レースクイーン情報
レースクイーンを各種ブログ(Blog)から一括検索します。
トップ > images > images - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月1日 9時)
親友がくれたメール
親友がこんなメールをくれた。
ネトゲは死ぬべきである
> ネトゲのキャラクターは死ぬべきである
> http://blog.pettan.jp/archives/50638552.html
面白かったよ。
以下読んだ感想。
キャラクターが死なないことで、システムの硬化が
進みゲーム自体の死が早まる。
キャラクターが死ぬことによって新しいユーザが
入りやすくなり、ゲームの新陳代謝を上げてゲーム
自体の寿命が長くなる。
というわけで、キャラクターが死ぬことによって、
寿命が長くなった人気のネトゲがいくつか誕生する。
そうすると寿命の長いネトゲが居座り続けることに
なり、新規のネトゲが参入しづらくなる。
だって新しくネトゲ作ったのに、ユニークユーザ数
1000万のゲームがうじゃうじゃいれば、ユーザ確保が
困難なのはあたりまえだ。
そしてネトゲ業界(?)の死が早まる。
まぁようするにスケールの問題なんじゃないかな。
キャラクターの死によって寿命を延ばすネトゲのように、
ネトゲそれ自体の死によって寿命を延ばすネトゲ業界。
みたいな。
人気ゲームの続編ばっかりになってきて衰退しちゃう
ゲーム業界、みたいな。
でも1つのゲームで長く遊べれば、次の探す手間が
かからなくていいよね!(>_<)
言及されている記事「ネトゲのキャラクターは死ぬべきである」は多大な反響を頂き、何百ものレスも頂いている。にもかかわらず、俺はその中で長年の親友であるMの指摘が一番鋭いと感じてしまった。これは衝撃的だった。
Mの指摘は正しい。あの記事に書いた「持続性の高いソーシャル・システムを作るためには、システムの中のあらゆるものが死ななければならない」という考え方を、ひとつ上の階層に適用すればそうなるはずだ。つまり、
となっているので、「キャラクターを淘汰する」ことで「ネトゲが生き延びる」ようにすれば、「ネトゲが淘汰されなくなる」ことによって「ネトゲ業界の新陳代謝が弱まって死ぬ」はずだ。つまり、淘汰の階層がひとつ上がるだけの話なのである。だったら、ネトゲの寿命なんて短いほうがいいのかも知れない。
もちろん、この理論をさらに延長すれば、「ネトゲ業界が衰退すれば、その上の階層のゲーム業界全体が活性化する」というような話になるので、そこまで考えるなら、ネトゲ業界が衰退することも悪いかどうかはわからない(究極的には「世界のどこを淘汰し、どこを維持するのが最善か」という話になる)。でも俺はそこまでは考えていなかったので、Mは俺の考えから抜け落ちていた点を見事に見抜いたと言える。「ネトゲは死ぬべきである」というタイトルも核心を突いている。
他にも似たような指摘をしてくれた人はいるけど、俺にとってはMの指摘が一番衝撃的だった。これは第三者が見ても共感できないかも知れない。客観的に見れば他の指摘とは微妙な違いしかないと思う。でもその微妙な違いが俺にとっては決定的で、そこを突いてきたのがMだったことは驚きだった。
Mは小学校の頃からの親友で、頭がいいことは当然知っていた。Mは俺みたいに文章を発表することには興味がないらしいけど、文章が上手いのも知っていた。実は、俺がこうやって人に見せる文章を書くようになる前は、俺が書く文章のほとんどはMに当てたメールだったし、このブログも最初はMしか見ていなかった。そういう時にはMはちゃんと返事をくれたし、文章の量も質もクオリティが高かった。だから、能力的に不思議があるわけじゃない。
でも、この文章を読んでレスをくれた人の中には、他にも頭のいい人がうじゃうじゃいるのである。天才としか言いようがないぐらい切れる人もたくさんいる。はてなブックマークに何百ももらったコメントの顔ぶれを見ただけでも一目瞭然だし、SNSでもすごい人(例:fromdusktildawn氏)がたくさんレスをくれた。挙げ句のはてには師匠が記事まで書いてくれた。
でも、俺にとって一番鋭い指摘をしたのはMだった。Mに攻撃的な意図がまったくないことは分かりきってるし、攻撃と正反対のスタンスなのは文面からも明らかだと思う。俺に宛てたメールだから、「みんなの前でいいことを言ってやろう」的な動機もまったく働かなかったはずだ。それでも、一番鋭く問題点を突いたのはMだった。
何が言いたいのかというと、Mがなみいる天才たちの頭をひとつ抜け出す鋭い指摘をしたのは、おそらく客観的な能力の問題ではないということだ(もちろん彼の能力は客観的に見ても高いけど)。Mは俺の長年の親友だからこの指摘ができたのである。長い付き合いで、俺の考え方とか、バックグラウンドとか、文章の書き方とか、いろんなものを熟知しているから、俺が何を見落としているのかが分かったのである。そうとしか考えられない。
俺はつねづね、客観的な能力とか、個としての能力というものはどうでもいいと思っていて、学歴とか、学力とか、IQとかいったものは徹底的に軽視してきた。なぜなら、人間はその人だけに与えられた運命としての固有の環境に根を張って生きるものであり、その環境の上で能力を発揮できるか、ということこそが本当に重要なことだからである。あえてそこから切り離して評価することに、俺は意味を感じない。
そして、他人を評価するときにも「自分にとってどういう人か」ということが重要であり、一般的な評価はどうでもいいと思っていた。他人にとって、あるいは客観的に見てどうであれ、俺にとって価値がある人は価値があるのである。どんなに凄い人でも、俺にとっては無価値であり得る。逆に、誰からも嫌われるような凶悪な犯罪者が、俺にとっては最良の友人になることもあり得る。
たとえば、AとBという人がいるとする。普通の人の能力を100とすると、Aは70、Bは60の能力しかないけど、AとBが組んだ場合は、長年の付き合いや相性の良さによって、二人とも120相当の能力を発揮するとしよう。そしてAとBは一生パートナーとして組んでやっていくものとする。さらに、AとBは地元の埼玉県越谷市で働く場合、それぞれ30ほど能力の上積みがあって、二人はずっと地元にいるものとしよう。
さて、このAとBは無能だろうか。テストなどによって客観的な指標を求めれば、能力値は70、60なので「無能」という評価が下されるはずである。でもそれに何か意味があるだろうか。俺は明らかにどうでもいいことだと思う。何の意味もない評価だと思う。なぜなら実際には、二人とも150相当の高い能力を発揮して生きていくからである。そして、AとBが客観的に見てどうであれ、AにとってBは明らかに価値がある人だし、BにとってのAもそうである。
もし自分の環境を捨てて生きていくならば、客観的な能力と指標が全てである。親兄弟や友人、地元などのしがらみを捨てて、世界を股にかけて大企業を転々とするような生き方をするとしたら、学歴、資格、IQ、協調性などといった客観的なものがもっとも重要になるかも知れない。
でも多くの人は、自分に与えられた固有の環境からそれほど離れることはないはずだ。誰とも違う自分だけの人間関係とか、地元とか、いろんなしがらみを抱えて生きていくのである。そういう大多数の人にとって、こうしたしがらみを取り払った「客観的な能力」にどれほどの意味があるだろうか。
運命として人に与えられた環境は、誰とも異なる固有のものであり、その人の個性のようなものだ。それは自分の個性ではないと感じるかも知れないけど、自分だけが持っているものであることに変わりはない。それが生物学的な運命であれば「個性」と呼び、社会的な運命であればそう呼ばないのかも知れないけど、本質的な違いはない。それは世界中の誰とも異なる、その人だけに与えられた運命であり、固有性である。
有能そうに見えても大したことを成さない人がいる。こういう人は自分の運命、つまり自分に与えられた環境の固有性を生かすのが下手なんだと思う。客観的なテストをすればその人は有能に見えるかも知れない。でもこの人は実際には大したことを成さないのだから、本質的な意味で無能そのものである。
凄さというものは目に見えるとは限らない。どう見てもパッとしないし、面白いことも言わないし、どんな知能テストをやってもしょぼい結果しか出さないけど、仕事はできる、というタイプの人はたしかに存在する。この人は、自分の環境から切り離された個人として見たら無能なのかも知れないけど、その環境に結びついている限りは有能である。たぶん、知人・友人のネットワークを使うのがうまかったり、一般性がなくてローカルだけど有益な知識をたくさん持っていて、それを生かすのが得意だったりするのだろう。世の中には確実にこういう人がいる。俺みたいに言うことだけは達者な奴が、実際に仕事をして価値を生み出せるタイプの人間かは分からない。
新約聖書でもキリストがこう言っている。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
マタイによる福音書 第7章
だから俺は、結果を見て人の能力を判断することが多い。ダメそうに見える人でも結果を出しているなら、それは凄さが見えにくいだけなのだと判断する。結果には人が思っているほど偶然の要素は入ってこないものだと思っている。
さて、話がダラダラと長くいろんな方向に飛んだので、最後に俺が言いたかったことをまとめてみる。
・人の客観的な評価というものに大した意味はない。その人は自分だけが持っている固有の環境のもとでこそ能力を発揮できるタイプかも知れない。また、他人にとってどうであれ、自分にとっては価値がある人というのは存在する。
俺はネットのおかげですごい人や有名な人とたくさん知り合いになれたけど、これからもずっと古い友人や親兄弟を大事にして生きていきたいと思う。前からそう思ってはいたけど、これが正しいことだと改めて教えてくれたMに感謝したい。
作者:hedachi
更新日:2008年11月27日 1時5分
ネトゲのキャラクターは死ぬべきである
ネトゲのキャラクターは死ぬべきである。でないと、時間をかけたプレイヤーほどレベルが上がって有利になるので、そのゲームばっかりやってる廃人の溜まり場になってしまう。たぶん、ポケモンとかダビスタみたいに「主人公ではないキャラクターを育てる」ようにして、そいつに寿命があるネトゲを作るのが一番いいと思う。できれば、ダビスタのように成長期があって、ピークがあって、そこからだんだん衰えて死んでいくことが望ましい。生物ってそういうものだし、育成ゲームは生き物を育てる楽しさをシミュレートしたものだから。
