単独で考えてしまい、それにともなう技術や思考もすべて「自分で考えろ」的な個人主義に還元し、まったく無意味な個性や新奇性などの作家性に溺れてしまっているがゆえにものつくりはどんどん経済文化や人間の地に足のついた生き方とはかけ離れてしまっています。そこに間違いがあるのは、いまや明らかなはずなのに、そこから抜け出すことができずにいるのが現状です。
僕はその原因のひとつに、これまで人類は新しい何かを生み出すことばかりに価値を置き、そのための方法論を考えるのには労を厭わなかったが、その反対に(伊勢)神宮の式年遷宮のような長期における維持・保存の方法論の創出には力を入れてこなかったということがあるのではないかと思うのです。その結果、「質の劣化と文脈からの逸脱」で書いたような時代とともに技術や生み出されるものの質が劣化していったり、器の正しさを維持するための制度の維持ができないという事態を繰り返してきたのでしょう。
ましてや、いまはもはや何を価値とするかの基準を社会的に示すことができず、まったく無意味に資本主義的要請を成り立たせるためだけにものつくりが行われている。そんな状況において「自分で考えろ」などと言われて、まともな思考ができるはずがないのです。
「善人なおもて往来をとぐ、況んや悪人をや」
僕らはもう一度「他力道」に帰るべく、過去のよき遺産に立ち返る必要があるのではないでしょうか?
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- 正しき工藝の11の法則
- 用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ
- されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない
- 勤労・勤勉が可能な社会
- 失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月16日 19時3分
漢字―生い立ちとその背景/白川静
本当に人間について知りたければフィルードワークだけでは足りません。だって、フィールドワークできない場所でも人間は生きていたのだから。そう、もはや僕らが足を踏み入れられない過ぎ去った過去にも。
過ぎ去った過去における人間を知る(特に人間中心のデザインの観点から)という意味では、例えば、『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』で紹介されている深澤直人さんの「アクティブ・メモリー」という用語がおもしろいです。
アクティブ・メモリーとは、特定の個人における経験的な記憶を指すのではなくて、誰もが共通に知っているものの形を通じて身体に意識されないような形で残っている記憶を指します。例として出されるのは、毎日触っている電車のつり革の形は意識としてはよく覚えてはいなくても、ある日その形が微妙に変化したらきっと握った感触から、あれ?と感じるだろうというようなことが含まれます。
アフォーダンス理論とも関連するこのアクティブ・メモリーという外部環境と身体的記憶との関係性は、外部環境から人間の身体側へと記憶が書き込まれるという方向だけでなく、人間の身体行為が外部環境に及ぼす行為の痕跡としても現れたりもします。先の本では、バス停の前のガードレールが何人もの人が座った影響で曲がっている写真などが紹介されています。
この人間が外部環境に残す痕跡にも大きく分けて2つのものがあります。
1つはガードレールの湾曲のように人間が無意識のうちに残してしまう痕跡。もう1つは言うまでもなく、人が意図して残すデザインされた人工物という痕跡です。後者の人工物の形状もまた人間の行為の痕跡をその輪郭に残しているものだといえるでしょう。特に長年にわたって多くの人に繰り返し用いられてきた人工物の形状であれば、そこに人間の行為の痕跡を刻んでいるとみることができるはずです。
そこにフィールドワークによる観察がもはや不可能な過去においても、その時代に生きた人間を知る手だてが隠れていると思います。そして、それを実際に行っているのが、この『漢字―生い立ちとその背景』をはじめとする白川静さんの漢字研究だといえるでしょう。漢字という人工物の形状を知ることで、その成り立ちやそれがどのように使われたのかという面で当時の人間が見えてきます。
殷における占卜と王の神聖性と文字
漢字の元になった甲骨文は、中国で殷の時代に生まれています。その誕生は、確実なところでは紀元前14世紀にまで遡ることができます。殷の時代、「王朝の秩序の原理は、その神話であり、祭祀の体系」でした。卜いを通じて王は神と交信することで政治を司っていました。その占いに使われたのが獣骨であり、亀の腹甲でした。その亀の甲にすり鉢状の穴をほり、その部分を強く灼くことで、縦横に線が走るのを見て占ったのです。
獣骨による占卜は、文字のない時代からすでに行われていました。古い時代の卜骨には文字は記されていないといいます。占卜は文字がなくても可能なものでした。
ところがある時期から占卜に用いた獣骨、亀の甲に文字が見られるようになります。王による占卜のことばが記されるようになったのです。記された文字は占卜の内容とともに、その結果としての王による占断のことばも記されていました。ただ占卜するだけなら必要がなかった文字による記録は、王による占卜に誤りがなかったことを残すために用いられるようになったのです。つまりは王の神聖性の顕示のために文字は必要になったのです。
古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
この祭祀が中心となった殷の政治のありかたから様々な文字が生まれています。例えば、殷では祭祀に犬を犠牲として用いることが多かったそうですが、この犬の字がさまざまな祭祀に関連する言葉を示す文字に見受けられるといいます。
例えば、上帝を祭ることを「類」というそうですが、類の本字は「大」の部分が「犬」であり、犬牲をもって祀ることを意味する文字です。また、「然」はその肉をもやす意味で、それに火を加えた形はいうまでもなく「燃」です。犬牲をもって器物を清めることも多かったそうで、器(もとは類と同じく「大」の部分が「犬」)や哭などの字に犬を添えているのもその意味だといいます。
文字と祭祀社会
いまさらいうまでもなく漢字は象形文字として生まれました。王という字も、王権を示す儀器としての鉞(まさかり)の象形であるとされています。
「殷王は、年間を通じて間断なく祖霊との交渉をもち、祖霊の保護を受けることができる」と示すために、殷では一年を埋め尽くすような祭祀体系が組まれていたといいます。
祖霊の観念、祖霊崇拝の祭祀化は、定着的な農耕社会の成立によって生まれるとされている。このような祖祭の体系は、農耕社会を基礎とする殷王朝の繁栄を反映するものであろう。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
稲作には欠かせない雨を願って舞い歌う儀礼もあり、その「舞」を示した文字は最初は「無」であり、人が脇に飾りをつけて舞う姿の象形だそうです。

甲骨文として刻まれた文字を読み解いていくことで、このような殷の社会が見えてきます。まさに人工物の解読によって人間またはその社会における生活が見えてくるのです。
文と文身(イレズミ)
そもそも「文」という文字自体からも当時の人びとの儀礼が見えるのです。文はもとは文身(イレズミ)を意味する字であり、人の胸部に心臓の形の文身を加えた象形です。
文身の美しさを文章という。文は人の立つ形の胸部に、心字形やV字形やXなどを加えるのである。章は文身を加える辛(はり)の先の部分に、墨だまりのある形である。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
文は胸の中央にする男性の文身をあらわしたもので、女性の場合は両乳房に記したといい、その象形から爽という字も生まれているそうです。
生まれることを示す「産」はもともとは立の部分が文であり、もともとは赤子がうまれたときにひたいに加えた文身の象形でした。また文身は一定の年齢に達するごとに加えられ、「彦」もまた顔に文身を加えた象形であり、「顔」という字そのものが文身をくわえた額を指しているそうです。
呪力から人間の内面化へ
似たような文身を示す例としては「徳」の字もあげられています。徳はもともと目の呪力を意味した字で、もともとは「心」はついておらず、目の上につけたしるしを表す象形と目の呪力をもってほかと接することを示した彳を加えた文字です。異族に接する際にそうした文飾を目のうえに施すことで、目の呪力を高めたのでした。ただ、そうした儀礼も時代が下るにつれ、変化していきます。
しかしこれらの字は、やがてその呪的な力が、その文飾にあるのでなく、内的な特性、精神的な力に本づくものとされるようになった。古代の呪的な行為を示す字は、このようにして人間の内面的な特性を意味する語となる。徳の字に心が加えられるのには、帝から天への転換、人間の内面性への自覚を必要としたのである。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
殷から周へ王朝が変ったあとに起こる変化ですが、これはまさに「初期万葉論/白川静」で描かれた日本における前期万葉と後期万葉の社会の変遷と重なります。前期万葉の呪的な世界から後期万葉の律令的な合理性の世界への変化が、殷から周への変化にも見られると白川さんは指摘しています。