育てたキャラクターが死んでしまっても、プレイヤーはキャラクターの育て方を学んでいくことができるので、何も残らないわけじゃない。つまり経験値がプレイヤーに残る「不思議のダンジョン方式」だ。とはいえ、本当にゲーム上に何も残らないのもちょっと悲しいので、ダビスタみたいに「殿堂入り」の馬の記録を残すとか、レースのVTRを取っておけるとか、ゲームの本筋に影響しないものを残せばいいと思う。人が死んでも写真とか形見といったものを遺すことができるのと同じように。
もし現実世界で人が老いて死ぬことがなかったらどうだろう。アリストテレスとか、ゲーテとか、ニュートンが今なお生き続け、老いることなく知識を積み重ね続けていたらどうだろう。王貞治が未だに現役バリバリで毎年ホームラン数を伸ばしてたり、福本豊が毎年盗塁数を増やしてたらどうだろう。上を蹴落として誰よりもすごい奴になりたいと思う、あるいはそんな夢だけでも見ていたい俺ら若者としては、つまんねーとしか言いようがない世の中になるだろう。
まぁ人は老いて死んでいくから心配ないけど、ネトゲも同様にキャラクターが老いて死んでいくシステムにしないと、新規参入者にとって面白くないネトゲになるので、ネトゲ自体の老化と死が早まる。新しくゲームに参加しようと思っても、既にレベル99の最強キャラクターがうじゃうじゃいたりすれば、やる気が失せるのは当たり前だ。閉じた世界でやるゲームなら、キャラクターがどれだけ強くなったって構いやしない。他のプレイヤーのゲームには影響がないからだ。でも開けた世界で行われるネトゲがそうじゃ困る。敷居が高くなって、新しいユーザが入ってこなくなってしまう。
では実際のネトゲではどうしているかというと、新規参入者を優遇するようなゲームシステム、ゲームバランスの変更を逐次加えていったり、新規参入者のためのイベントを開催したりして、なんとかこの問題に対処しようとしている。たとえば、
みたいな経験値の多いモンスターを投入したり、強い武器・魔法を増やしたりして、レベル上げを簡単にする。
しかし、ここには「イノベーションのジレンマ」に似た状況が生じてしまう。つまり、新規顧客を優遇しすぎると、昔からの顧客がやる気をなくして離れていくのである。レベル99になるのに1000時間ぐらいかかるゲームバランスだったのが、ゲームバランス改変でいきなり10分の1の100時間ぐらいしか要らなくなったら、古参プレイヤーとしては面白いわけがない。馬鹿馬鹿しくなってみんな辞めてしまうだろう。だからネトゲの運営においては、運営者がうまく空気を読んで、古参と新参の両方が楽しめるようにゲームバランスの修正を加え続けていくことが重要である。どちらかを優遇しすぎたネトゲは衰退する。
でも、このゲームバランスの修正は小細工に過ぎない。キャラクターの寿命が無限であるという根本的なシステムの欠陥が、この終わりなき対症療法を必要とするのである。いちいち手間をかけずとも運営できるネトゲを作ろうと思ったら、キャラクターが老いて死ななければならない。ゲームシステムの自律性を向上させれば人件費は減り、ランニングコストは確実に減る。小手先の改良ではなく、もっと本質的にゲームを面白くする作業に割り振ることができるリソースも増えるだろう。だから、ネトゲのキャラクターは死ぬべきである。
この話はネトゲに限らず、ソーシャル・システム(社会の仕組み)全般について言えることである。つまり、持続性の高いソーシャル・システムを作るためには、システムの中のあらゆるものが死ななければならない、ということだ。でなければ、代わりにシステムそのものが死んでしまう。
たとえば、これはネット・コミュニティを例に考えるとよくわかることで、ずっと居座っている人が多いと、新規参入が減ってコミュニティが衰退していく。新陳代謝の速度が低いコミュニティはすぐに廃れる。
ひろゆき氏は、巨大で長寿なネットコミュニティを作ることに何度か成功していて、この点では日本で一番実績のある人物だと思う。彼の作ったニコニコ動画と2ちゃんねるは、参加者が基本的に匿名である。だから、実際には同じ人がずっと居座ってるとしても、その人の2ちゃん歴・ニコ動歴の長さはわからないので、新規参入のハードルは低くなる。要するに、これは寿命を設定するかわりに、寿命を隠すシステム設計であるといえる。これによって、古参も新参もほとんど同格の扱いを受けるので、新陳代謝は早い。コテハンもいないことはないけど、匿名を基本とするシステムになっているため、「コテハンはウザい」という感覚がコミュニティにあって、コテハン排斥圧力がつねに働く。だから名前を知られた上で活動している人は、どちらのコミュニティでもほんの一握りである。匿名という方式はあらゆるコミュニティで採用できるものではないけど、これもひとつの有効な方法だ。
逆に、極端な顕名コミュニティである「はてな村(はてなのサービス利用者のコミュニティを一般的にこう呼ぶ)」は、その中核に「人気エントリー」があって、ここのコンテンツが片っ端から死んで入れ替わっていくことによってコミュニティが維持されている。人気エントリーには「はてなブックマーク」で最近注目されている記事がずらっと並んでいるけど、どれほど注目をあつめた記事でも、数日で人気エントリーからは落ちてしまう。新陳代謝が激しいので、新しくブログをはじめた人でも、いい記事さえ書けばすぐにここで注目を集めて、はてな村の中で存在感を示すことができる。逆に固定読者が多数いる古参でも、面白いことを書かなければたいして注目されない(あるいは「最近つまらなくなった」ということで話題にのぼる)。だから新規参入のハードルはそれほど高くなく、どんどん新しい人が入ってくるので、はてな村は今日も活気を保っている。
こうしたソーシャル・システムは人間や自然に結びついたものである。人間は老いて死ぬようにできているし、自然界に存在するあらゆるものは滅びる。この中に永続的なものを混ぜてしまうと、それはシステムの中で延々と蓄積あるいは膨張してしまい、最終的にシステム自体が破綻し崩壊する原因となる。環境問題もこれに近いところがあって、人工的なものの永続性が高すぎるために自然の循環が乱れることによって起こる。現実世界のすべては滅びの宿命を抱えている。だから、その世界と直結しているソーシャル・システムが滅びと無縁でいることはできないのである。
作者:hedachi
更新日:2008年11月24日 19時31分
「分裂勘違い君劇場」論
ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる25冊を紹介 - 分裂勘違い君劇場
ネットに割り当てる時間配分を間違えなければ、ネットは人生を豊かにし、自分の未来を切り開く力をくれます。
しかし、ネットに多くの時間を使いすぎると、人生を根幹から豊かで納得のいくものにしてくれる良書を読む時間を失い、自らの人生を破壊し、未熟なまま老いてしまう危険があります。
「はてなの人気エントリに上がるような記事」と「優れた書籍」の落差は、ギアナ高地の断崖絶壁どころではありません。
もちろん、分裂勘違い君劇場のような、薄っぺらくて、矛盾だらけで、勘違いしまくってて、長いだけでろくに内容のない記事ばかり掲載するうんこブログは、優れた書籍とは、比較すること自体がもはや犯罪です。
しかし、分裂勘違い君劇場より1000倍優れている梅田望夫氏や小飼弾氏の本やブログといえども、図書館や書店に並ぶ良書の前には、やはり、ゴミより幾分マシだという程度の価値しかないのです。
優れた書籍のレベルとは、それほどのものなのです。
極論劇場ここに極まれり、という感じの傑作記事でした。うんこブログとか文章表現がことごとく面白すぎるんですが、それに加えて断崖絶壁の写真がわざわざ貼ってあるのに爆笑。せっかくなので写真ごと転載します。
さて、薦めておきながらいきなりふざけた事を書きますが、僕はこの記事の趣旨にそれほど賛同するわけではありません。僕はこの「分裂勘違い君劇場」を愛読してますが、記事の趣旨には同意しないことも多いです。
それでは、なぜ僕がこの「分裂勘違い君劇場」を読むのかというと、fromdusktildawn氏自身もたいていは自分の記事に100%賛同はしていないと思っているからです。この「分裂勘違い君劇場」の記事の大半が極論であることは、プロフィールページに書いてある通りです。
極論というのは、ウソの中にも一片の真実が含まれるものです。
そして、極論は、煩雑でぼんよりとした現実の中から、その真実をつかみだし、黒々と照らし出すことがあるのです。
だから極論は、それがウソであるにも関わらず、有意義であるし、面白くもなりうるのです。
どこまで成功するかは分かりませんが、本劇場が目指す、理想の極論というのは、そういうものです。
この日記について - 分裂勘違い君劇場
このような理由によって、「分裂勘違い君劇場」の記事はその名の通り分裂勘違いしていて、時にはお互いに矛盾したりdisりあったりしています。今回の記事はその典型で、劇場自体をまるごとdisってるわけですが、これも同様に極論であってfromdusktildawn氏の本音ではありません。氏は劇場では自分の意見を先鋭化させて極論記事を書いていますが、実際にはバランスの取れた意見を持っています(フリーダムSNSなど、ブログ以外のところで氏とコミュニケーションを取ってみるとよくわかります。)。
この記事に対して、僕がはてなブックマーク(はてブ)に書いたコメントはこんな感じです。
深く入っていくには本のほうがいいけど(特に哲学)、浅くても多様な考えを知ることができるネットも捨てたもんじゃない。どっちも有益なのでバランスが大事ですね。逆に本に偏るのもいいことじゃないと思う。
はてなブックマークのコメント
fromdusktildawn氏はこれにスターで賛意を示して下さいましたが、氏は意図的にバランスを崩した極論記事を書いてるわけですから、本当のところ、こんなコメントは釈迦に説法だと思います。氏は以前どこかで、「昔自分はたくさんの難しい本を読んで賢くなった気になっていたが、社会に出てみてそれが勘違いだと気付いた」みたいなこと言っていました。また、自身がアルファブロガーであり、ネット上で凄まじい量の文章を読みあさっていて、SNSを自分で作ってそこに自身もどっぷり漬かっているようなネットジャンキーですので、氏が実際にはそれほどブログをはじめとするネット上の文章をうんこだと思っていないことも明らかです。
さて、論理的な話をするなら、この手の問題の真理は至って単純です。それは以下の二点に集約されます。