それはこのような感情の分化が、時代とともに進んで、文字がその必要に応じて、新たに作られてきたからである。卜文には心に従う字がほとんどみえず、金文に至ってもなお20数字を数えるにすぎない。人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった。白川静『漢字―生い立ちとその背景』
人間には心があるのが当たり前と感じる僕らには、「心性の問題はまだ起こりえなかった」ということ自体が衝撃的です。そして、そうした現代の人間とはまるで異なる人間像を、古い文字の解読から読みとれてしまうことがすごいと思います。
外部の物理環境-人間の行動-人間の心理・思想
こういうところにこそ、最初に書いたような過去に作られた人工物から当時の人間の記憶を読み解くことの可能性を感じます。それは田中純さんが『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』で詳しく紹介しているアビ・ヴァールブルクによって開始された絵画からそれが描かれた文化・社会を読み解くイコノロジー研究や、杉浦康平さんが『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』などの著作で示されているような仕事とも重なるものだと感じます。前に「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」というエントリーを書きましたが、外部の物理環境-人間の行動-人間の心理・思想は1つのエコシステムのなかで相互作用をするものとして捉えないと、本当の意味でデザインを人工物と人間の関係性として捉える人間中心設計はできないと思っています。以前から書いていますが、いまの人間やいまの世につくられた形だけを見ていては、人間を知ることもできなければデザインを深く考えることもできないと思っています。その意味で最近読みはじめた白川静さんの著作は、また新しい世界を見せてくれていて非常に勉強になります。
関連エントリー
- 初期万葉論/白川静
- 外は、良寛。/松岡正剛
- 空海の夢/松岡正剛
- アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純
- 宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平
- 日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで/土橋寛
- 庭と日本人/上田篤
- デザインの生態学―新しいデザインの教科書/後藤武、 佐々木正人、深澤直人
- 質の劣化と文脈からの逸脱
- ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか
作者:HIROKI tanahashi
更新日:2008年11月16日 3時13分
もうペルソナなんて言わない
さて、1つ前の「ゴールダイレクテッドデザインとは」で紹介したゴールダイレクテッドデザインプロセスのなかでもとうぜんペルソナとシナリオが使われています。そりゃ、そうですよね。クーパーがペルソナの生みの親なんですから。
僕はこれまでペルソナ/シナリオ法という用語を使ってきましたが、今後はもうその用語は使わずに、ゴールダイレクテッドデザインという用語を積極的に使っていこうと思います。
というのは、ペルソナ/シナリオ法あるいはペルソナという言い方は誤解が多すぎるからです。
デザイン・シンキング(デザイン思考)といい、どうしてこうも流行りだからというだけで飛びついて、それが何なのか、何の役に立つのかをちゃんと自分で理解して使おうとする人がすくないんでしょうね。それでそういう人に限って間違った使い方をして、なんだこんな方法を役に立たないと言いだすことになるのだからあきれます。
ペルソナはゴールダイレクテッドデザインプロセスの一部
とにかくユーザー像のモデリングの方法であるペルソナが、ゴールダイレクテッドデザインプロセスの一部であり、インタラクションデザインの方法だと理解しない(しようとしない)人が多すぎます。ペルソナを用いた方法がどんなデザインでも有効だと考えるのはまだマシなほうで、なかにはひどいのになるとマーケティングのセグメンテーションに使おうとする人もいたりします。これはもうわけがわかりません。ゴールダイレクテッドデザインで行うユーザー調査は質的調査なわけですから、その調査からどうやって市場のセグメンテーションができるかわかりません。仮にセグメンテーションのなかの顧客像を明確にしたいのだとしても、それがある