2.人によって合うメディアと合わないメディアがある
無価値なメディアなんてものはありません。本もネットもテレビも新聞もそれぞれの価値を持っています。僕はマスメディアが嫌いで、特にテレビは大嫌いなので一切見ないんですが、別に無価値だとは思っていません。単に僕は合わないので不要だというだけの話で、テレビを役立てられる人も世の中にいるでしょう。テレビ番組の質は昔よりは落ちているのかも知れませんが、それは前よりは価値が落ちたというだけの話で、あくまで程度問題です。
また、fromdusktildawn氏が薦めている哲学書や学術書も、誰にとっても価値があるものではありません。僕は氏と同類なのでこの手の本は好きですが、あんなもんには興味が湧かない、いくら読んでも頭に入らない、というような人が世の中の大多数ですし、そういう人も含めて読むべきかと言ったらそんなことはないと思います。中には慣れると読めるようになる人もいますが、誰もがそうではありません。いくら読んでも時間の無駄にしかならない人も確実にいます。これはウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」の一番はじめに書いている言葉に尽きます。
おそらく本書は、ここに表されている思想―ないしはそれに類似した思想―をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう。
論理哲学論考
では「ここに表されている思想―ないしはそれに類似した思想」を考えるような人が世の中にどれだけいるかといえば、やっぱりあんまりいないというのが現実でしょう。基本的には哲学書なんて変人が読むものでしかありませんので、読みたい人が読めばいいんじゃないかなと思います。興味が持てない人が無理やり読んでも、たぶん知識や思想の吸収効率は悪いです。
そもそも、本自体あまり読まない人はたくさんいるわけですが、そういう人が馬鹿なのか、もっと本を読むべきなのか、というとそんなことはありません。本なんか読まなくても賢くて、面白くて、哲学的な深みを持っている人なんていくらでもいます。もっと言うと、そんな深みなんてなくたって価値のある人はいくらでもいます。誰もがものごとを深く考える必要はありませんし、むしろ考えない人もいないと世の中はうまくいかないようになっていると思います(※)。思想的な深みがなくて脳天気だからこそ価値がある人もいますし、そういう人がいなくなったら困ります。それに、感覚的で感情的で何にも考えてないように見える人は、考える人とはまた別種の鋭さを持っていたりするものです。
こうした考えをつきつめていくと、当たり障りがなくてクソつまらないうんこみたいな結論がでます。つまり「テレビも新聞もネットも本もそれぞれに価値があり、どれが向いてるかは人によって違うので、個人個人が自分にあったバランスでメディアを使っていくべき」ということです。非常にメッセージ性に乏しい結論ですが、おそらくfromdusktildawn氏もこの見解には同意してくれることでしょう。世の中の問題の多くは、一般化された答えなどで解決できるようなものではないからです。
では、なぜ現実的な問題の複雑さ、割り切れなさを理解しているはずのfromdusktildawn氏が極論を書き続けているのか。それは
だと思います。氏が伝えたいことを、はてなダイアリーというメディアの特性を生かして効率よく表現するための手法が、極論劇場という手法なのでしょう。
かつてマクルーハンという人が「メディアはメッセージである」という有名な言葉を遺しましたが、この言葉の本質は「形式は内容を規定する」ということです。例えば、テレビによって伝えられるメッセージの内容は、それがテレビを使っているということに規定されてしまいます。音と映像で構成されているので、触覚、味、匂いを伝えることはできません。映像自体も2次元の平面に過ぎませんし、音も一般的には2チャンネルのステレオサウンドが限界です。また、電波の特性上、インターネットと違って多数の人を対象にしなければならないので、一般受けするものでなければならないし、放送禁止用語などのタブーもたくさんあります。また、民放の場合は運営のためにスポンサーが必要なので、その意向に逆らうようなことは言えません。もちろんNHKはNHKで言えないことがあります。こうしたメディア(形式)の性質によってメッセージ(内容)が影響を受けないかと言えば。もちろんそんなわけはありません。それは本にもインターネットにも言えることであり、もっとピントを絞ると「ブログ」とか、「2ちゃんねる」「はてなダイアリー」のような個別サービスについても言えることです。ひろゆき氏は「嘘を嘘と見抜ける人でないと、2ちゃんねるを使うのは難しい」と言ったそうですが、要するに「2ちゃんねる」はメディアの特性として玉石混淆な発言から成っているので、その中から玉を拾える人じゃないと役には立てられない、ということです。
ちょっと話がそれましたが、「分裂勘違い君劇場」で極論が展開されている理由の一つは要するにメディアのせいで、ブログというメディアでは長文を書けないということです。これはシステム的な字数制限の問題ではなくて、「ブログの記事の長さはこれぐらい」というような感覚が一般的にあって、それよりも短すぎたり、長すぎたりするものは嫌がられて読まれない、ということです(※)。mixiではブログよりももっと短い文章が求められているし、twitterでも字数制限一杯にかくとちょっとウザい感じがします。メッセージはメディアの物理的な構造だけでなく、メディアを取り巻く社会環境にも規定される、ということでしょう。
専門家が一般人向けに書いた本では、本文はおおざっぱな話に留めておいて、細かい補足を巻末の脚注などで書きまくっていることがよくあります。「注釈を書いてたら本文より長くなってしまったので、泣く泣く削った」と書かれていた本もありました。なぜこうなるのかと言うと、著者は「AはBである」ということをまず何よりも最優先で伝えたいのですが、本当は「ただしIの場合はJであり、またXの場合はYである」という例外があることを知っているからです。でも、その本当のことをそのまま全部書くとつまらない文章になってしまい、読まれないために、結果的に「最優先で伝えたいこと」が伝わらなくなります。つまり、文章には「面白さと正しさのトレードオフ」があるため、
ということです。そこでfromdusktildawn氏が出した一つの答えが「分裂勘違い君劇場」のスタイルで、極論劇場であることをあらかじめて宣言しておき、本当ならば注釈的に書きたいことをバッサリ切ってしまう、という手法なのだと思います。結果として、氏は自分で真実でないと思っていることを書いていることもあると思いますが、それによって氏が「一番伝えたいこと」がたくさんの人に伝われば、目論見としては成功なのではないでしょうか。
fromdusktildawn氏が極論劇場を書いているもう一つの理由は、「分裂勘違い君劇場」がブログの中でも「はてなダイアリー」で書かれていることだと思います。ここで注目を集めるためには、他のサイトで取り上げてもらうか、はてブ数をたくさん集める必要があるわけですが、そのためには「コメント欄をなくして極端な意見を書く」という方法が非常に有効です。極論を書くという劇場の方針のため、的外れな批判も多いようですが、それもはてブ数を増やしたり、リンクを貼ったりすることで行われるので、記事の注目度を上げてしまいます。
氏が本を書いて同様のメッセージを伝えようと思ったら、もっとバランスのいい、角の取れた丸い意見になるでしょう(※)。この極論劇場は「はてなダイアリー」というメディアを使って、氏が自分の考えを効率的に伝えるために考え出した方法であって、ここの記事イコール氏の意見ではありません。
さて、結論がいまいちまとまらないんですが、とりあえず僕はこの文章の中で「うんこ」という言葉を使って何となく自分の殻を破ったような気がするので満足です。突然こういう記事書いちゃうfromdusktildawn氏とか、日経の記事にAA貼ったり、コピペ改変ネタ使ったりするうちの師匠とか、コトリコさんみたいなカオスな人ってかっこいいですよね。
まぁ要するに、「分裂勘違い君劇場」は面白いのでYOUも読んじゃいなよ!ってことです。
速読のことを書き忘れてたので追記。俺は(たぶんfromdusktildawn氏と同じで)遅読派です。でも速読派の弾さんがスゲーのは嫌と言うほど知ってるし(生でもたっぷり話聞いたよ)、うちの師匠も速読派です。
でも俺は別に速読しようと思わない。ていうか無理。だって、俺が本を読むっていうのは本をこうすることだから。
ひどい本はもっと徹底的にぐちゃぐちゃです。だから買わないと本が読めなくて、あんまり借りたいできないんだけど、その分読むのは遅いから経済的にはバランス取れてるかも知れない。
速読を必死に身につけようとする人とか、速読が良いとか悪いとか決めつけようとする人がけっこういるようだけど、そんなもん向いてるかどうかは人それぞれだと思う。つーか、ふつうに本読んでれば自分に向いてる読み方なんて自然に分かるでしょ?って気がするんだけどな。速読型の人はたぶん勝手にそうなるし、そうでない人はそうならない。訓練すれば速読はある程度身につくんだろうけど、読み方としてそのほうが優れてるわけじゃない。別に優劣なんてないでしょう。人それぞれだよ。
ネットも本も有益な情報がたくさん転がってるけど、一般的な回答を求めたって意味がない問題というものもたくさんあって、そういう問題については自分の力で分かる、あるいは感じるしかない。いくら情報技術が発達したって、最後に感じるのは自分の感覚であり、考えるのは自分の頭だということは変わらない。本を読む速度について言えば、自分で本を読むスピードを上げたり下げたりしてみて、自分の頭がどうなってるかを精神を研ぎ澄まして感じてみれば、自分に向いたスタイルはだんだんと分かってくるはず。自分についての答えは外だけ探したって転がってるわけがない。スターフォックスのセリフで言うと「自分の感覚を信じろ!」
本を読んだという事実とか、読んだ冊数なんかに本質的な意味はない。そういう表面的・外面的な事実に囚われて自分の思考と感覚をないがしろにしていると、学校教育の暗記勉強で得た知識のように、ただ繋がりとまとまりと体系性のない知識が延々と積み重なっていくんじゃないかと思う。大事なのは本を読んでる時に得た体験と、それがそのあと自分にどう影響したか、ってことじゃないのかな?
関連記事:速読で本が楽しめるのかという疑問 - 狐の王国
極力速く読むようにするようになってから改めて気付いたんだけども、俺は小説を読むのに「時間」をよく使ってる。時間を注ぎ込むという意味ではなくて、文章の流れやリズム、場面などを、時間軸を使って味わうということをよくしているな、と。
ちなみに、速読派のうちの師匠も小説は速読しないって言ってました。
-追記-
fromdusktildawn氏は速読もするそうです(はてなブックマークのコメント参照)。できるならケースバイケースで併用するのが一番いいような気はしますが、個人的にはあんまり速読をしたいと思ったこと自体がないです。弾さんみたいに書評書きまくるわけでもないので、時間を割く価値がない本なら最初から読まなければいいからなぁ。自分ができないので、速読できる人を単純にすごいなーとは思いますが。
でも、ざっと速読してみて、読む価値がある本はそれから精読する、という使い分けができたら確かに便利かも。
作者:hedachi
更新日:2008年11月19日 14時35分
ヅラかぶって新潟旅行してきた
ヅラかぶって新潟に二泊三日で遊びに行ってきました。温泉行ったり、バーベキューしたり、うまいソバ・天ぷら・寿司食ったりといろいろ楽しかったけど、やっぱり話するのが一番楽しかったなあ。特に夜は面白すぎて、二日間とも3時過ぎまでひたすらトークしてました。
あと、タケルンバ卿、ぐり(guri_2)さん、reponさんにもヅラをつけてもらってみました。みんなキャラが変わって面白かったですが(※)、特にぐりさんは、普段しているメガネも外してヅラかぶってもらったので全然別人でした。
(※)普通はチャラくなるんですが、タケルンバ卿はなぜか外人(カルロス)になるようです(笑)
参考:ラテン系セニョール - タケルンバ卿日記
さて、宿泊した五十沢キャンプ場「天竺の里」の写真を二日目の朝に撮ったので、貼っつけていこうと思います。クリックすると大きい写真が見られます。二次利用などはご自由にどうぞ。
でかい岩(名物らしくて名前がついてたんですが忘れました)がかっこよかったです。
上の写真とかぶってるんですが、写真のバランスが気に入ったのでこれも貼っておきます。
バーベキューやろうとした時は雨が降ってたので、この写真の向こう側に映ってる建物でやりました。タケルンバ卿の素晴らしい肉さばきのおかげで、僕は例によって食ってるだけで済みました。
子供向けの遊び場もありました。同伴の小学1年生の子はここですべって遊んでました。
ここで小学生の子と一緒に石を投げて遊んだりしました。前のバーベキューに行った時も思ったんですが、小さい子って川に石なげるのがほんとに好きですね。男の子も女の子も。しかもみんなできる限りでかい石を拾って投げようとするので大変です。
ほんとは三日目の朝もうろつきまわって写真撮りたかったんですが、雨が降っていたので諦めました。青空と紅葉のコントラストが映える写真がうまく撮れてなかったのがちょっと残念です。
ということで、参加者の皆さんおつかれさまでした&お世話になりました。また近いうちに遊びましょう!
関連記事
ドタバタ新潟1泊旅行 - タケルンバ卿日記
作者:hedachi
更新日:2008年11月17日 12時13分
整形しました
って言ったほうが信じてもらえそうなぐらい、実物とかけ離れた写真が撮れて面白かったので公開します。俺本体をご存じの方は爆笑して下さい。これmixiの写真とかに使ったら完全にサギですね。「(※)写真はイメージ映像です」って書いとけば許されるかな。

なんかもう、俺じゃないとかいうより、男かどうかも微妙。

家ではこんな格好をしてます。寒がりなので、適当にそのへんにある服を重ね着してだんだん膨れあがっていきます。バカバカしいことに家でマフラーまでします。冬は毎日してます。寝るときもしてます。

誰?

ヘッドホン外してもやっぱ別人。
この写真は師匠にもらったWebカメラ(左写真。PCにつけてテレビ電話とかに使うもの)を使って「はてなフォトライフ」で撮ってみました。このサービスは名前しか知らなかったけど、Webカメラで写真撮ってそのままアップできて、非常に便利でした。Webカメラをお持ちの方にはおすすめです。EeePCとかと組み合わせたら何か面白いことができそう。それにしても、ウィッグと写真の魔力は恐ろしいですね。これはもう写真というより写偽です。別に撮ってから修正したりしたわけじゃないんですが、写真なら顔なんていくらでも誤魔化せるということが良くわかりました。皆さまもこんな感じで、ウィッグを使って見慣れた自分とかけ離れた写真を撮ってみたりしてみてはいかがでしょうか。たぶん面白いですよ。
さて、もうブログに顔晒しちゃったし、はぐれメタルのアイコンを自分の写真にしようかなと思ってるんですが、どんなのを使おうか迷ってます。ブログにせよ何にせよ、人に見てもらいたいから書いてるわけですので、みっともない写真よりはマシなのにして興味を持ってもらいたいところですが、あんまり映りがいいものを使うのもなぁ。一生リアルで会わない人になら、かっこいい人だと勘違いされるのも別にいいかなという気はしますが、僕はネットとリアルの活動を完全にくっつけてるのであんまり都合が良くありません。
僕にとってはぐれメタルのアイコンは「へだち」というあだ名と同様identifier(※)なので、すべてこれで通してるんですが、これはリアルの僕との連続性がないのが困りものです。まぁ名刺にはプリントしてあるんですけど。

顔なら整形でもしない限り(笑)それほど根本的に変わることはないので、identifierとしては一番適当なんでしょうけど、コロコロ変えるとidentifierとしての機能をあまり果たさなくなるので、ある程度は固定したいところです。
さてどうしようかな。もういっそのこと「写真はイメージ映像です」にしてしまうのも面白そうだけど(笑)
どうやってこういうイカサマ写真を撮るのかというと、光の当て方がコツです。スタンド等をつかってうまくコントロールして下さい。1.強く当てる:光源を顔の近くに配置するのが一番手っ取り早いです。コントラストが強いため、肌が異様に綺麗に映ります。
2.横から当てる:横から当てると顔立ちがはっきりします。
3.上から当てる:光はふつう太陽の方向=上から来るので、正面とか下から光を当てるとへんな顔だと認識されるようになっているみたいです。

作者:hedachi
更新日:2008年11月10日 21時9分
唐突にカツラかぶって出勤してみた
と言う日記をmixiとサバイブSNSに書いたらけっこう反響があったので、カツラ紹介&着脱動画つきでこっちにも上げてみます。
唐突にカツラかぶって出勤してみた
今日は1週間ぶりぐらいに出勤したんですが(しかも12時過ぎのダラダラ重役出勤)、唐突にそんなことをしてみました。師匠も社員のDさんもわりとリアクション薄かったけど、師匠の手づくり雑炊が旨かったので満足です。代わりにうさぎのはっちゃんが今までにない反応を見せてくれたんですが、あれってカツラのせいなのかな?
ところで、先週出勤したときは師匠が親子丼つくってくれて、しかも食べ終わったとたんに師匠に皿洗いをはじめられてしまうという失態を演じました。俺って穀潰し以下?つーかおごさんは師匠であり社長のはずなのに、これじゃむしろ俺の親じゃん?俺って明らかに被保護者じゃん?という感じだったので、今日は速攻で皿洗いをしました。師匠はもう偉ぶらないとかいう次元を超越してますね。
このカツラは別にネットとかピンとか何も使ってなくて、ただ乗せただけなんですが、Dさんや母いわく全然わからないらしいです。自分的にはちょっと違和感があったんですが、ヘッドホンをつけてみたらしっくりきたので、外ではずっとつけてました(そもそも普段は大体つけてますが)。母が違う人みたいとか言ってましたが、俺もそう思います。面白いので、また気が向いた時に唐突につけてったりしようかな。
ちなみに、普段からこんなことしてるわけではありません。カツラなんかつけて外に出たのは初めてです。カツラをかぶって外を歩いてるという状況がなんとなく馬鹿らしく感じられて、ひとりで笑いそうになるのをかみ殺すのが大変でした。
下はカツラ紹介&着脱動画。恥ずかしいのでトークは入ってません。無音なのでボリュームとか気にしなくても大丈夫です。
見ての通り、元の髪をどうこうしたりはしてません。前髪がはみ出ないように後ろになでつけてるぐらいなので、そんなに髪の長くない人なら、上からかぶせるだけで十分です。たぶん男なら9割の人は乗せるだけで十分な気がします。下向いても落ちたりしませんし、運動しても別にずれたりしないと思います。一応髪をまとめるネットが付属してましたが、髪の長い人以外は必要なさそうです。
このカツラは、半年前に弟と秋葉のドンキホーテに行った時に5000円ぐらいで買いました。今までの一度も髪の毛をいじったことがなくて、変わり映えのしない伸びたら切るの繰り返しだったので、もし伸ばして染めたらどうなるのかなーとネタで買ってみたんですが、その後タンスに放置してました。
で、おととい唐突に使ってみたんですが、意外と楽しかったのでハマりそうです。もっと長いのとか変な色のやつも買ってみようかな。
調べてみて思い出しましたが、僕が買ったのはここのやつでした。
Lapin d'or Homme (ラパンドアール・オム) - メンズファッションウィッグ!
ちょっと情報収集してみた感じ、評判は上々のようです。
・参考リンク
【スキスキ】バンギャ・ギャ男のウィッグ【被り物】
【ウィッグ・ガイド】かつら・ウイッグの総合ポータルサイト
作者:hedachi
更新日:2008年11月8日 14時11分
今さらファミコン版ドラゴンクエストⅢプレイ日記
昔(5年ぐらい前)作っただけで、どこにも公開していなかったドラコンクエストⅢのプレイ日記があったのを、ふと思い出したので公開してみます。5年前の時点でファミコン版ドラクエⅢのプレイ日記ってのがまず今さらだし、その記事を5年も放置してから公開するということで二重に今さらな感じですが、かえって味があるかも知れません。
さいきんゲーム絡みの記事ばっかりだし、次もその予定なのでちょうどいいかな。
勇者をカンオケに放置したまま3人で冒険。


DQⅢプレイ日記2 にんにく一人旅・前編
3人での冒険は意外と普通に簡単だったので、今度は武闘家の一人旅。


DQⅢプレイ日記3 にんにく一人旅・後編
上の続き。賢者に転職して以降。


DQⅢプレイ日記・番外編
レベル99なら武闘家1人でもゾーマが倒せるか?という実験。


見ての通りジオシティーズに置いてあります。思えばこの頃はブログなんて言葉はぜんぜん広まってなかったなぁ。昔から文章を書いてサイトに載せたりってしてみたかったので、そういえばこのプレイ日記ってその時のためのネタとして作ったものだったような気がします。5年越しで目的を果たしたということになるのかな。
こうしてたくさんの人に読んでもらえるようになってから公開できて嬉しいです。世にすばらしいブログがたくさんある中、わざわざここを見に来て下さっている皆さまに感謝いたします。
作者:hedachi
更新日:2008年10月24日 3時53分
フェイルセーフなメディアとしてのインターネット
先日の記事「正義は勝つ」から任天堂は勝つには多大な反響を頂きありがとうございました。最初に申し上げておきますが、この記事に寄せられた批判の8割は的を射ていると思います。「正義」という誤解を招く表現とか、セガ・マイクロソフト・海外市場など多くの重要なファクターについての考察が抜け落ちていること、PS~PS2時代をひっくるめて「暗黒時代」などと乱暴に表現してしまったこと、などなど、頂いた批判の多くはまったく妥当なものだと思います。厳粛に受け止めたいと思います。
とは言え、僕はあの記事で取ったスタンスを変える気はありません。無知による誤りも、感情に歪められた不公平な見解も、減らす努力はしますが、ゼロにするのは不可能だし、そこまですべきだとも思っていません。
たかだか26の若造に過ぎない僕の意見になんらかの価値があるとすれば、それは客観性や正しさではないと思っています。そもそも僕は、ブログの記事というものはそれ単体で正しく完結している必要はそれほどなくて、記事に対する異論、反論、補足をすべて含めてなんらかの価値を生み出すことができれば、それでいいと考えています。重要なのは、間違いを誤魔化したり、異論・反論を封殺したりしないことです。
このサイトの文章は、オールドメディア(テレビ、新聞、本など)ではなく、インターネットという他の情報と密接にリンクしたメディアに載せられています。さらにコメント欄もトラックバック欄も解放してありますので、誤りは誰にでも指摘することができます。はてなブックマークでも多数の異論・反論が寄せられており、そこへもリンクを貼ってあります。僕はそれら全てを含めてひとつのコンテンツだと思っています。これは誤りを犯さないことよりも、誤りを犯しても大丈夫なようにしておくことを重視する、いわゆるフェイルセーフなシステムです。
半年前、「失われてない15年」という記事に以下のようなコメントを書きました。
僕は真実を理解するために重要なものは「複眼視点」だと思っているので、仮にこの「失われてない15年」で提示する視点が有効だったとしても、それは既存の経済学を否定することにはなりません。僕が矛先を向けているのは経済学でも、経済学者でも、政府でもありません。この複眼視点を破壊するものであり、多様性を破壊するものであるマスメディアです。
僕のこのスタンスに変化はありません。僕はインターネット上ではひとつひとつの情報の妥当性はそれほど重要ではなく、メディア全体で「多様性」が保たれていること、それによって「複眼視点」が可能であることのほうが大事だと思います。では、そのインターネット上に存在する情報の総体に、僕が提供できる価値があるとすれば、それは何か。
僕の強みは薄っぺらな人生経験しか持っていないことです。経験を豊富に積んでいる人は、過去を現在と照らし合わせて、未来を予想することができます。歴史は繰り返すものであり、過去に何度もあったようなことが現在も起こっており、そして未来にも起こるでしょう。だから経験は価値あるものです。しかし、未来はつねに新しいものであるがゆえに、過去になかったことが起き続けます。そのとき経験は先入観となり、新しいものを察知する障害となります。
そんな中で僕にできることがあるとすれば、それは「問題提起」だと思っています。つまり、無知で思考パターンが確立していないことを逆手にとって、知識や経験の豊富な人が最初から考えもしないような見解を提示し、議論の俎上に乗せるということです。あの記事はまさにその典型的なもので、「正義が勝つから任天堂は勝つ」という鼻で笑うしかないような、バカバカしいとしか言いようがないほど単純な意見を提示しています。たとえ相手が小学生だとしても、「どうして任天堂は勝ったの?」という問いに「正義は勝つからだよ」なんて答えたらバカにされて当然でしょう。
では、任天堂の成功要因を分析するにあたって、「正義が勝つから」なんていうふざけた見解を本気で検討する人が世の中にどれほどいるでしょうか?特に長年ゲーム業界を見てきたり、あるいは作る側として業界の中にいたりした人ほど、最初から微塵も考えないと思います。現実を目の当たりにしてきた人は、誰もがそれぞれの正義や理想を掲げてきたことを見てきたでしょう。あるいは、誰もが多くの問題を抱え、誤りを犯してきたことを見てきたでしょう。そうした人々ほどこんな単純すぎる見解を忌み嫌い、否定したくなるのではないかと思います。あのkanoseさんにこんな批判記事を書かれてしまったのがよい証拠です。
任天堂が勝っている理由はただ一点「宮本システム」にしかない - ハックルベリーに会いに行く
「正義は勝つ」から任天堂は勝つ - ぺったんぺったん
この辺を見て、ゲーム歴史修正主義という言葉が思い浮かんでしまった。id:setofuumiさんからは「俗流ゲーム史論」という素敵な言葉が。上の記事は、旧日本軍は悪いことを一切してない!ぐらいの勢いの捏造っぷりで、下の記事は旧日本軍の悪い部分は一切無視して功績のみを語るみたいな感じ。
任天堂伝説が生まれる背景って、こういった神格化が容易になされるところなんだなーというのを実感した。
俗流ゲーム史論 - ARTIFACT@ハテナ系より全文まるごと引用
しかし、僕の書いたあの記事は、はてなの人気エントリーに丸一日以上居座り、多数のニュースサイトやブログで取り上げて頂き、そのブログの記事のいくつかはホッテントリにも載り、結果としてすでに2万ほどのアクセスを頂いています。僕は勝間和代さんと違って、天下の日経に記事を書いたわけではありません。自分の過疎零細ブログにひっそりと載せただけです。僕の言葉に権威はありません。どうでもいい意見であれば、どうでもいいということであっさり決着が付くでしょう。そうならなかったということは、問題提起ぐらいの価値はあったのではないかと自負しています。
もう一つ。僕はあの文章で任天堂信者だと公言していますし、「信者の鏡」だとか「愛の文章」などという評まで頂いてしまったように、それほど客観的な文章を書こうとは思っていません。別に論文を書いているわけではないので、感情に基づく主張が混ざっていたところで問題があるとも思っていません。とはいえ、それが引き起こした事実誤認については批判されて然るべきです。PS期までひっくるめて暗黒時代などと呼んでしまったのは、我ながら信者バイアスかかってるなーとは思いますが、この箇所のように感情が明らかに事実認識を歪めているな、と納得したらその点は改めます。
僕は主観も感情も排斥せず、自分の思ったことをそのまま書いています。だから僕の文章には、単なる感情の表明にすぎない部分と、それなりに客観的な妥当性を持っている部分が入り交じっていますが、僕はそれでいいと思っています。インターネットはフェイルセーフなメディアであり、オールドメディアよりも発言者の誤りは許容されます。このシステムの上でさまざまな人が発言すればするほど「複眼視点」が強化されます。この自由と多様性こそがオールドメディアが持ち得なかったインターネットの長所であり、これによってインターネットはオールドメディアを越え、真実を見通すための最善の方法となるはずです。
世界は広く、因果の鎖は果てしなく続いていて、その全てを自分の視界に収める事なんて到底できはしません。僕にできるのは、自分の見たものや感じたことをネットに垂れ流す程度のことでしかありませんが、それによって自分が「複眼」のひとつとなることができるなら、それは十分に意義のあることだと思っています。
僕が任天堂を支持するのにははっきりとした理由があって、大雑把に言うなら「双方向性とインタフェースの重要性を一番理解しているのが任天堂だから」ということです。SCEにゲーム業界のリーダーたる資格がないと思っているのも同じ理由です(Wii&DSの大ヒットを見てインタフェースの重要性は嫌と言うほどわかったでしょうから、今後SCEも変わってくるかも知れませんけど)。
このテーマでも記事を書こうかと思っていましたが、あの記事が反響を頂いたおかげでゲーム業界関係者の方の意見をたくさん聞くことができまして、自分みたいな業界外の人間が偉そうなことを書くのもどうなんだろう、とちょっと迷ってます。この記事の本文の主張の通り、僕は「自重はダークサイド」派ではあるんですけどね。。
ところで、PSのデュアルショックのアナログスティックと振動機能って、64の3Dスティックと振動パックのパクリだと思っていたんですが、twitterでこんな意見を頂きました。
販売タイミングは振動パックが先だけど、デュアルショックは半年しか発売がずれててないから開発はほぼ同時進行だったと考えるべき。たった半年で入力デバイスを後だしで開発/販売出来るほどゲームハード作りは甘くないよ
ちょっと調べてみた感じでは、デュアルショックの振動機能は振動パックのパクリ、というのが定説ではあるようですが、実際のところどうなんでしょうか?この点によって僕のSCEへの評価はガラっと変わってしまうので、詳細をご存じの方がいらっしゃったら教えて頂けると嬉しいです。
(さらにP.S)
振動パックという商品の発表そのものはもっと早かったので、SCEはアイディアをパクったということで非難されたのではないか、というご意見を頂きました。なるほど。アナログスティックに関しても似たようなものかも。
experienceを「エクスペアリアンス」とする表記につっこみを頂きましたが、たぶん本当は「イクスピアリアンス」ぐらいのほうが実際の発音に近いので、「エクスペリエンス」という表記はあまり好きじゃないんですよね。でも、こんな半端な表記するぐらいなら、定着してる「エクスペリエンス」のほうがいいような気がしてきたので、以後これで統一しようと思います。
ところで、「ユーザ・エクスペリエンス」という概念は今後ものすごく重要になるものだと思っているんですが、この言葉は長いし表記にゆれが生じやすいので嫌いです。適当な言い換えも思いつかないので、やむを得ずそのまま使っていますが、なんとかならないかなぁ。いい訳語があったら教えてください。
(さらにP.S)
頭文字を取ってUEとかUXとするというご意見を頂きました。Personal Computer → PC とか Internet Explorer → IE みたいなものもそれなりに定着してるし、たしかにこれもアリかも。
作者:hedachi
更新日:2008年10月15日 12時5分
「正義は勝つ」から任天堂は勝つ
勝間和代氏が任天堂について書いた記事を見つけた。
競争相手を生かさず殺さず・任天堂の収益性が高い理由 ビジネス-最新ニュース:IT-PLUS
フィナンシャル・タイムズ紙はその理由を、以下の2つと分析している。
(1)任天堂が「Wii」の製造を始め、極力アウトソーシングで行っていること。従業員は3000人足らずしかいない。
(2)利益の割に1人当たりの人件費が安いこと。ゴールドマン・サックスの2007年の従業員1人あたりの平均給与は66万ドルであったが、任天堂の平均は9万900ドルでしかない。
とはいえ、任天堂の1人当たりの収益性が高い理由を、アウトソーシングと人件費に求めるだけではどうもまだしっくりこないので、なぜ任天堂がそのような高い収益性のビジネスモデルを維持できるのか、もう少し考えてみたい。
フィナンシャル・タイムズ紙の分析は、数字しか見ていない薄っぺらな素人見解で、ここについては同感。勝間氏のほうは、表題の「任天堂の収益性が高い理由」を3つを挙げている。これを順に考察してみる。
(1)ほとんどの会社が真似できないほどの多額の研究開発費を使える
これだけだとあまり説得力がないけど、勝間氏自身も、
しかし、研究開発費だけを見ると、「プレイステーション」を作っているソニーは年間900億円をつぎ込んでいて、任天堂の倍である。それでもなぜ、ソニーは任天堂ほどもうからないのか、その鍵はこれからの項目にある。
と言っているので置いておく。さて次。
(2)オーバースペックを避けて、試行錯誤で改善を繰り返している
任天堂とソニーの違いは、任天堂はゲーム機で高いスペックを追求するよりは様々なタイプの製品を投入して、一発勝負を避けるようにしていることだ。市場の反応を見たうえで、試行錯誤を繰り返し、改善を続けていることにある。
「一発勝負を避けるようにしている」という認識は間違っている。任天堂はWii、DS、バーチャルボーイなど、斬新であるがゆえに計算の立たないようなゲーム機を、莫大な開発費をかけて何度も投入してきた。そしてバーチャルボーイでは見事にコケている。
特にゲームの配信システムについては何度も大々的に失敗しており、「スペックを追求しない」というのは正しいけど、それはリスク低減とは何の関係もない。これはゲーム屋からすれば当たり前の話で、ゲームにおいて重要なのはスペック(性能)ではなく、インタフェースなどを含めたユーザ・エクスペリエンス(ユーザ体験)である。ソニーはしょせん電機屋だから、スペックのような数値化できるものばかりを重視する文化があるだけで、ゲーム屋にとってはスペックなんてゲーム機の一要素に過ぎない。本当に大事なのはユーザ・エクスペリエンスであり、だから任天堂は勝間氏の言うように「様々なタイプの製品を投入」するのだし、新しいゲーム機を出すたびに、コントローラの形状に徹底的な変更を加えてきたのである。
ということで、これもピントのずれた素人の意見である。しかし、
(1)と(2)を合わせると、ベンチャーキャピタルモデルということもできるだろう。多額の資金を投入し、試行錯誤を繰り返しながら、うまくいきそうな市場には大量に追加投資をして市場を育てていくのである。
この指摘は正しい。たまに「日本もシリコンバレー型に移行しろ」みたいな話(※)を見かけるけど、俺はこの指摘は間違っていると思う。試行錯誤は必要だけど、それを社会の中のどのレベルでやるべきかは文化によって異なる。日本の場合、会社を作ったり潰したりを頻繁に繰り返すスタイルは合わない。あれは個が強いぶん集団としてのまとまりを保つのが下手なアメリカ人向けのモデルであって、日本人には日本人の良さを生かしたやり方がある。その1つは任天堂のモデルである。
任天堂はプロジェクトをしょっちゅう途中で潰すので有名だけど(※)、これはシリコンバレーで行われているような試行錯誤を社内的にやっているということだ。会社そのものを作ったり潰したりする代わりに、プロジェクトのレベルで作ったり潰したりするのである。任天堂は昔からこのスタイルを貫いて成功しているわけで、日本の企業が目指すべきはこのスタイルだと思う。そもそも国内に見本となる企業がいるのに、文化のぜんぜん違う海外のシステムをマネするようなリスクを犯す必要性があるだろうか。欧米のものをありがたがるのも程々にすべきだと思う。
(3) 限られたメンバーの抑制された競争を演出している
この見解は間違っている。素人は数字以外の違いがわからないから、ゲーム機本体の価格なんぞに目がいくんだろうけど、そんなものはゲーム機戦争においてそれほど重要なものじゃない。経済アナリストとかいった人々がこういう勘違いをする原因は、任天堂、ソニー、マイクロソフトが「ゲーム業界」という同じ土俵で戦っていると思っているからである。この3社がひとつの業界にいて、競合製品を作っていると考えるのは無理がある。実際には、3社とも全然違う方向を目指して、全然違うものを作っている。
任天堂は昔からカルタやトランプを作っていた、伝統あるゲームの会社である。でもソニーは電機屋だし、ソニーのゲーム業界で活動を担当するSCEは、社名からして「ソニー・コンピューター・エンターテイメント」なので、ゲームの会社ではなくて「コンピュータ・エンターテイメント」の会社だと思ったほうがいい。マイクロソフトについてはこの記事では触れないが、言うまでもなくゲームの会社ではない。SCEはゲームの会社ではないので、ゲームそのものにこだわりはない。コンピュータを使ったエンターテイメントのひとつとしてゲームがあって、たまたま今のところゲームが中心になっているだけである。実際、初代PSには既にCD再生機能があった。そしてPS2にはDVD再生機能がついていて、DVD再生機としてPS2を買う人が非常に多かった。その次には、黒歴史と化したPSX(PS2にハードディスク搭載DVDレコーダーをつけたもの、販売元はソニー)なんてものもあった。PSPもゲーム以外にさまざまな機能があることが売りである。
そして、PS3では明確にエンターテイメント・コンピュータを志向し、自らそう宣言していた。PS、PS2と連勝したSCEは既にゲーム業界を制圧したと考え、本来の自分の主戦場であるエンターテイメント・コンピュータ業界に視野を向けたのだろう。
PS3、“59,800円”の意味 - 後藤弘茂のWeekly海外ニュース
PS3はゲームコンソールではなく、エンターテイメントコンピュータとなり、オンライン経由のコンテンツなどの受け皿となり、“ある程度”オープンなプログラミング環境となる。そのためのHDD標準搭載とコストアップ、そしてコンピュータとしての価格設定を取ったということだ。
ゲームコンソールとしては明らかに高い価格は、それだけのバリューを提供できるという、SCEIの自信の表れと見ることもできる。また、ゲームコンソールと見られる限り、HDDを標準で載せたり、性能に見合ったコンピュータとしての価格がつけられないという束縛から脱却しようという意図の現れでもある。
このように、SCEと任天堂のあいだでは「ゲーム業界」に対するスタンスが決定的に違う。SCEにとっては、「エンターテイメント・コンピュータ業界」こそが制圧すべき場所であり、たとえゲーム業界が滅びても、エンターテイメント・コンピュータ業界がそのぶん伸びるならそれで構わないのである。だから、ゲーム業界そのものの将来を考えるインセンティブがないため、
一方の任天堂はゲームの会社であり、また日本のゲーム業界の生みの親でもあるので、ゲーム業界全体の将来を考える。これは任天堂が偉いとかいう話ではなく、自ら生み出したゲーム業界こそが任天堂にとってのホームグラウンドであり、一番戦いやすい場所だから、業界のリーダーとなってそれを守り育てていこうとすることは戦略的に見ても正しい。だからこそ任天堂は、昔からゲームの品質を保つことにはすさまじく高いこだわりを持っていた。多額の開発費を投入した後でも、ダメだと判断したプロジェクトは潰してきた。このこだわりのゆえに「NINTENDO64」対「初代PS」の時代には少数精鋭主義を取り、広く門戸を開いてたくさんのサードパーティを集めたSCEに足下をすくわれたりもした。そして、創業家出身の3代目社長だった山内溥が4代目に抜擢した岩田聡は、こんな人物だった。
岩田聡 - Wikipedia
彼はHAL研究所時代から、「ゲームを豪華に、そして高度で複雑なものとするだけでは、ゲーム熟練者(ヘビーゲーマー)に飽きられ、今までゲームに触ったことのない初心者にもとっつきにくいものになり、市場がゆっくりと死んでしまうのではないか」という考えを持っていた。
たとえ任天堂がゲーム業界を制覇しても、その業界がしぼんでいってしまうようでは意味がない。ゲームヲタクが喜ぶようなゲームばかりを作るのではなく、新たなユーザを取り込み、業界全体を活性化させなければならない。任天堂は業界のリーダーとしてそう考えるべきであり、岩田はそのトップたる資質を持っていた。
コントローラで勝負する任天堂「Revolution」 - 後藤弘茂のWeekly海外ニュース
2003年のスピーチで、岩田氏は、ゲーム業界に対する任天堂の現状認識を明確にした。ゲーム業界はファミコンから20年、順調に発達して来た。しかし、今、業界は発展するか衰退するか、岐路に立っているという。今までと同じこと(映像やサウンドを豪華にする)を続けていれば発展すると考えている人は多いが、任天堂はそう考えていない。ゲーム市場を拡大しなければ活路はなく、問題は市場(=ゲーム人口)をどうやって拡大するかにあるという。シンプルに意訳すれば、Xbox 360やPLAYSTATION 3のようなアプローチでは、ゲーム人口を拡大しないから、ゲーム市場は衰退すると言っているわけだ。
そして、こうした現状認識のもとに、2003年から、任天堂が進めてきたのは次の3つのポイントだという。
(1)ゲームから離れてしまった人を呼び戻す
(2)新たに今までゲームをしていなかった人を呼び込む
(3)ゲーム熟練者もゲーム初心者も楽しめる新しい商品を提案する
岩田就任後、DS、Wiiと立て続けに革新的なゲーム機を投入して大ヒットさせた任天堂の快進撃についてはここで書くまでもないだろう。立て続けとは言っても、実はDS発売時は「ゲームボーイアドバンス2」という後継機種(画面がひとつ)も並行してつくっていたらしいので、岩田は最初からハイリスク・ハイリターンな戦略を取ったわけではない。DSが大当たりしたので、従来の延長線上にあったゲームボーイアドバンス2には見切りをつけ、さらにWiiという冒険的なゲーム機を投入するリスクを犯すことができた。そしてそれがまた当たったというわけだ。
岩田率いる任天堂は「業界からSCEやマイクロソフトを駆逐してやろう」なんていうケツの穴の小さいことは考えていなかった。ゲーム業界のリーダーとしての自覚を持ち、レッドオーシャン(既存の市場)でのパイの奪い合いに終始することなく、ブルーオーシャン(未開拓の市場)へと舵を切って成功した。実際、DSがあれほど記録的に売れたにもかかわらず、PSPもそこそこ売れている(※)のを見てわかる通り、従来の延長線上にあるSCEのゲーム機と、任天堂のゲーム機はそれほど競合しない。両者がもたらすユーザ・エクスペリエンスが決定的に違うからである。任天堂がブルーオーシャンへと向かってくれたおかげで、PSPもビジネス的には成功し、任天堂は業界全体の活性化に成功した。PS3についてはSCEが勝手にコケただけで、普通にPS2の延長線上のものを作っていれば、PSP程度の成功は収めた可能性が高い。スペックの高いゲーム機でゲームをしたいという需要はそれなりにあって、任天堂はその需要を切り捨てたからである。
「競争相手を生かさず殺さず」を任天堂の収益性の高さの理由とする勝間氏の分析は、任天堂がSCEやマイクロソフトを潰しに行っていないという意味においてのみ正しいが、やはり的外れである。では何が理由なのかというと、それは表題の通りで、
から任天堂は勝ったのだと思う。収益性が高い理由も同様だ。これは精神論ではない。ここで述べたいのは「戦略としての正義」の有効性である。もちろん正義は常に勝つとは限らないけど、統計的に言えば「正義は勝つ」のである。
任天堂は業界のリーダーとして常に高い志を掲げて、面白いゲームを作ることを目指し、ゲーム業界の発展を目指してきた。この理想はゲーム業界にとって紛れもない「正義」だった。だからこそ、任天堂の社員は高い士気とプライドを持ち、ゲーム開発者たちは任天堂に敬意を持ち、俺のような「任天堂信者」を多数作ることができた。これは「正義」のもたらす直接的なアドバンテージである。
SCEが「ゲーム業界」そのものについてさほど重視していないことは明らかなことで、ゲーム業界にはSCEを悪者扱いする人も多かった。「作る側」に近い意識を持つ人ほど多かったと思う。小さい頃からゲーム業界を志していた俺も、SCEが市場を支配しはじめるとアンチソニーになり、任天堂ファンになった。その前は任天堂のことは好きでも嫌いでもなかったけど、SCEの登場によって任天堂こそがゲーム業界のリーダーにふさわしいことが分かった。もちろん、任天堂だっていろいろ汚いこともやってるし、流通をはじめとして問題点も多い。でも、任天堂はSCEよりもゲーム業界全体のことを考え、ゲーム業界のためになることをやろうとしていた。ゲーム業界にとっては、明らかに任天堂が「正義」だったのだ。
実は、SCEがゲーム業界の「正義」だったこともあった。それはSCEの参入直後の時期で、連戦連勝していた任天堂が殿様商売をしていた頃である。SCEの開発力は、ソフトにおいてもハードにおいても任天堂とは絶望的に差があった(今もあるけど)。そこでSCEは、安価で高速に生産できるCD-ROM、低いライセンス料、優れた流通体制、低い開発コスト、低い参入基準などによって、サードパーティ、小売店、ユーザを引きつけ、ゲーム業界の「正義」となった。だからSCEは勝つことができたのである。でも、結局のところSCEはソニーの子会社であり、ゲーム業界の運命共同体ではないので、長期的にはゲーム業界のためになることをしようとはしない。人間と一緒で、こういう全体のことを考えられない奴は将器ではないのである。ゲーム機ではなくエンターテイメント・コンピュータを作ろうとしているSCEは、明らかにリーダーにふさわしくなかった。だから、リーダーを追い落とした途端に業界を衰退へと向かわせ、結局はSCEと違って業界全体のことを考えていた任天堂に負けた。SCEはゲーム業界にとって明らかに悪い支配者だったのである。
とはいえ、正義と悪は相対的なものだ。SCEの掲げた方向性はゲーム業界にとっては悪だったが、たぶんエンターテイメント・コンピュータ業界にとっては正義だったんだろう。問題は、そこには住人がいなかったことだ。もちろん今もいない。将来この業界が成立するとすれば、そこの住人から見て任天堂は「悪」となるだろう。SCEが作ろうとしたエンターテイメント・コンピュータ業界の芽を摘んだものとして歴史に名を刻まれるからだ。でも、既にゲーム業界にはたくさんの住人がいて、エンターテイメント・コンピュータ業界にはまだぜんぜん住人がいないのだ。
正義と悪がいれば、人は正義に味方する。ゲーム業界の住人は任天堂を正義として支持する。一方、SCEの基盤とするエンターテイメント・コンピュータ業界には住人がいない。よってSCEが負けることになる。これは社会の力学の問題である。正義であることは常に有利で、そこには目に見えないたくさんの力が集まるのだ。ゲーム屋である任天堂の理想はゲーム業界の理想と一致するが、SCEの理想は一致しない。もちろんマイクロソフトも。だから、ゲーム業界で戦う限り、最終的には任天堂が勝つのである。
任天堂は今後もブルーオーシャンを開拓し続けるだろうから、たまにはバーチャルボーイのような失敗作(※)を作ることもあるだろう。64時代の少数精鋭主義のような誤った戦術を取ることもあるだろう。でもそんなことは、大局的な戦略の正しさに比べれば些細なことだ。任天堂はいいゲームを作ることを追求しつづけているし、いつでも業界全体の発展を目指している。これはゲーム業界にとって明らかに正義であり、任天堂の戦略の根底にはこの正義が根付いているから、任天堂は「戦略としての正義」によるアドバンテージを享受し続けるのである。
フィナンシャル・タイムズが言っているような任天堂の長所は結果に過ぎない。勝間氏が言っていることも素人の推測に過ぎない。任天堂が勝ち続ける理由は、任天堂が正義だからである。業界リーダーとしての自覚とともに背負う責任の重さが、任天堂をゲーム業界の正義たらしめる。そして、P・F・ドラッカーが指摘しているように、責任を背負うものにこそ力は与えられるのだ。
任天堂がゲーム業界の外で戦おうとするなら話は変わる。でもゲーム業界は、阪神タイガースにとっての甲子園みたいなもので、だいたい任天堂が勝つようにできているのである。先代社長の山内溥はこのことをよくわかっていて、”岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間みっちりと経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した”そうだ(Wikipediaより)。
しかし、ゲーム業界が衰退期に入っているのは事実で、実は岩田はこの先代の教えを忠実に守っているわけではない。DSがヒットしたのは「脳トレ」などのいわゆる「シリアスゲーム」(実用性のあるゲーム)のおかげであり、Wiiでも「Wii fit」のような到底ゲームではないようなものが主戦力になっている。これらはゲームと呼ばれているだけで、本質的には明らかにゲームではないものであり(200万本以上の大ヒットとなった「えいご漬け」なんて誰が見たってゲームじゃない)、実際にはゲーム機で動くゲームでないものが売れているだけで、ゲームそのものは明らかに売れなくなっているのである。だから、任天堂のつくっているものが本当にゲーム機と言えるのかは怪しい。それでも任天堂は、自らの作るものを「エンターテイメント・コンピュータ」などと呼ばない。あくまでゲーム機であると言う。そして実際、ゲームのためのハードウェアを作っていて、他の用途は副産物である。任天堂はゲーム屋を自認し、ゲーム業界で戦い、ゲーム業界を見捨てない。従来のゲームに衰退の兆候が見えてきた今も、リーダーとしてゲーム業界全体を方向転換させ、守っていこうとしている。任天堂はゲーム業界にがっちりと根を張っているので、SCEのように汎用的で方向性のあいまいなハードをつくることはない。任天堂とゲーム業界は運命共同体であり、その理想はおおむね一致する。だから、任天堂はゲーム業界の正義であり続ける。
俺は、今の半分の歳のころから任天堂の正しさに確信を持っていたけど、任天堂が復活してここまで躍進するとは思っていなかった。でも任天堂は再びよみがえって「正義は勝つ」ということを俺に教えてくれた。だから俺も任天堂を見習って、正義と理想を貫いて生きていきたいと思う。
反響御礼記事:フェイルセーフなメディアとしてのインターネット
作者:hedachi
更新日:2008年10月7日 23時26分
サバイブSNSのバーベキュー行ってきた
「秋川国際マス釣場」というところでバーベキューしてきました。
「河原」「バーベキュー&釣り」「子供6人を含む20人超の大集団」という組み合わせがよかったのか、いつもにもまして楽しいオフでした。主なサバイブSNS外の参加者様は、
まなめさん(まなめはうす)
タケルンバ卿(タケルンバ卿日記)
和蓮和尚さん(キャズムを超えろ!)
と相変わらず無闇に豪華です。今回はサバイブのオフということになってはいますが、半分ぐらいサバイブ外の方で、いつもとは大分違う面子でした。
僕は始発に乗るために5時ごろ出発して、現地に着いたのが10時頃なので、考えてみるとそこまで5時間もかけたことになるんですが、道中もいろいろお話しながらで退屈しませんでした。
飲食店で人と会うときって、場所が狭くてあんまり話できない人が出たりするのが嫌なんですが、今回のオフはそういうことが一切なくて自由に動き回れたのがよかったです。広さって大事ですね。まなめさんは誰かの家でオフやったりすることが多いらしいんですが、やっぱりそのほうが楽しいかも。早期のサバイブハウス設立が望まれるところです。僕も引っ越したら自宅でいろいろやりたいな。
あと、小さい子がたくさんいのも楽しかったです。普通のオフ会だとこういう面子にはあんまりならないんだろうけど、僕はこんな感じのほうが好きだなぁ。いろいろ話は聞いていたひまわりさんのお子さんもかわいかったし(下の子はいやいや期だから?あんまり僕と遊んでくれませんでしたが)、弾さんの娘さんは釣りまくって(戦果7匹)エースだったし、みんな走り回ったり石を投げまくったりと最後まで元気で、子供のエネルギーのすさまじさを見せつけられました。帰りの車では寝ちゃってたんだろうな。
その後10人ほどで2次会に行って、最後に島さんとreponさんとコーヒーを飲みながらちょっと雑談して、24:00頃帰宅しました。前日2時間も寝てなかった割にはあまり眠気も疲れもありませんでしたが、今日はそのぶん眠くて2度も昼寝をしてしまいました。
参加者の皆さんおつかれさまでした。オフ会ってほんとに楽しいなぁ。
4日間をひたすら駆け抜けた記録 - タケルンバ卿日記
タケルンバ卿に抱かれても良い - reponの日記 ないわ~ 404 NotFound(暫定)
reponさんの記事といい、先日twitterで発覚したけまらしい出来事といい、タケルンバ卿のアイドルっぷりに嫉妬です。
作者:hedachi
更新日:2008年9月28日 21時12分
アルファブロガーのオフ会に紛れ込んできた
今日はlove_chocolateさんにお誘い頂いて、Geekなぺーじのあきみちさん、Attribute=51のぐりさんと飲んできました。と書くはずだったんですが、行ってみたらなんとタケルンバ卿(※)までいらっしゃって、すさまじくアルファブロガーな方々に囲まれた飲み会になりました。この面子に僕というのはどう考えても非常に場違いなんですが、あまり気にしないことにして楽しんできました。
ネットで知り合った方は中身が濃い方ばかりで面白いです。僕はあんまり自分が話をするのは得意ではなく、ひたすら聞き側にまわるタイプなんですが、オフ会で会う方とはだいたいスムーズにコミュニケーションができるみたいです。みんな考えてることが面白いから、聞きたいことは次から次へ沸いてきて、話題に困ることはないんですよね。テレビとか時事、流行みたいな「普通の話題」が主体になる集まりは苦手なんですけど……
第1回サバイブオフ以来、週1~2回のペースでオフ会に参加してますが、飽きる気配はありません。最近まで自分のことを非社交的な性格だと思ってたんですが、それは普通の人にたいしての話で、普通じゃない人(褒め言葉です)に対

今日は1週間ぶりぐらいに出勤したんですが(しかも12時過ぎのダラダラ重役出勤)、唐突にそんなことをしてみました。師匠も社員のDさんもわりとリアクション薄かったけど、師匠の手づくり雑炊が旨かったので満足です。代わりにうさぎのはっちゃんが今までにない反応を見せてくれたんですが、あれってカツラのせいなのかな?